葬制の沿革について

6話 六

1,220字 約2分 2025年5月17日 公開

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 然るに我々の祖先の死靈に對する畏怖戒愼は、今よりも遙かに甚だしいものがあつた。如何に賢こい智慮分別であらうとも、之に基づいて突如として亡骸の取扱方を變へることは、今人も尚敢てせぬ所である。それが大昔に於て既に火葬の式を承認したのみならず、更に時代と共に漸次民間に普及して來たといふのは、少くとも古人の死に對する觀念の中に、之を自然の推移と解し得るだけの、若干の素地があつたからでは無いかと思ふ。墓地が寺院の管理に屬するやうになつてからも、始終無造作に過ぎたる更新が行はれ、都府では殊に度々の區劃整理があつて、移し動かし又取潰すことを、何とも思はぬ者が多かつたといふことも、やはり亦以前久しい間の心理が所謂野邊送りを以て記念保存の事業とせず、寧ろ一種の忘却方法の如く、認めて居た餘波であつたかも知れぬ。斯ういふ想像は一見したところ、家の名を重んじ先祖の祭を大切にした日本人の氣風と、或は兩立せぬ樣にも考へられるか知らぬが、兎に角に昔の葬法の簡略であつたことは事實であつて、それが我々の抱いて居た祖靈の信仰、家の固有の宗教と如何樣に調和して來たかといふことばかりが、今はまだ明瞭になつて居らぬのである。

 自分などの見た所では、古今葬制の變化を促すべかりし原因が、先づ三つ迄は算へられる。其一つは人の數の増加、第二には人の感覺が追々に纖細となつて、所謂あだし野の光景を目に觸れるに堪へなくなつたことである。第三には即ち戸の分裂、若くは家族關係の平等化とも名づくべきものであつたが、是だけは便宜上末段に於て敍べる。當初人が少なく林叢のなほ豐かであつた時代には、オキツスタヘの葬法は自然であつた。又最も平和なる魂と骸との分解方法でもあり得たのである。邑里が繁衍し往來の漸く加はるにつれて、此舊習は實は持續し難くなつて居たのであるが、社會はまだ之を劃一的に改革するまでの力を持つて居なかつた。問題それ自身が人の手を着けることを忌んだからである。京都は中世の終に近くまで、尚其外郊に古風なる五三昧を控へて居た。さうして一般の利用は可なりに亂雜なものになつて居たらしい。歴代朝臣の記録に、觸穢と言つたのは大部分五體不具の忌であつた。狗が人の骨をくはへて來たとか、烏が赤兒の手を庭上に落したからといふ類の記事が、幾らとも無く其中には見出される。單なる薄葬といふよりも、常民はまだ今日謂ふが如き土葬なるものを行はなかつたのである。偶然に世に遺されたる物語や繪卷の中からでも、その頃の樣子は十分に窺ひ知ることが出來る。火葬の方式が此間に於て採用せられたのも、又念佛の法師が專ら此方面の事務を委ねられるやうになつたのも、何れも由つて來る所は茲にあつたので、現行の慣例の如きは何人かの新たなる設計に基くといふよりも、寧ろ勢ひ窮まつて斯くの如く轉囘せざるを得なかつた迄であり、從つて地方によつて其變化が區々であつたとしても、それは少しでも意外なことでは無いのである。

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