4話 四
読み方を変える
その夜も――やがて十一時――清水の石段は、ほの白く、柳を縫って、中空に高く仰がるる。御堂は薄墨の雲の中に、朱の柱を聯ね、丹の扉を合せ、青蓮の釘かくしを装って、棟もろとも、雪の被衣に包まれた一座の宝塔のように浄く厳しく聳えて見ゆる。
東口を上ると、薄く手水鉢に明りのさしたのは、斜に光を放った舞台正面にただ一つ掲げた電燈で、樹にも土にも、霊境を照らす光明はこの一燈ばかりなのが、かえって仏燭の霊を表して、竜燈……といっては少し冥い。しかり、明星の天降って、梁を輝かしつつ、丹碧青藍相彩る、格子に、縁に、床に、高欄に、天井一部の荘厳を映すらしい。
見られよ、されば、全舞台に、虫一つ、塵も置かず、世の創の生物に似た鰐口も、その明星に影を重ねて、一顆の一碧玉を鏤めたようなのが、棟裏に凝って紫の色を籠め、扉に漲って朧なる霞を描き、舞台に靉靆き、縁を廻って、井欄に数うる擬宝珠を、ほんのりと、さながら夜桜の花の影に包んでいる。
その霞より、なお濃かに、靄に一面の胡粉を刷いて、墨と、朱と、藍と、紺青と、はた金色の幻を、露に研いて光を沈めた、幾面の、額の文字と、額の絵と、絵馬の数と、その中から抜き出たのではない、京人形と、木菟は、道芝の中から生れて出たように上ったが。――
「車夫、ここだ、ここでおろして。……待っててもらおう。」
俥を二台、東の石段で下りたのです。
「逆縁ながら、といっては間違いかね、手を曳いてあげようか。芝居茶屋の階子段のお手際では、この石段は覚束ない。」
などと、木菟が生意気にいうと、
「大事おへん、前刻落ちたら、それなり、地獄え。上が清水様どすよって、今度は転んだかて成仏どす。」
などと京人形が口を利いた。
手水鉢で、蔽の下を、柄杓を捜りながら、雫を払うと、さきへ手を浄めて、紅の口に啣えつつ待った、手巾の真中をお絹が貸す……
勝手になさい。
が、こんなのが、初夜過ぎた霊場へ、すらすらと参られようはずはない、東の階の上には、一本ならべの軽い戸だが、柵のように閉ざしてあった。
「前は、こうではなかったはずです……不良でも入るか知らん。」
「こちらも不良どすな、おほ、ほ。」
「怪しからん、――向う側へ。」
と、あとへ退って、南面に、不忍の池を真向いに、高欄の縁下に添って通ると、欄干の高さに、御堂の光明が遠くなり、樹の根、岩角と思うまで、足許が辿々しい。
さ、さ、とお絹の褄捌きが床を抜ける冷たい夜風に聞えるまで、闃然として、袖に褄に散る人膚の花の香に、穴のような真暗闇から、いかめの鬼が出はしまいか――私は胸を緊めたのです。
「まず、可。」
西側の、ここの階段上は、戸はあるが、片とざしで開いていた。
廻廊の上を見れば、雪空ででもあるように、夜目に、額と額とほの暗く続いた中に、一処、雲を開いて、千手観世音の金色の文字が髣髴として、二十六夜の月光のごとく拝される。……
欄干に枝をのべて、名樹の桜があるのです。
その梢、この額と相対して、たとえば雪と花の縁を、右へ取り、舞台の正面、その明星と、大碧玉の照る処、京人形と木菟が、玩弄品の転ったようになって拝んだあとで、床の霞に褄を軽く、衝と出て、裏紫の欄干に、すらりと立った、お絹の姿は――
この時、幹の黒い松の葉も、薄靄に睫毛を描いた風情して、遠目の森、近い樹立、枝も葉も、桜のほかは、皆柳に見えた。
「ああ、綺麗だ。お絹さん――向い合った不忍の御堂から、天女がきっと覗いておいでだ。」
「おお晴がまし、勿体ないえ。」
と、吃驚したように、半ばその美しさを思っていて、羞じたように、舞台を小走りに西口の縁へ遁げた。遁げつつ薄紫の肩掛で、髷も鬢も蔽いながら、曲る突当りの、欄干の交叉する擬宝珠に立つ。
踊の錬で、身のこなしがはずんだらしい、その行く時、一筋の風がひらひらと裾を巻いて、板敷を花片の軽い渦が舞って通った。
袖摺れるほどなれば、桜の枝も、墨絵のなかに蕾を含んで薄紅い。
