素戔嗚尊

12話 十二

1,143字 約2分 1999年8月27日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 素戔嗚(すさのお)はしばらく黙っていた。するとまた思兼尊(おもいかねのみこと)が彼の非凡な腕力へ途切(とぎ)れた話頭を持って行った。

「いつぞや力競(ちからくら)べがあった時、あなたと岩を(もた)げ合って、死んだ男がいたじゃありませんか。」

「気の毒な事をしたものです。」

 素戔嗚は何となく、非難でもされたような心もちになって、思わず眼を薄日(うすび)がさした古沼(ふるぬま)の上へ(ただよ)わせた。古沼の水は底深そうに、まわりに()ぐんだ春の木々をひっそりと(ほの)明るく映していた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやって、

「気の毒ですが、莫迦(ばか)げていますよ。第一(わたし)に云わせると、競争する事がすでによろしくない。第二に到底勝てそうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至っては、それこそ()骨頂(こっちょう)じゃありませんか。」

「しかし(わたくし)は何となく気が(とが)めてならないのですが。」

「何、あれはあなたが殺したのじゃありません。力競べを面白がっていた、ほかの若者たちが殺したのです。」

「けれども私はあの連中に、(かえ)って(にく)まれているようです。」

「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝ったら、あの連中はきっとあなたの相手を憎んだのに違いないでしょう。」

「世の中はそう云うものでしょうか。」

 その時(みこと)は返事をする代りに、「引いていますよ」と注意した。

 素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目(やまめ)一尾(いちび)溌溂(はつらつ)と銀のように(おど)っていた。

「魚は人間より幸福ですね。」

 尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、またにやにや笑いながら、彼にはほとんど通じない一種の理窟を並べ出した。

「人間が(かぎ)を恐れている内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思いに死んでしまう。私は魚が羨しいような気がしますよ。」

 彼は黙ってもう一度、古沼へ糸を(ほう)りこんだ。が、やがて当惑らしい眼を尊へ向けて、

「どうもあなたのおっしゃる事は、私にはよく分りませんが。」と云った。

 尊は彼の言葉を聞くと、思いのほか真面目(まじめ)な調子になって、白い顎髯(あごひげ)(ひね)りながら、

「わからない方が結構ですよ。さもないとあなたも私のように、何もする事が出来なくなります。」

「どうしてですか。」

 彼はわからないと云う口の下から、すぐまたこう(たず)ねずにはいられなかった。実際思兼尊の言葉は、真面目とも不真面目ともつかない内に、蜜か毒薬か、不思議なほど心を()くものが(ひそ)んでいたのであった。

(かぎ)が呑めるのは魚だけです。しかし私も若い時には――」

 思兼尊の(しわ)だらけな顔には、一瞬間いつにない寂しそうな色が去来した。

「しかし私も若い時には、いろいろ夢を見た事がありましたよ。」

 二人はそれから久しい間、互に別々な事を考えながら、静に春の木々を映している、古沼の上を眺めていた。沼の上には翡翠(かわせみ)が、時々水を(かす)めながら、(こいし)を打つように飛んで行った。

目次に戻る

目次