葬制の沿革について

5話 五

1,384字 約3分 2025年5月17日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 墓地には斯の如く、もと二つの種類があつて、假に區別の名を設けるとすれば一方を葬地、他の一方を祭地とでも謂はなければならなかつたことは、現在各地方の仕來りの中からでも、可なり明瞭に之を實證することが出來るやうに思ふ。自分の舊友の一人は福島縣の伊達郡の或村に行つて、公の文書には墓地とあつて、其實立派な山林である例を見たと謂つて居る。自分も二十年ばかり前に、越後北蒲原郡の海に近い縣道を通つて居て、路の片方の松林が、樹齡の餘りに不揃ひであるのに心付いたことがある。よく見ると三年五年の若松の栽ゑてある下は、何れも人を埋めた土饅頭であつたので、始めて此邊の埋葬法が一種植樹の風を伴なうて居ることを知つたのである。其後又千葉縣長生郡のある淋しい海濱に於ても、松原の處々にカナメ・モチノキ等の闊葉樹が栽ゑてあるのを見た。是は偶然に其間に新墓があつて、例の犬除けの竹を傘の骨の形に刺し蔽うて居るので、いと容易に此邊にも三昧を林とする風習があることを認めたのである。

 或は又樹の苗をす代りに、石を置いた例もあつたかと思ふ。今は陸軍の砲術練習地に化した三河の伊良湖岬の村などでも、三十年前に自分が滯在して居た頃は、寺の麓にまばらな松林があつて、常は兒童の遊び場になつて居たが、よく見ると砂地に澤山の海石が散亂して居て、其一つ/\の在り處が葬地であつた。石碑は松林の片端にも少しあつたが、多くは岡の上の寺の庭に在つた。但し盆には雙方に於て祭をして居たやうに思ふ。大きさ一尺足らずの自然石の、形と色とによつて銘々の家の葬地を、見分けるのだと村の人は言つたが、果して其記憶はどの位續くものであつたらうか。事によると寧ろ適當なる期間の後に、忘れてしまふことを必要として居たのでは無いかと思ふ。相州小田原の町で或寺の墓地を偶然に訪れたことがあつたが、茲でも只の人の墓じるしは、多くは手頃のやゝ三角形の海石であつた。快活な話でも無いから人は滅多に斯ういふ事柄には觸れぬが、墓地の面積は何れの村でも制限せられて居る。永い年代に亙つて之を使用しようとすれば、到底今日の樣に一人々々の爲に、文字を刻した石塔を建て竝べて行くことは出來なかつた筈で、從うて現在の墓制のさう古くから持續したもので無かつたといふことは推測せられるのである。

 日本には限らず、墓制は一般に舊國の大なる一つの惱みであつた。最初には富あり權勢ある者が、地を占めて萬全なる保存の方法を講じようとすると、家々も亦各自の能力の許す限り、次第に其風を傳へるのは自然であつて、末には著しく生人の利害を侵蝕するか、然らざれば稍慘酷なる反動行爲を忍ばなければならぬのであるが、我邦は寧ろ特殊なる事情の下に、今頃漸く他の諸外國が解決せんとして居る問題を、幾分か早目に解決したかの姿がある。寺院が俗界の人情から超越して、單なる無縁有縁を標準に、多くの墓所を整理し得たことは其一つである。古く溯つては火葬の採用せられたことも、無論重要なる一つの改革であつて、それが在來の歴史家の認めて居る如く、果して外國教法の感化に過ぎなかつたとすれば、其結果から見て殊に幸福なる偶然といふべきである。何となれば假に我々の感情が之を甘なはず、又信仰が誘導してくれなかつたとしても、墓地擴大の傾向は結局何等か之に近い方法を以て、整理する必要を免れ得なかつたからである。

目次に戻る

目次