6話 六
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「――その時から、やがて八九年前になります――山つづきといっても可い――鶯谷にも縁のありますところに、大野木元房という、歌人で、また絵師さんがありまして、大野木夫人、元房の細君は、私の女友だち……友だちというよりおなじ先生についた、いわば同門の弟子兄妹……」
こう話しかけた、境辻三の先師は、わざと大切な名を秘そう。人の知った、大作家、文界の巨匠である。
……で、この歌人さんとは、一年前、結婚をしたのでしたが、お媒酌人も、私どもの――先生です。前から、その縁はあるのですけれども、他家のお嬢さん、毎々往来をしたという中ではありません。
清瀬洲美さんというんです。
女学校出だが、下町娘。父親は、相場、鉱山などに引かかって、大分不景気だったようですが、もと大蔵省辺に、いい処を勤めた、退職のお役人で、お嬢さん育ちだから、品がよくちょっと権高なくらい。もっとも、十八九はたちごろから、時々見た顔ですから、男弟子に向っては、澄ましていたのかも知れません。薄手で寂しい、眉の凜とした瓜核顔の……佳い標致。
申すのを忘れますまい。……さしあたり、……のちの祇園のお絹を東京にしたような人だったんです――いや、どうも、若気の過失、やがての後悔、正面、あなたと向い合っては、慙愧のいたりなんですが、私ばかりではありません。そのころの血気な徒は、素人も、堅気、令嬢ごときは。……へん、地者、と称えた。何だ、地ものか。
薬でも、とろろはあやまる。……誰もご馳走をしもせぬのに。とうとい処女を自然薯扱い。蓼酢で松魚だ、身が買えなけりゃ塩で揉んで蓼だけ噛れ、と悪い虫めら。川柳にも、(地女を振りも返らぬ一盛。)そいつは金子を使ったでしょうが、こっちは素寒貧で志を女郎に立てて、投げられようが、振られようが、赭熊と取組む山童の勢いですから、少々薄いのが難だけれど――すなおな髪を、文金で、打上った、妹弟子ごときものは、眼中になかったのです。
お洲美さんが、大野木に縁づいたのは二十二の春――弥生ごろだったと思います。その夏、土用あけの残暑の砌、朝顔に人出の盛んな頃、入谷が近いから招待されて、先生も供で、野郎連中六人ばかり、大野木の二階で、蜆汁、冷豆府どころで朝振舞がありました。新夫人……はまだ島田で、実家の父が酒飲みですから、ほどのいい燗がついているのに、暑さに咽喉の乾いた処、息つぎとはいっても、生意気な、冷酒を茶碗で煽って、たちまちふらふらものになって、あてられ気味、頭を抱えて蒼くなった処を、ぶしつけものと、人前の用捨はない、先生に大目玉をくらって、上げる顔もなかった処を、「ほんの一口とおいいなさいましたものを、私がうっかりもり過ぎて」と妹分の優しい取なし。それさえ胸先に沁みましたのに、「あちらでおやすみなさいまし。」……次ぎの室へ座を立たせて――そこが女作家の書斎でしたが。
蚊がいますわ、と団扇で払って、丸窓を開けて風を通して、机の前の錦紗のを、背に敷かせ、黙って枕にさせてくれたのが。……
今更贔屓分でいうのではありません、――ちょッ、目力(助)編輯め、女の徳だ、などと蔭で皆憤懣はしたものの、私たちより、一歩さきに文名を馳せた才媛です、その文金の高髷の時代から……
平打の簪で、筆を取る。……
銀杏返し、襟つきの縞八丈、黒繻子の引かけ帯で、(たけくらべ)を書くような婦人も、一人ぐらい欲しいとは、お思いになりませんか、お互いに……
月夜の水にも花は咲く。……温室のドレスで、エロのにおいを散らさなければ、文章が書けないという法はない。