「そこから見えますか、秋色桜。」
「暗うて、よう見えへんけど……先度昼来ておそわった事があるよって、どうやらな、底の方の水もせんせんと聞えるのえ。」
「音羽の滝が響くんでしょうが、秋色は見えないはずだ。そこに立っているんだから。」
「またなぶらはる……発句も知らん、地唄の秋色はんて、どないしょ。」
と、振返ると、顔をかくしたままの羅の紫を、眉が透き、鼻筋が白く通って、優睨みで凜とした。
花咲かば告げむと いいし山寺の
使は来たり、馬に 鞍
くらまの山のうず 桜……
ふと、前刻の花道を思い出して、どこで覚えたか、魔除けの呪のように、わざと素よみの口の裡で、一歩、二歩、擬宝珠へ寄った処は、あいてはどうやら鞍馬の山の御曹子。……それよりも楠氏の姫が、田舎武士をなぶるらしい。――大森彦七――傍へ寄ると、――便のういかがや――と莞爾して、直ぐふわりと肩にかかりそうで、不気味な中にも背がほてった。
「やあ、洒落れてるなあ。」
――そのころは、上野の山で、夜中まだ取締りはなかったらしい。それでも、板屋漏る燈のように、細く灯して、薄く白い煙を靡かした、おでんの屋台に、車夫が二人、丸太を突込んだように、真黒に入っていたので。
「羨しいようですね……串戯じゃない、道理こそ。――来てごらんなさい、こちらの、西側へ俥を廻わしたのが、石段下に、変に遥な谷底で、熊が寝ているようですから。」
「動物園かてあるいうよって、密と出て来やはりしめえんか、おそろしな。」
と、欄干ぞいに、姫ぎみ、お寄りなされたが、さして可恐くはなさそうで。
「ほんに、谷底のようで靄が深うおすな、前刻の階子段思出したら、目がくらくらとするようえ。」
白い片掌を田舎武士の背にあてて、
「あの俥がひとりでに、石段を、くるくるまいもうて上って来たら、どないしょ、……火の車になっておそろしかろな。」
「お絹さん、そんなことをいうもんじゃあない。帰途に怪我でもあると不可い。」
「それでも、あの段、くるくる舞うてころげた時は、あて、ぱッと帯紐とけて、裸身で落ちるようにあって、土間は血の池、おにが沢山いやはって、大火鉢に火が燃えた。」
手を触れていて、肌をいう。大森彦七は胸が唸った。魔を退きょうと太刀の柄……洋杖をカンとついて、
「そんなことをいうから、それ、宙に火が燃えて来た、迎いに来た、それ。」
「ああれ。」
闇を縫って、くるくると巻いて来る、火の一点あり。事実、空間に大きく燃えたが、雨落に近づいたのは、巻莨で、半被股引真黒な車夫が、鼻息を荒く、おでんの盛込を一皿、銚子を二本に硝子盃を添えた、赤塗の兀盆を突上げ加減に欄干越。両手で差上げたから巻莨を口に預けたので、煙が鼻に沁む顰め面で、ニヤリと笑って、
「へい、わざッとお初穂……若奥様。」
「馬鹿な。」
「ちょっと、手をお貸しなすって。」
「馬鹿な、お初穂もないもんだ。いい加減おみってるじゃないか。」
「へへへ、煮加減の宜い処と、お燗をみて、取のけて置きましたんで、へい、たしかに、その清らかな。」
「馬鹿な、おなじ人間だぜ、くいものは、つッくるみだ。そんな事はかまわないが、大丈夫かい、あとで、俥は?」
「自動車の運転手とは違います、えへへ。駕籠舁と、車夫は、建場で飲むのは仕来りでさ。ご心配なさらねえで、ご緩り。若奥様に、多分にお心付を頂きました。ご冥加でして、へい、どうぞ、お初穂を……」
お絹が柔順に、もの軟に取上げた、おでんの盆を、どういうものか、もう一度彦七がわざとやけに引取って、
「飛んだお供物、狒々にしやがる。若奥様は聞いただけでも、禿祠で犠牲を取ったようだ。……黒門洞擂鉢大夜叉とでもいうかなあ。」
縁に差置いた湯気の立つおでんの盆は、地図に表示した温泉の形がある。
