白花の朝顔

4話

6,447字 約13分 2011年12月28日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 その夜も――やがて十一時――清水(きよみず)の石段は、ほの白く、柳を縫って、中空(なかぞら)に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を(つら)ね、()の扉を合せ、青蓮(せいれん)の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣(かつぎ)に包まれた一座の宝塔のように(きよ)(いつく)しく(そび)えて見ゆる。

 東口を上ると、薄く手水鉢(ちょうずばち)に明りのさしたのは、(ななめ)に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭(ぶっしょく)の霊を表して、竜燈……といっては少し(くら)い。しかり、明星の天降(あまくだ)って、(うつばり)を輝かしつつ、丹碧青藍(たんぺきせいらん)相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。

 見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、(ちり)も置かず、世の(はじめ)の生物に似た鰐口(わにぐち)も、その明星に影を重ねて、一顆(いっか)一碧玉(だいへきぎょく)(ちりば)めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を()め、扉に(みなぎ)って(おぼろ)なる霞を描き、舞台に靉靆(たなび)き、縁を(めぐ)って、井欄(せいらん)に数うる擬宝珠(ぎぼしゅ)を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。

 その霞より、なお(こまや)かに、(もや)に一面の胡粉(ごふん)()いて、墨と、朱と、(あい)と、紺青(こんじょう)と、はた金色(こんじき)の幻を、露に(みが)いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟(みみずく)は、道芝の中から生れて出たように上ったが。――

車夫(わかいしゅ)、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」

 (くるま)を二台、東の石段で下りたのです。

「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を()いてあげようか。芝居茶屋の階子段(はしごだん)のお手際では、この石段は覚束(おぼつか)ない。」

 などと、木菟が生意気にいうと、

「大事おへん、前刻(さっき)落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」

 などと京人形が口を利いた。

 手水鉢(ちょうずばち)で、(おおい)の下を、柄杓(ひしゃく)(さぐ)りながら、(しずく)を払うと、さきへ手を(きよ)めて、(べに)の口に(くわ)えつつ待った、手巾(ハンケチ)真中(まんなか)をお絹が貸す……

 勝手になさい。

 が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の(きざはし)の上には、一本ならべの軽い戸だが、(さく)のように閉ざしてあった。

(ぜん)は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」

「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」

「怪しからん、――向う側へ。」

 と、あとへ退(さが)って、南面に、不忍(しのばず)の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許(あしもと)辿々(たどたど)しい。

 さ、さ、とお絹の褄捌(つまさば)きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然(げきぜん)として、袖に褄に散る人膚(ひとはだ)の花の香に、穴のような真暗闇(まっくらやみ)から、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸を()めたのです。

「まず、(よし)。」

 西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。

 廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処(ひとところ)、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴(ほうふつ)として、二十六夜の月光のごとく拝される。……

 欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。

 その(こずえ)、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品(おもちゃ)(ころが)ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、()と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――

 この時、幹の黒い松の葉も、薄靄(うすもや)睫毛(まつげ)を描いた風情して、遠目の森、近い樹立(こだち)、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。

「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」

「おお晴がまし、勿体ないえ。」

 と、吃驚(びっくり)したように、半ばその美しさを思っていて、()じたように、舞台を小走りに西口の縁へ()げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、(まげ)(びん)(おお)いながら、曲る突当りの、欄干の交叉(こうさ)する擬宝珠(ぎぼしゅ)に立つ。

 踊の(なれ)で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片(はなびら)の軽い渦が舞って通った。

 袖()れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに(つぼみ)を含んで薄紅(うすあか)い。

「そこから見えますか、秋色桜(しゅうしきざくら)。」

「暗うて、よう見えへんけど……先度(せんど)昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」

「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」

「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」

 と、振返ると、顔をかくしたままの(うすもの)の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨(やさにら)みで(りん)とした。

花咲かば告げむと    いいし山寺の

使は来たり、馬に    鞍

くらまの山のうず    桜……

 ふと、前刻(さっき)の花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除(まよ)けの(じゅ)のように、わざと素よみの口の(うち)で、一歩(ひとあし)二歩(ふたあし)、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子(おんぞうし)。……それよりも(くすのき)氏の姫が、田舎武士(いなかざむらい)をなぶるらしい。――大森彦七――(そば)へ寄ると、――便(びん)のういかがや――と莞爾(にっこり)して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な(うち)にも背がほてった。

「やあ、洒落(しゃ)れてるなあ。」

 ――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る(ともしび)のように、細く(とも)して、薄く白い煙を(なび)かした、おでんの屋台に、車夫(わかいしゅ)が二人、丸太を突込(つッこ)んだように、真黒(まっくろ)に入っていたので。

(うらやま)しいようですね……串戯(じょうだん)じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ(くるま)を廻わしたのが、石段下に、変に(はるか)な谷底で、熊が寝ているようですから。」

「動物園かてあるいうよって、(そッ)と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」

 と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐(こわ)くはなさそうで。

「ほんに、谷底のようで(もや)が深うおすな、前刻(さっき)階子段(はしごだん)思出したら、目がくらくらとするようえ。」

 白い片掌(かたて)を田舎武士の背にあてて、

「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」

「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途(かえり)に怪我でもあると不可(いけな)い。」

「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身(はだかみ)で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」

 手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が(うな)った。魔を退きょうと太刀(たち)(つか)……洋杖(ステッキ)をカンとついて、

「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」

「ああれ。」

 (やみ)を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨(まきたばこ)で、半被股引(はっぴももひき)真黒(まっくろ)車夫(わかいしゅ)が、鼻息を荒く、おでんの盛込(もりこみ)を一皿、銚子(ちょうし)を二本に硝子盃(コップ)を添えた、赤塗の兀盆(はげぼん)を突上げ加減に欄干(ごし)。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に()(しか)め面で、ニヤリと笑って、