――話はちょっとそれました。が、さあ、前後しました。後一年、不断、不沙汰ばかり、といううちにも、――大野木宗匠は、……常袴の紺足袋で、炎天にも日和下駄を穿つ。……なぜというに、男は肝より丈まさり、応対をするのにも、見上げるのと、見下ろすのでは、見識が違う。……その用意で、その癖ひょろりと脊が高い。ねばねばと優しい声を、舌で捏ねて、ねッつりと歯をすかす、言のあとさきは、咽喉の奥の方で、おおんと、空咳をせくのをきっかけに、指を二本鼻の下へ当てるのです。これは可笑しい。が、みつくちというんじゃありませんが、上唇の真中が、ちょっと歯茎を覗かせて反っているのを隠すためです。言語、容体、虫が好かなくって大嫌い。もっともそれでなくっても、上野の山下かけて車坂を過ぐる時ば、三島神社を右へ曲るのが、赤蜻蛉と斉しく本能の天使の翼である。根岸へ入っては自然に背く、という哲人であったんですから、つい近間へも寄らずにいました。
郷里――秋田から微禄した織物屋の息子ですが、どう間違えたか、弟子になりたい決心で上京して、私を便って、たって大野木宗匠を師に仰ぎたい、素願を貫かしてもらいたい、是非、という頼みです。
頼まれた。……頼まれたものは仕方がない。しかも、なくなった私の父がこの織物屋に世話になった義理がある……先生の内意も伺った上……そこで大野木をたずねたのですが、九月末、もう、朝夕は身にしみますのに、羽織は衣がえの時から……質です。
ゆかた一枚、それも織ったんじゃありません、北国人の鎧ですから、ものほしそうな瓦斯織の染縞で、安もの買の汗がにおう。
こいつを、二階の十畳の広間に引見した大人は、風通小紋の単衣に、白の肌襦袢、少々汚れ目が黄ばんだ……兄妹分の新夫人、お洲美さんの手が届かないようで、悪いけれども、新郎、膏が多いとお心得下さいまし。――綾織の帯で、塩瀬紺無地の袴。総ついた、塗柄の団扇を手まさぐる、と、これが内にいる扮装で、容体が分りましょう。
鼻の下へ、例の、指を立てて、「おおん」と飲み込んでくれました。「不思議な縁ですね、まだ下極りで、世間に発表はしないけれども、今度、仙台の――一学校の名誉教授の内命を受けて、あと二月ぐらいで任に赴く。――ま、その事になりました。ちょうど幸い、内弟子、書生にして連れて行こう、宜しくば。」……も何もない。願ったり叶ったり、話は思う壺へはまったのですが。――となりの、あの、小座敷で、あの、朝顔の、あの朝――
手細工らしい桔梗の肘つきをのせて、絵入雑誌を幾冊か、重ねて、それを枕にさして、黙って顔を見ると、ついた膝をひいて立ちしなに「憎らしい。」……ただ、その雑誌一冊ものなぞ、どれも皆――ろくなものではありませんが、私のかいたのが入っていたのを、後姿と一所に、半ば起きに、密と見た時、なぜか、冷酒が氷になって、目から、しかも、熱いものがほろほろと湧きました。
時に、その人がいま出て来ません。その癖、訪れた玄関では、女中よりさきに、出迎えて、二階へ通してくれたのに、――茶を運んだのも女中です。
庭で蟋蟀の鳴くのが聞える。
蔦の葉の浴衣に、薄藍と鶯茶の、たて縞お召の袷羽織が、しっとりと身たけに添って、紐はつつましく結んでいながら、撫肩を弱く辷った藤色の裏に、上品な気が見えて、緋色無地の背負上が媚かしい。おお、紫手絡の円髷だ。透通るような、その薄化粧。
金銀では買えないな。二十三か、ああ、おいらは五になる。作者夥間の、しかも兄哥が、このしみったれじゃあ、あの亭主にさぞ肩身が狭かろう、と三和土へ入ると、根岸の日蔭は、はや薄寒く、見通しの庭に薄が靡いて、秋の雲の白いのが、ちらちらと、青く澄んだ空と一所に、お洲美さんの頸に映った。
目の前にあるその姿が、二階へは来ないのです。御厚意は何とも。しかし内弟子に住込ませるとまでおっしゃって下さいますと、一度(何といおう……――女史。)女史に御相談の上でありませんといかがでしょうか。「おおん」と咳して、「ところがね、それが妙ですよ、不思議です。――妻がね、今朝です――今日は境さんが見えそうな気がする、というのです。ついぞ、おいでになりもせぬのに、そんなことが、といいますとね、手をお出しさない、手の筋を見てあげましょう。あなたの今日の運命にも顕われるから。――そういうのでね、手を見せました。……妻に、あんなかくし芸があるとは知りませんでしたよ。