3話 三
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「いらっしゃいまし、ようこそ。――路之助も一度お伺い申したいと、いいいい、帰京早々稽古にかかって、すぐに、開けたものでございますから、つい失礼を。……今日はまたどうも難有う存じます。」
「御挨拶で恐縮ですよ。津山さん。私こそ、京都で、あんなにお世話になって。――すぐにもお礼かたがたお訪ね申さなければならなかったのですが、ご存じの、貧乏稼ぎにかまけましてね。」
「なぞとおっしゃる。……は、は、は。」
と笑いを手で蓋して、軽く咳した。小肥りにがっしりした年配が、稼業で人をそらさない。
「まったくですよ。ところでですね。ぶちまけた話ですが、万事、ちっとでも、楽屋の方で御心配を下さらないように――実は売場で切符を買ってと思いましたがね。」
「そんな水臭いことを……ご串戯で。」
「いや、ご馳走は、ご馳走。見物は見物です。実は、この京人形。」
お絹が上品な円髷で、紫仕立の柳褄、茶屋の蒲団に、据えたようにいるのです。
「たしか、今度の二番目の外題も、京人形。」
「序幕が開いた処でございまして、お土産興行、といった心持でござんしてな。」
「そのお土産をね、津山さん、……本箱の上へ飾ってある処へ……でしょう。……不意でしょう。まるで動いて出たようでしょう。並んでいる木菟にも、ふらふらと魂が入ったから、羽ばたいて飛出したと――お大尽づきあいは馴れていなさるだろうから、一つ、切符で見ようじゃありませんか、というと、……嬉しい、といって賛成は、まことに嬉しい。当方立処に懐中が大きくなった。」
「は、は、は。」
と蓋して、軽く笑う。津山の懐中の方が余程大きい。
「木戸へ差しかかると満員、全部売切れ申候だから、とにかく、連中で来て、一二度知ってるので、こちらに世話を掛けたんですが、つれがつれです、快よくあしらってはくれましたけれども、何分にも、ぎっしりで、席は一つもないというんで、止むを得ず……悪く思わないで下さい……まったく止むを得ず、茶屋から、楽屋へ声を掛けてもらったんですから。しかし、大入で、何より結構。」
「お庇様で、ここん処、ずっと売切っております。いえ、お場所は出来ます。いえ、決して無理はいたしません。そのかわり、他様と入込みで、ご不承を願うかも知れません。今日の処は、ほんの場の景気をお慰みだけ、芝居は更めてお見直しを願いとうございますので。……つきましては、いずれ楽屋へもお供をいたしますが、そのおつれ様……その、京人形様。――は、は、は――の処は、何にもおっしゃらず、ご内分に。――いえ、あなた様のおつれでございますから、仔細はないのでございますがな、この役者なかまと申しますものは、何かとそのつきあいがまた……煩いのでして、……京から芸妓はんが路之助を追駈けて逢いに来たわ、それ蕎麦だ……などと申すわけで、そうでもないのに、何かと物騒、は、は、は。」
両三度、津山の笑いは、ここで笑うのにあらかじめ用意をしたらしいほど、式のごとく、例の口許をおさえて、黙然を暗示しながら、目でおどけた。
「……は、は、は、と申すわけで。お含みを。――ああ、八さん、お茶を入れかえて……そう、宜しい。何、ぼくにか、はて、忙しい。は、は、は。いやいずれ今ほど。――お場所が出来ましたそうでございますから。」
膝で辷って、津山が立つのと入交って、男衆が階子段の口でお辞儀をして、
「では、ご見物を。」
「心得た。」
見ますとね、下の店前に、八角の大火鉢を、ぐるりと人間の巌のごとく取巻いて、大髻の相撲連中九人ばかり、峰を聳て、谷を展いて、湯呑で煽り、片口、丼、谷川の流れるように飲んでいる。……何しろ取込んで忙しそうだ、早いに限ると、外套を脱いだ身軽です。いきなり下りると、
「へい、行ってらっしゃいまし。」
