6話 六
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「もしもし、貴方。」
と媚かしい声。
溝端の片陰に、封袋を切って晃乎とする、薬の錫を捻くって、伏目に辰吉の彳んだ容子は、片頬に微笑さえ見える。四辺に人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無いものである。
水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返して別荘の前をまた通らねば成らなかった。それから路を折曲って、草生の空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋のある。その中に、廂に唐辛子、軒に橙の皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいた裡に、字も絵も解らぬ大衝立を置いた。
宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労さえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。
右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。
「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」
唯、片側の一軒立、平屋の白い格子の裡に、薄彩色の裙をぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。
黒髪は水が垂りそう、櫛巻の房りとした、瓜核顔の鼻筋が通って、眉の恍惚した、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子の帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪を欺く、下緊の浅葱に挟んで、――玉の荵の茶室を起った。――緋の袱紗、と見えたのは鹿子絞の撥袋。
片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。
薬の錫を持ったなり、浴衣の胸に掌を当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、
「恐入りますな。」
「さあ何うぞ。」
と云って莞爾した。が、撥を挙げて靨を隠すと、向うむきに格子を離れ、細りした襟の白さ、撫肩の媚かしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。
すぐに、上框へすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖がほんのりと、常夏淡く人を誘う。
巽は猶関わず格子を開けた。
「じゃあ御免なさいよ。」
と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳とあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の室の葭戸越、背姿に、薄りと鉄瓶の湯気をかけて、一処浦の波が月に霞んだようであった。
「恐入ります。」
婦は声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。
「拝借します。」
と巽は其処の上框へ。
二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、撓うような膝を支いて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子の帯がキクと鳴る、心の通う音である。
「温湯にいたしましたよ、水が悪うございますから。」
「……御深切に。」
取った湯呑は定紋着、蔦を染めたが、黄昏に、薄りと蒼ずむと、宮歳の白魚の指に、撥袋の緋が残る。
「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、瞼に颯と色を染めた、二十三四が艶なる哉。