白花の朝顔

6話

4,965字 約10分 2011年12月28日 公開

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「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといっても()い――鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房(おおのきもとふさ)という、歌人(うたよみ)で、また絵師(えかき)さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」

 こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。

 ……で、この歌人(うたよみ)さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人(なこうど)も、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家(よそ)のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。

 清瀬洲美(すみ)さんというんです。

 女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに(ひッ)かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の(りん)とした瓜核顔(うりざねがお)の……()標致(きりょう)

 申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の過失(あやまり)、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧(ざんき)のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な(てあい)は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者(じもの)、と(とな)えた。何だ、地ものか。

 薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯(じねんじょ)扱い。蓼酢(たです)松魚(かつお)だ、身が買えなけりゃ塩で()んで蓼だけ(かじ)れ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女(じおんな)を振りも返らぬ一盛(ひとさかり)。)そいつは金子(かね)を使ったでしょうが、こっちは素寒貧(すかんぴん)で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊(しゃぐま)取組(とっく)山童(やまわろ)の勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。

 お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――弥生(やよい)ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の(みぎり)、朝顔に人出の盛んな頃、入谷(いりや)が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁(しじみじる)冷豆府(ひややっこ)どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家(さと)の父が酒飲みですから、ほどのいい(かん)がついているのに、暑さに咽喉(のど)の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒(ひやざけ)を茶碗で(あお)って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて(あお)くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に()みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの()へ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。

 蚊がいますわ、と団扇(うちわ)で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗(きんしゃ)のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……

 今更贔屓分(ひいきぶん)でいうのではありません、――ちょッ、目力(めか)(助)編輯(へんしゅう)め、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣(ふんまん)はしたものの、私たちより、一歩(ひとあし)さきに文名を()せた才媛(さいえん)です、その文金の高髷(たかまげ)の時代から……

 平打の(かんざし)で、筆を取る。……

 銀杏返(いちょうがえ)し、襟つきの縞八丈(しまはちじょう)黒繻子(くろじゅす)(ひっ)かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……

 月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。

 ――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……常袴(つねばかま)の紺足袋で、炎天にも日和(ひより)下駄を穿(うが)つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で()ねて、ねッつりと歯をすかす、(ことば)のあとさきは、咽喉(のど)の奥の方で、おおんと、空咳(からぜき)をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑(おか)しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中(まんなか)が、ちょっと歯茎を(のぞ)かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時ば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉(あかとんぼ)(ひと)しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。

 郷里――秋田から微禄(びろく)した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。

 頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。

 ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の(よろい)ですから、ものほしそうな瓦斯織(がすおり)染縞(そめじま)で、安もの買の汗がにおう。

 こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人(たいじん)は、風通小紋(ふうつうこもん)単衣(ひとえ)に、白の肌襦袢(はだじゅばん)、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、(あぶら)が多いとお心得下さいまし。――綾織(あやおり)の帯で、塩瀬紺無地の(はかま)(ふさ)ついた、塗柄の団扇(うちわ)を手まさぐる、と、これが内にいる扮装(ふんそう)で、容体が分りましょう。

 鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極(したぎま)りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――(ある)学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、(よろ)しくば。」……も何もない。願ったり(かな)ったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――

 手細工らしい桔梗(ききょう)(ひじ)つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、(そっ)と見た時、なぜか、冷酒(ひやざけ)が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと()きました。

 時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。

 庭で蟋蟀(こおろぎ)の鳴くのが聞える。

 (つた)の葉の浴衣に、薄藍(うすあい)鶯茶(うぐいすちゃ)の、たて(じま)お召の袷羽織(あわせばおり)が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩(なでがた)を弱く(すべ)った藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色(ひいろ)無地の背負上(しょいあげ)(なまめ)かしい。おお、紫手絡(てがら)の円髷だ。透通るような、その薄化粧。

 金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間(なかま)の、しかも兄哥(あにき)が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土(たたき)へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に(すすき)(なび)いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの(えり)に映った。

 目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と(せき)して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――(さい)がね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも(あら)われるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お(かげ)でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として()きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的(しゃくねつてき)であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性(ひんせい)のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着(こうちゃく)でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪(いたたま)らなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶(ろうかとんび)だ。――森の夕鴉(ゆうがらす)などは性に合わない。

「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」

 まだ入れかえない葦戸(よしど)に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。

 その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛(はけ)毛氈(もうせん)(たぐい)でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中(まんなか)に、卓子台(ちゃぶだい)を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。

 三巴(みつどもえ)に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。

「すぐお(かん)がつきますが。境さん、さきへ冷酒(ひや)ですか。」

「いや、(たち)ものです。」

 と真中(まんなか)へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の(はかま)は、入口の茶棚(わき)を勢い(しか)るように及んで、着席です。

(ぎゅう)(よろ)しい……書生流に、おおん。」

 亭主のすきな赤烏帽子(あかえぼし)指揮(さしず)する処へ、つくだ煮を装分(もりわ)けた小皿(てしお)に添えて、女中が銚子を運んで来た。

「よく、いすいだかい。」

「綺麗なお銚子。」

 色絵の萩の薄彩色、今万里(いまり)が露に濡れている。

「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫(くるまや)に振舞うたばかりですよ。」

「お毒見をいたします。」

 お洲美さんが白い手で猪口(ちょく)を取った。

()いで下さい。」

 大人驚いた顔をして、

「飲むのかね。」

「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」

 かねて、切れた(めじり)(きっ)として、

「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」

「おおん、何か、私の饒舌(しゃべ)った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも()かろう……注ぐよ。」

「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」

 歯ぎしみするように、きッきッと。

「ああ、飲んだ。」

 と、もう白澄んだ(まぶた)を染めた。

「境さん、いいでしょう、上げますわ。」

駕籠屋(かごや)建場(たてば)を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」

「おいらんのようにはいきません。お酌は不束(ふつつか)ですよ、許して下さい。」

「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」

 と、夫人と見合った目を庭へ()らす。

 大人の(あご)が上って、

「大分(さかん)になりましたな、おおん。」

「あなた、電燈を(ひね)って下さい。」

 牛肉(ぎゅう)もふつふつ煮えて来た。

 といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側(ひとかわ)ならべの肉が、(なべ)へ入ると、じわじわと鳴ると(ひと)しく、(はし)とともに真中(まんなか)でじゅうと消え失せる。()すあと、注すあと、割醤油(わりした)はもう(から)で、(ねぎ)がじりじり焦げつくのに、白滝(しらたき)は水気を去らず、生豆府(なまどうふ)堤防(どて)を築き、(きょ)なって湯至るの観がある。

「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」

 ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮(さしず)と働きを亭主が一所で、鉄瓶が(ゼロ)のあとで、水指(みずさし)が空になり、湯沸(ゆわかし)俯向(うつむ)けになって、なお足らず。

 大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を(たた)いて、

「これよ、水じゃ、水じゃ。」

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