妻が予知して、これが当って、門生志願が秋田の産、僕の赴任が仙台という、こう揃ったのに、何の故障がありますか。……お庇でね、おおん、お庇もおかしいですが、手の筋で、妻と握合いました。……境さん、変な話ですが、お互いに、芸術家は情熱をもって生命として活きるのですな。妻もご同門ではあり、芸術家です、どんなに、その愛情が灼熱的であろうか、と期待しましたのに、……どうも冷たい。いかにも冷やかですが、稟性のしからしむる処ですかな。あるいは、あなた方、先生の教えは、芸に熱して、男女間は淡泊、その濃密膠着でなく、あっさりという方針ででもおあんなさるか、一度内々で、と思った折でもありますのでして。…」…失礼します。……居堪らなくて、座を立つと、――「散歩をしましょう。上野へでも、秋の夕景色はまた格別ですよ。」こっちはひけすぎの廊下鳶だ。――森の夕鴉などは性に合わない。
「あの、いま、そういおうと思っていた処です。なんにもありませんが、晩のご飯を。」
まだ入れかえない葦戸に立って、夫人がほの白く、寂しそうに薄暮合を、ただ藤紫で染めていた。
その背の、奥八畳は、絵の具皿、筆おき、刷毛、毛氈の類でほとんど一杯。で、茶の間らしい、中の間の真中に、卓子台を据えて、いま、まだ焼海苔の皿ばかり。
三巴に並んだ座蒲団を見ると、私は玄関へ立ち切れなかった。
「すぐお燗がつきますが。境さん、さきへ冷酒ですか。」
「いや、断ものです。」
と真中へよれよれの袖口を、そっとのばして、坐ると、どうも、そっちが上席らしい、奥座敷の方へお洲美さん。負けてはいないな、妹よ、何だか胸が熱くなる。紺の袴は、入口の茶棚傍を勢い然るように及んで、着席です。
「牛が宜しい……書生流に、おおん。」
亭主のすきな赤烏帽子を指揮する処へ、つくだ煮を装分けた小皿に添えて、女中が銚子を運んで来た。
「よく、いすいだかい。」
「綺麗なお銚子。」
色絵の萩の薄彩色、今万里が露に濡れている。
「妻の婚礼道具ですがね、里の父が飲酒家だからですかな。僕は一滴もいけますまい、妻はのまず。……おおん、あの、朝顔以来、内でこれの出たのはそうですなあ、大掃除の時、出入りの車夫に振舞うたばかりですよ。」
「お毒見をいたします。」
お洲美さんが白い手で猪口を取った。
「注いで下さい。」
大人驚いた顔をして、
「飲むのかね。」
「大掃除の時の車夫のお銚子ですから。――この方は、あの、雲助も同然の身持だけれど……先生の可愛い弟子です。」
かねて、切れた眦が屹として、
「間違いがあると、私が、先生に申訳がありません。」
「おおん、何か、私の饒舌った意味を取違えているようだけれど、いいさ、珍らしく飲むのも可かろう……注ぐよ。」
「なみなみと。もう一つ。もっと、もう一度。」
歯ぎしみするように、きッきッと。
「ああ、飲んだ。」
と、もう白澄んだ瞼を染めた。
「境さん、いいでしょう、上げますわ。」
「駕籠屋は建場を急いでいます、早く飲もうと思ってね。」
「おいらんのようにはいきません。お酌は不束ですよ、許して下さい。」
「こっちも駆けつけ三杯と、ごめんを被れ。雲足早き雨空の、おもいがけない、ご馳走ですな。」
と、夫人と見合った目を庭へ外らす。
大人の頤が上って、
「大分壮になりましたな、おおん。」
「あなた、電燈を捻って下さい。」
牛肉もふつふつ煮えて来た。
といううちにも、どういうものか、皿に拡げた、一側ならべの肉が、鍋へ入ると、じわじわと鳴ると斉しく、箸とともに真中でじゅうと消え失せる。注すあと、注すあと、割醤油はもう空で、葱がじりじり焦げつくのに、白滝は水気を去らず、生豆府が堤防を築き、渠なって湯至るの観がある。
「これじゃ、牛鍋の湯豆府ですのね。」
ふうと、お洲美さんの鼻のつまった時は、お銚子がやがて四五本目で、それ湯を、それ焦げる、それ湯を、さあ湯だ、と指揮と働きを亭主が一所で、鉄瓶が零のあとで、水指が空になり、湯沸が俯向けになって、なお足らず。
大人、威丈高に伸び上って、台所に向い、手を敲いて、
「これよ、水じゃ、水じゃ。」