帳場で女の声がしたかしないに、
「危い!」
わッと響くのが一斉で、相撲が四五人どッと立った。いずれも大ものですから、屋鳴り震動の中に、幽に、トンと心細い音が、と見ると、お絹のその姿が階子段の上から真横になって、くるくるトトトン、褄がばッと乱れて、白い脛、いや、祇園での踊手だと聞く、舞で鍛えた身は軽い、さそくの躾みで前褄を踏みぐくめた雪なす爪先が、死んだ蝶のように落ちかかって、帯の糸錦が薬玉に飜ると、溢れた襦袢の緋桜の、細な鱗のごとく流れるのが、さながら、凄艶な白蛇の化身の、血に剥がれてのた打つ状して、ほとんど無意識に両手を拡げた、私の袖へ、うつくしい首が仰向けになって胸へ入り、櫛笄がきらりとして、前髪よりは、眉が芬と匂うんです。そのまま私の首筋に、袖口が熱くかかったなり、抱き据えて、腰をたてにしたまで、すべて、息を吐く隙がない。息を吐く隙がありません。
土俵が壊れたような、相撲の総立ちに、茶屋の表も幟を黒くした群衆でしょう。雪は降りかかって来ませんが、お七が櫓から倒に落ちたも同然、恐らく本郷はじまって以来、前代未聞の珍事です。
あまりの事に、寂然とする、その人立の中を、どう替草履を引掛けたか覚えていません。夢中で、はすに木戸口へ突切りました。お絹は、それでも、帯も襟もくずさない。おくれ毛を、掛けたばかりで、櫛もきちんと挿っていましたが、背負上げの結び目が、まだなまなまと血のように片端垂って、踏みしめて裙を庇った上前の片褄が、ずるずると地を曳いている。
抱いて通ったのか、絡れて飛んだのか、まるで現で、ぐたりと肩に凭っかかったまま、そうでしょう……引息を吻と深く、木戸口で、
「ああ、お婿はん。」……
と泣くようにいった。生死の最中、洒落どころではないのですが、これは京都で、連中が、女形の客だというので(お婿はん、お婿はん。)と私を、からかったのが、つい出ました。
「……わて、もう、死ぬるか思うた。」
と、目が澄んで、熟と視て、颯と顔色が蒼ざめたんです。
「あんたはんに恥を掻かせた、済まんなあ、……生命の親え。」
「…………」
「二階を下りしなに、何や暗うなって、ふらふらと目がもうて、……まあ、私、ほんに、あの中へ落ちた事なら手足が断れる。」
という声も、小刻みで東へ廻る。茶屋の男は木戸口に待っていたが、この上極りを悪がらせまい用心で、見舞もいわない、知らん顔で……ぞろぞろついて来た表口の人だかりを、たッつけを穿いた男が二人、手を挙げて留めているのが見えました。
そッと屈んで、
「へい、こちらへ。」――
土間、桟敷、二、三階、ぎっしり一杯。成程、やっと都合がついたのだと見えて、四人詰めに、上下大島ずくめなのと、背広の服のと、しかるべき紳士が二人いましたが、これが、そのまま、腰に瓢箪でもつけていそうな、暖簾も、景気燈も、お花見気分、紅い靄が場内一面。舞台は、切組、描割で引包んだ祇園の景色。で、この間、枝ぶりを見て返ったばかりの名木の車輪桜が、影の映るまで満開です。おかしい事には、芸妓、舞妓、幇間まじり、きらびやかな取巻きで、洋服の紳士が、桜を一枝――あれは、あの枝は折らせまい、形容でしょう。――もう一人、富豪――成金らしい大島揃が、瓢箪をさげている。
一つ桟敷――東のずっと末でした――その妙に、同じような先客が、ふと気がさしたと見えて――挨拶をした時は、ふり向きもしなかったのが――お絹をこの時見返って、愕然とした様子です。……
ところで、何でも、その桜の枝と、瓢箪が、幇間の手に渡るのをきっかけに、おのおの賑やかなすて台辞で、しも手ですか、向って右へ入ると、満場ただ祇園の桜。
花咲かば告げ むといいし山寺の……
ここの合方は、あらゆる浄瑠璃、勝手次第という処を、囃子に合わせて謡が聞える。
使は来たり馬 に鞍、鞍馬の山のうず桜……
「牛若の仮装ででも出ますかね、私は大の贔屓です。」