椎の葉にもる風流は解しても、鰯のぬたでないばかり、この雲助の懐石には、恐れて遁げそうな姫ぎみが、何と、おでんの湯気に向って、中腰に膝を寄せた。寄せたその片褄が、ずるりと前下りに、前刻のままで、小袖幕の綻びから一重桜が――芝居の花道の路之助のは、ただこれよりも緋が燃えた――誘う風にこぼるる風情。
――実は帯を解いて、結び直す間がなかった、茶屋が立籠んだからなので。――あれから、直ぐにその茶屋へ引上げて、吸物一つ、膳の上へ、弁当で一銚子並べたが、その座敷も、総見の控処で、持もの、預けもの沢山に、かたがた男女の出入が続いたゆえ、ざっと夕餉を。……銚子だけは手酌でかえた。今夜は一まず引上げよう、乗ものを、と思う処へ、番頭津山が急いで出て、もうお俥は申しつけました……という、客あつかいに馴れたもの。急所を圧えてこっちからは乗出させぬ。ご都合まで、ご存分な処まで、は、は、は、と口を圧えて笑うと、お絹が根岸の藍川館――鶯谷へ、とこの人の口でいうと、町が嬉しがって、ほう、と微笑んで鳴きそうに聞えた。寂しい処でございますな、境さん――これはお送り下さらないではなりますまい。……勿論。
京では北野へ案内のゆかりがある。切通しを通るまえに、湯島……その鳥居をと思ったが、縁日のほかの神詣、初夜すぎてはいかがと聞く。……壬生の地蔵に対するものは、この道順にちょっとない。
そこで、どこよりも清水だったが、待った、待った。広小路の数万の電燈、靄の海の不知火を掻分けるように、前の俥を黒門前で呼留めて「上野を抜けると寂しいんですがね、特に鶯谷へ抜ける坂のあたり、博物館の裏手なぞは。」
「寂しいとこ行きたい、誰も居やはらんとこ大好きどす。」すかし幌の裡から、白木蓮のような横顔なのです。
「大事ないどすやろえ、お縁の……裏の処には、蜜柑の皮やら、南京豆の袋やら、掃き寄せてあったよってにな。」
「成程、舞台傍の常茶店では、昼間はたしか、うで玉子なぞも売るようです。お定りの菎蒻に、雁もどき、焼豆府と、竹輪などは、玉子より精進の部に入ります。……第一これで安心して、煙草が吹かせる。灰もマッチ殻も、盆へ落すと。……よくない奴だ。――これはどうもお酌は恐縮、重ねては、なお恐縮、よくない奴だ。」
巻莨と硝子盃を両手に、二口、三口重ねると、圧えた芝居茶屋の酔を、ぱっと誘った。
「さあ、お酌を――是非一口、こういうことは年代記ものです。」
お絹も、心ばかり、ビイドロの底を、琥珀のように含んで、吻と呼吸したが、
「ああ、おいし……茶屋ではな、ご飯かて、針を呑むようどしたえ。ほんに、今でも、ひざのとこ、ぶるぶると震えるわ、菎蒻はんのようどすな。」
もう一口。
「あの、これから場所へいうて、二階の上り口へ出ましたやろ。下に大きな人大勢やよって、ちょっと立留まって覗くようにするとな、ああ、灯が点れかけの暗さが来て、逢魔が時や思うたらな、路之助はんの幟が沢山、しんなり揃う青い中から、大き大き顔が出てな。」
「相撲のだね。」
「違います、女子はんの。」
「…………」
「口をばこないにして。」
と結んだ唇を、おくれ毛が凄く切った、黒い蝶が不意に飛んだように。
「可恐い顔をして睨みはった。それがな、路之助はんのおかみはんえ。」
「路之助?……路之助の……」
立女形、あの花形に、蝶蜂の群衆った中には交らないで、ひとり、束髪の水際立った、この、かげろうの姿ばかりは、独り寝すると思ったのに――
請う、自惚にも、出過ぎるにも、聴くことを許されよ。田舎武士は、でんぐり返って、自分が、石段を熊の上へ転げて落ちる思がした。
「何もな、何も知らんのえ、私路之助はんのは、あんたはん、ようお馴染の――源太はん、帯が弛む――いわはった妓どすの。それをば何やかて、私にして疑やはってな、疑やはるばかりやおへん、えらいこと怨みやはる。