「へい、わざッとお初穂……若奥様。」

「馬鹿な。」

「ちょっと、手をお貸しなすって。」

「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」

「へへへ、煮加減(にえかげん)(よろし)い処と、お(かん)をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」

「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」

「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁(かごかき)と、車夫(くるまや)は、建場(たてば)で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご(ゆっく)り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加(みょうが)でして、へい、どうぞ、お初穂を……」

 お絹が柔順(すなお)に、もの(やわらか)に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、

「飛んだお供物、狒々(ひひ)にしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠(はげやしろ)犠牲(いけにえ)を取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉(くろもんどうすりばちおおやしゃ)とでもいうかなあ。」

 縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。

 (しい)の葉にもる風流は解しても、(いわし)のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて()げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄(かたづま)が、ずるりと前下りに、前刻(さっき)のままで、小袖幕の(ほころ)びから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。

 ――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処(ひかえどころ)で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入(ではいり)が続いたゆえ、ざっと夕餉(ゆうげ)を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお(くるま)は申しつけました……という、客あつかいに()れたもの。急所を(おさ)えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を(おさ)えて笑うと、お絹が根岸の藍川館(あいかわかん)――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑(ほほえ)んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。

 京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣(かみもうで)、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生(みぶ)の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。

 そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、(もや)の海の不知火(しらぬい)掻分(かきわ)けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」

「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし(ほろ)(なか)から、白木蓮(はくもくれん)のような横顔なのです。

「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑(みかん)の皮やら、南京豆(なんきんまめ)の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」

「成程、舞台(わき)の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻(こんにゃく)に、(がん)もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」

 巻莨(まきたばこ)硝子盃(コップ)を両手に、二口、三口重ねると、(おさ)えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。

「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」

 お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀(こはく)のように含んで、(ほっ)呼吸(いき)したが、

「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」

 もう一口。

「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって(のぞ)くようにするとな、ああ、灯が(とも)れかけの暗さが来て、逢魔(おうま)が時や思うたらな、路之助はんの(のぼり)沢山(たんと)、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」

「相撲のだね。」

「違います、女子(おなご)はんの。」

「…………」

「口をばこないにして。」

 と結んだ唇を、おくれ毛が(すご)く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。

可恐(こわ)い顔をして(にら)みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」

「路之助?……路之助の……」

 立女形(たておやま)、あの花形に、蝶蜂の群衆(たか)った中には交らないで、ひとり、束髪(たばねがみ)の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――

 請う、自惚(うぬぼれ)にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる(おもい)がした。

「何もな、何も知らんのえ、(あて)路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染(なじみ)の――源太はん、帯が(ゆる)む――いわはった(ひと)どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと(うら)みやはる。

 ……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ(ひびき)がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、()めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で()げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若(はんにゃ)の面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木(しゅもく)やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、()み、(もだ)えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結(ひきゆわ)え、引結えしておく伊達巻(だてまき)も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻(さっき)はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」

 それで、あの、階子段(はしごだん)――

 今度は大森彦七が踏みこたえた。

「神経だ、神経ですよ。」

 誰でもこの場は知識になる。

「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」

 誰でもこの場は凡夫になる。

「つらいこと。」

 と、(ななめ)にそむいて、

「あんたはんまで、そない言わはる、口惜(くやし)いえ。」

「が、しかし、つらいでしょう。」

 (たばこ)を捨てて硝子盃(コップ)を取って、

「そんな時は、これに限る。熱燗(あつかん)をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一(ちょう)なんざ、太神楽(だいかぐら)だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」

「やどへ行て。」

「成程。」

「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」

「飲ませますとも。」

「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命(いのち)の親どす。」

 真顔で、こうまでいわれたのには、酒が(つか)えた。胸の澄まない事がいくらある……

「お(ことば)で痛み入る。」

 と、もう一息ぐっと(あお)って、

「――実は串戯(じょうだん)だけれどもね、うっかり、人を信じて、生命(いのち)の親などと思っては不可(いけま)せん。人間は外面(そとづら)に出さないで、どういう不了簡(ふりょうけん)を持っていないとも限りません。

 こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説(くぜつ)でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」

「私をえ?」

「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」

「あんたはんがな。」

 前髪がふっくり揺れて…差俯向(さしうつむ)く。

「本望どすな。」

 と莞爾(にっこり)して、急に上げた瓜核顔(うりざねがお)が、差向いに軽く仰向(あおむ)いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。……

「あれえ。」

 声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷(まるまげ)が空ざまに振られつつ、

「蛇が、蛇が。」

「何、蛇が。」

「赤い蛇が。」

 赤い蛇は、(つま)の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。

「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」

 と欄干に、わなわな。

「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」

 と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套(がいとう)の袖で、背後状(うしろざま)にお絹を囲った。

「額の、額の。」

 ああ、(かすみ)に見ゆる観世音の額の金色(こんじき)と、中を(しき)って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条(ひとすじ)たらりと下っていた。

「紐だ、紐ですよ。何かの。」

 勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、

「あれ、……白い顔。」

 声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後(うしろ)から腰につかまった。

「上から(のぞ)かはる……どうしようねえ。」

 お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と()れて、この場合――ごみも(ほこり)もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと(ひじ)に乗ったのは、菅笠(すげがさ)です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋(とりすが)った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向(まうつむ)けになりました。

 おでんの膳なぞ一跨(ひとまた)ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の(ちり)を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔――

「朝顔?」

目次に戻る

目次