葬制の沿革について

8話 八

1,146字 約2分 2025年5月17日 公開

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 自分などの想像では、京都の船岡や鳥邊野も、元は天然の林地であつたらうと思ふが、使用が激しくて、所謂北山上の露はなる光景を呈したのも、新しい事では無かつた。處々の濱邊や川原の墓地には、最初から十分の目隱しも無く、たゞ人が努めて其近くを避けて通るやうにして居たゞけのものも相應にあり、又少なくも近世の人は、それに馴れて居た。從つて越後上總で私の見た如く、葬地に必ず樹を栽ゑるといふ慣行は、寧ろ後代に始まつた美風とも考へられるので、それが全國に弘く行はれて居なくても不思議は無い。一般の法則としては、居邑周圍の最も閑寂なる一地を劃定して、そこに死者を送つて徐ろに魂と形骸の分離を期するのみで、村や屋敷の樣式が區々になると共に、作業薪水採取の方法が變化して來たと同じく、葬地にも亦色々の種類が出來て、今日の土葬と火葬とは、其内の最も必要多き地方から、徐々に普及して行つたものでは無いかと思ふ。海邊と山中の村とには、比較的久しく二者の必要を感じなかつたといつてよいのであらう。諸國のサイノカハラの中には、今でも地形から見て、曾て葬送の地であつたことの推測せられるものが少なくない。折もあれば一つづゝ考へて見たいと思ふが、差當りは茲にたゞ二つだけを掲げて置く。佐渡の西北隅、内外海府の境にある願(ねげ)の塞の河原は其一つである。現在は洞門の左右に澤山の石地藏を安置し、島の巡禮の是非拜んで通る路筋になつて居るが、實際は稍行きにくい岬の陰で、何れの民居よりも一番遠い荒磯端である。私は偶然に五人の漁夫と共にそこを過ぎたが、彼等は今でも可なり顯著なる怖畏を有つて居た。さうしてまだ地藏經の説くやうに、小兒だけの地藏とは考へて居らぬやうであつた。羽後飛島圖誌の記す所に依れば、此島でも絶壁で遮られた磯山のあなた面に海邊ながら塞の川原といふ地があつて、同じく石地藏を祭り石積みの神怪を説いて居るさうである。岡を越えてそこへ行く路の曲り角に在る家では、毎に夜深く此阪を登つて行く人の足音を聽いて、村に新佛の出來たことを知る習ひであつたといふ。それも僅かに三四十年前の話であつた。是と同じ話は陸中遠野郷の或村にもあつたと佐々木喜善氏は報じて居る。こゝの墓地はサイノカハラとは謂はず、小高い丘陵の上に在つて、之をデンデエノ(蓮臺野)と呼んで居るが、そこへ登る路の角にある小庵の主は、いつも死人の來る前に此足音を聽いたさうであつて、茲も飛島も一樣に謂ふ話は、ばた/\といふ藁草履の音と共に、大抵は何か獨り言をいひながら行く。中にはしく/\と泣いて行く女もあれば、はアと一つ溜息をついて通つたのもある。さうかと思ふとさも氣樂さうに、何か鼻唄を歌ひつゝ登つて行つたのもあるといふ。何にもせよ佛法では説明のしにくさうな幻覺であつた。

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