……よって、お客はんたちに分れて、一人で寝るとな――藍川館いうたら奥の奥は、鉄道線路に近うおすやろ。がッがッ響がして、よう寝られん、弱って、弱って、とろりすると、ぐウと、緊めて、胸倉とって、ゆすぶらはる、……おかみはんどす。キャアいうて、恥かし……長襦袢で遁げるとな、しらがまじりの髪散らかいて、般若の面して、目皿にして、出刃庖丁や、撞木やないのえ。……ふだん、はいからはんやよって、どぎついナイフで追っかけはる。胸かて、手かて、揉み、悶えて、苦して、苦して、死ぬるか思うと目が覚める……よって、よう気をつけて引結え、引結えしておく伊達巻も何も、ずるずるに解けてしもうて、たらたら冷い汗どすね、……前刻はな夢でのうて、なおおそろして、おそろして。」
それで、あの、階子段――
今度は大森彦七が踏みこたえた。
「神経だ、神経ですよ。」
誰でもこの場は知識になる。
「しかし、どうだか、その路之助一件は、事実なのでしょう。」
誰でもこの場は凡夫になる。
「つらいこと。」
と、斜にそむいて、
「あんたはんまで、そない言わはる、口惜いえ。」
「が、しかし、つらいでしょう。」
莨を捨てて硝子盃を取って、
「そんな時は、これに限る。熱燗をぐっと引っかけて、その勢いで寝るんですな。ナイフの一挺なんざ、太神楽だ。小手しらべの一曲さ。さあ、一つ。」
「やどへ行て。」
「成程。」
「あんたはん、のましてくりゃはりますか。」
「飲ませますとも。」
「嬉しいな、段で、抱いてくれやはった時から、あんたはんは生命の親どす。」
真顔で、こうまでいわれたのには、酒が支えた。胸の澄まない事がいくらある……
「お言で痛み入る。」
と、もう一息ぐっと呷って、
「――実は串戯だけれどもね、うっかり、人を信じて、生命の親などと思っては不可せん。人間は外面に出さないで、どういう不了簡を持っていないとも限りません。
こういう私ですがね、笑い事じゃあるけれども、夢で般若が追廻すどころか、口で、というと、大層口説でもうまそうだ。そうじゃない、心で、お絹さんを……」
「私をえ?」
「幽霊にしましたよ。ご免なさいよ。殺した事があるんだから。」
「あんたはんがな。」
前髪がふっくり揺れて…差俯向く。
「本望どすな。」
と莞爾して、急に上げた瓜核顔が、差向いに軽く仰向いた、眉の和やかさを見た目には、擬宝珠が花の雲に乗り、霞がほんのりと縁を包んで、欄干が遠く見えてぼうとなった。その霞に浮いて、ただ御堂の白い中に、未開紅なる唇が夜露を含んで咲こうとする。……
「あれえ。」
声を絞ると、擬宝珠の上に、円髷が空ざまに振られつつ、
「蛇が、蛇が。」
「何、蛇が。」
「赤い蛇が。」
赤い蛇は、褄の乱れた、きみの裾のほかにあるものか。
「膝が震えて、足が縮む……動けば落ちようし、どないしよう。」
と欄干に、わなわな。
「今時蛇が、こんな処へ。……不忍の池には白いのがいるというが。」
と、わざと落着いたが、足もとはうろつきながら、外套の袖で、背後状にお絹を囲った。
「額の、額の。」
ああ、幽に見ゆる観世音の額の金色と、中を劃って、霞の畳まる、横広い一面の額の隙間から、一条たらりと下っていた。
「紐だ、紐ですよ。何かの。」
勇を示して、示しついでに、ぐい、と引くと、
「あれ、……白い顔。」
声とともに、くなりと膝をついたお絹が、背後から腰につかまった。
「上から覗かはる……どうしようねえ。」
お聞きづらかろうが、そういった意味で、身震いをする勢いが手伝って、紐に、ずるずると力が入ると、ざ、ざ、ざ、と摺れて、この場合――ごみも埃もいってはおられぬ。額の裏から、ばさりと肘に乗ったのは、菅笠です。鳩の羽より軽かったが、驚くはずみの足踏に、ずんと響いて、どろどろと縁が鳴ると、取縋った手を、アッと離して、お絹は、板に手をついて、真俯向けになりました。
おでんの膳なぞ一跨ぎに、今度は私の方が欄干へ乗出して、外套を払った。かすりの羽織の左の袖で、その笠の塵を払ったんです。一目見ると分ったのです。女の蒼白く見えたのは、絵の具です。彩色なんです。そうして、笠に描いたのは、……朝顔――
「朝顔?」