恥ずべし、恥ずべし。……式亭三馬嘲る処の、聾桟敷のとんちきを顕わすと、
「路之助はんが、出やはるやろ。」
お絹の方が知っている。ただしこの様子では、胸も痛めず、怪我はしない。
しゃり、り、揚幕。艶麗にあらわれた、大どよみの掛声に路之助扮した処の京の芸妓が、襟裏のあかいがやや露呈なばかり、髪容着つけ万端。無論友染の緋桜縮緬。思いなしか、顔のこしらえまで、――傍にならんだのとそっくりなのに、聾桟敷一驚を吃する処に、一度姿を消した舞妓が一人、小走りに駆け戻るのと、花道の、七三とかいうあたりで、ひったり出会う。何でもお客が大変待あぐんで機嫌が悪い、急いで迎いに、というのです。
路之助の姉芸妓が、おおしんど、か何かで、肩へ色気を見せたのですが、
「えろう遅うなって、ご苦労え、あのな、ついそこで、いえ、あのな、むこうへ、……境はん。」
おや。
「あんたも知ってやろ。境はんが来やはって、逢いとう逢いとうていた処やろ、それやよって。」
とこっちを視て莞爾。――
「いやや、驕んなはれ。」
と舞妓が入交って、トンと揚幕の方から路之助の脊筋を敲いた。
「おお、晴がまし。」
お絹が、階子段を転げた時から、片手に持っていた、水のように薄色の藤紫の肩掛を、俯向いた頬へ当てたのです。
――舞台、舞台ですか……
舞台どころじゃありません。その時うしろの戸が、悪く、静かに開いたと思うと、この、私の背中を、トンと、誰か、ぐにゃりとした手で敲いたんですから。
いま、戸が開いたと思うと同時に、可厭な気味合の冷アい風が、すうと廊下から入って、ちり毛もとに、ぞッと沁みたも道理こそ、十九貫と渾名を取る……かねて借金があって、抜けつ潜りつ、すっぽかしている――でぶでぶした、ある、その、安待合の女房が、餡子入の大廂髪で、その頃はやった消炭色紋付の羽織の衣紋を抜いたのが、目のふちに、ちかちかと青黒い筋の畳まるまで、むら兀のした濃い白粉、あぶらぎった面で、ヌイと覗込んで、
「大した勢いでございますのね。」
「ちょっと……出よう。」
……ですもの、舞台どころですか。――
「結構ですわ、ほんとに境さん、ご全盛で。」
「串戯だろう。」
「役者があなた、この大入に、花道で、名前の広告をするんだもの。大したものでなくってさ。」
と、くくり頤を揺って、しゃくる。
「あれは洒落だよ、洒落も洒落だし、第一、この人数だ、境というのは。」
売店があるから、ずんずん廊下を反れました。
「何も私一人というんじゃあなかろう。」
「うんえ、あの台辞で、あなたの桟敷を見て笑ったのを見て、それで気がついた、あなたの来ているのが。……といったわけなんですもの、やすい祝儀じゃでけんでねえ。」
と、どこかのなまりが時々出る。
「馬鹿を言いたまえ、路之助は友だちだぜ。――おかみさん、知ってるじゃないか。」
「それは存じておりますがね、ご全盛には違いませんね。何しろ、しがない待合を、勘定で泣かせようという勢いではありませんです。」
ないが上にもないものを、ありあまってでもあるように。催促の術をうらがえしに、敵は搦手へ迫って危い。
「一言もない。が、勢いだの全盛なぞは、そっちの誤解さ、お見違えだよ。」
「見違えましたよ、ほんとうに。」
と衣紋をたくして、
「大した腕だよ、見上げたあよう。」
「何が。」
「なにがじゃあないじゃないかね、といいたくなるよ。ふんとうに。……新橋柳橋、それとも赤坂……ご同伴は。」
「…………」
「ちょっと見掛けませんね、あのくらいなのは。商売がらお恥かしいんだけれど……三千歳おいらんを素人づくりに……おっと。」
と両袖を突張って肩でおどけた。これが、さかり場の魔所のような、廂合から暗夜が覗いて、植込の影のさす姿見の前なんですが。
