浮舟

6話

1,262字 約3分 2018年10月13日 公開

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「もしもし、貴方。」

 と(なまめ)かしい声。

 溝端(みぞばた)片陰(かたかげ)に、封袋(ふうたい)を切って晃乎(きらり)とする、薬の(すず)(ひね)くって、伏目に辰吉の(たたず)んだ容子(ようす)は、片頬(かたほ)微笑(ほほえみ)さえ見える。四辺(あたり)に人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無(あどけな)いものである。

 水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返(ひっかえ)して別荘の前をまた通らねば()らなかった。それから(みち)を折曲って、草生(くさはえ)の空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場(ステエション)方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋(わらや)のある。その中に、(ひさし)に唐辛子、軒に(だいだい)の皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいた(なか)に、字も絵も解らぬ大衝立(おおついたて)を置いた。

 宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労(つかれ)さえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。

 右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。

「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」

 (ふと)、片側の一軒立(いっけんだち)、平屋の白い格子の裡に、薄彩色の(すそ)をぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。

 黒髪は水が垂りそう、櫛巻の(ふッさ)りとした、瓜核顔(うりざねがお)の鼻筋が通って、眉の恍惚(うっとり)した、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子(くろじゅす)の帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪を(あざむ)く、下緊(したじめ)の浅葱に挟んで、――玉の(しのぶ)茶室(かこい)()った。――緋の袱紗(ふくさ)、と見えたのは鹿子絞(かのこしぼり)撥袋(ばちぶくろ)

 片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。

 薬の錫を持ったなり、浴衣の胸に()を当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、

「恐入りますな。」

「さあ何うぞ。」

 と云って莞爾(にっこり)した。が、撥を挙げて(えくぼ)を隠すと、向うむきに格子を離れ、(ほっそ)りした襟の白さ、撫肩(なでがた)(なまめ)かしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。

 すぐに、上框(あがりがまち)へすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖(つまさき)がほんのりと、常夏(とこなつ)淡く人を誘う。

 巽は(なお)(かま)わず格子を開けた。

「じゃあ御免なさいよ。」

 と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳(つるさわみやとし)とあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の()葭戸越(よしどごし)背姿(うしろすがた)に、(うっす)りと鉄瓶の湯気をかけて、一処(ひとところ)浦の波が月に霞んだようであった。

「恐入ります。」

 (おんな)は声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。

「拝借します。」

 と巽は其処の上框へ。

 二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、(しな)うような膝を()いて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子(しゅす)の帯がキクと鳴る、心の通う音である。

温湯(ぬるまゆ)にいたしましたよ、水が悪うございますから。」

「……御深切(ごしんせつ)に。」

 取った湯呑は定紋着(じょうもんつき)、蔦を染めたが、黄昏に、薄りと(あお)ずむと、宮歳の白魚(しらお)の指に、撥袋の緋が残る。

「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、(まぶた)(さっ)と色を染めた、二十三四が(えん)なる(かな)

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