「芸妓にしたという素敵な玉だわ……あんなのが一人、里にいれば、里の誉れ、まあさね、私のうちへ出入りをすれば、私の内の名聞ですのよ。……境さん、貸借も、もとは味方、勘定は勘定、ものは相談、あなたとはお馴染じゃありませんか。似合ったよ、恐れ入ったよ、ものになってる、容子がね。うんねさ、だからさ、一度連込んでおいでなさいよ。早い話が……今夜、これから帰りにさ。水打った格子さきへ、あの紫が裳をぼかして、すり硝子の燈に、頸あしをくっきりと浮かして、ごらんなさい、それだけで、私のうちの估券がグッと上りまさね。
兜町の、ぱりぱりしたのが三四人、今も見物で一所ですがね。すぐ切上げてもいいんですの。ちょっと一座敷、抜け荷を売りゃ……すぐに三十と五十さ、あなた。あなたの遊興は、うわになるわ。
もう一息、目を眠って、――直さん……」
(――直さんの意味詳ならず。談者、境氏に聞かんとして、いまだ果さざる処である――)
「ね、色悪で、あの白々とした甘い膚を貸すとなりゃ、十倍だわ。三百、五百、借金も勘定も浮いて出るじゃあないかねえ。」
酒と、女か、目にも口にも借りのある、聾桟敷のとんちきも、むらむらとして、我ながら姿見に色が動いた。
「何をいってるんだ――同伴はないよ。」
「あら。」
「誰も居やしない。」
「まあ。」
「私一人じゃあないか。」
「おやおやおや。」
「何を見たんだ。」
「ふん、しらじらしい、空ッとぼけもいい加減になさい。あなたがそういう了簡なら、いいから私は居催促をするから、ここへ坐っちまいますから、よござんすか。」
これこの十九貫、廊下へ、どすんと坐りかねない。
「仕方がない、じゃあ、ほんとうの事をいおう。」
「いわないでさ。そして、ちょっと顔を貸しますか、それとも膚を……」
「顔にも、膚にも……それは煙だ。」
「またかね、居催促ですよ、坐りますから。」
「あれは霞だ、霧なんだよ。」
「煙草のかねえ。」
「いや芸妓の……幽霊だ。」
「ええ。」
「この大入に、けちでもつけるようで可厭だから、いいたくはなかったんだが、どうもそうまでいわれりゃしかたがない。三千歳を素人とか、何とかいったね、それだ、そっくりだ。そりゃ路之助に憑絡ってる幽霊だ。いいえ、憑ものは、当人の背中に負さっているとは限らない――
実は祇園の芸妓だがね、私がこの間、彼地へ行っていたもんだから、路之助が帰るのに先廻りをして、私を便って来たらしい。またかと思う。……今いわれた時も慄然としてこの通り毛穴が立ってら。私には何にも見えないんだよ。見えないが、一人で茶屋へ休むと、茶二つ、旅籠屋では膳が二つ、というのが、むかしからの津々浦々の仕来りでね、――席には洋服と、男ばかり三人きりさ。それが、お前さんに見えたのは、幽霊に違いない。」
「ひええ。」
しめた。不断の大臆病。
「行って見たまえ、覗いてごらん、さあ。それが嘘なら、きっとあそこにいやしない。いても、目には見えないから。」
「気味の悪い……いやだねえ。」
「板一枚のなかは、蒸し上るばかりのこの人数だ。幽霊だってどうするものか。行って覗いて見たまえ、というのに。」
あたかもそこへ、魔の手が立樹を動かすように、のさのさと相撲の群が帰って来た。
「それ、力士連が来た、なお気丈夫じゃあないか。」
と、図に乗っていった。が、この巨大なる躯は、威すものにも陰気を浴せた。それら天井を貫く影は、すっくと電燈を黒く蔽って、廊下にむらむらと影が並んで、姿見に、かさなり映った。
「ここへ来た、幽霊が。」
「ひゃあ。」
「あ、力士の中に芸妓が居る。」
「きゃッ、あれえ、お関取。助けてえ。」
「やあ、何じゃい。」
縋りつかれた関取がたじろいで、
「どえらい頭じゃい。桟俵法師い。」
「お絹さん――お絹さん。ちょっと。」
戸を開けて、立ちながら密と呼ぶと、お絹は、金煙管に持添えた、女持ちの嵯峨錦の筒を襟下に挟んで、すっと立った。
前髪に顔を寄せ、
「何だか落着きません、一度、茶屋へ引揚げよう。」