26話 黒い糸
読み方を変える
薄暗い廊下の隅に棺桶みたいな大きな木箱が置いてある。明智が恩田を欺くために買い入れた例の等身大の人形の箱だ。その中に、今は人形ではなくて、麻酔剤に正気を失った美しい文代さんが、横たわっている。
人間豹は、木箱の蓋をその上からソロソロとかぶせながら、舌なめずりをして、独りごとのように呟くのだ。
「ウフフ……そうしていると、君はまるで人形そっくりだね。美しい人形め。ちっとばかり窮屈だが、しばらく我慢するんだぜ。今にね、おれのうちへ行ったら、お姫さまみたいに大事にしてあげるからね。ウフフフフ」
そして、パタンと蓋をすると、箱のそばに散らかっていた縄を集めて、蓋の上からグルグルと巻きつけた。あとは表の暗闇に待っている二人の手下を呼び入れて、人形箱を担ぎ出すばかりだ。
恩田はその手下のものに合図をするため、玄関の方へ歩き出して、二、三歩も行かぬうちにハッと立ち止まった。空き家のような家じゅうに響きわたるけたたましい電話のベルだ。
彼は思わず身構えをして、しばらく耳をすましていたが、電話とわかると、チェッと舌打ちして、そのまま歩き出そうとした。だが、やがて人間豹の醜い顔に狡猾な笑いが浮かんだ。燐光を放つ両眼が糸のように細くなって、赤い唇がニッとめくれ上がると、牙のように見える白い八重歯が、その隅からチラリとのぞいた。
彼はその異様な表情のまま廻れ右をして、ツカツカと書斎へはいって行った。そして、そこの卓上電話を握ると、いきなり受話器をはずして、けもののようにピクピク動く薄い耳たぶにあてがった。
(モシモシ、モシモシ、僕だよ、僕だよ。君は誰だい。小林君かい)
声といい、言葉使いといい、電話のぬしは明智小五郎に違いなかった。それを知ると、恩田の両眼は何か快い音楽でも聞くように、さらにさらに細められて行った。
(モシモシ。小林君じゃないのかい。急ぎの用事なんだ。何をグズグズしているんだい。それともそちらは明智事務所じゃないのですか)
明智探偵のイライラしている様子が眼に見えるようだ。
「モシモシ、そうですよ。こちらは明智事務所ですよ。しかし、今小林君はちょっとさしつかえがあるんです」
恩田は作り声で答えた。愉快でたまらないという表情だ。
(小林じゃないとすると、君はいったいどなたです――)
「僕ですか。ご存知のものですよ……よくご存知のものですよ」
(どなたですか。誰かうちのものはいないでしょうか)
さすがの明智も電話の相手が人間豹とは気づかぬ様子である。
「ところが、どなたもいないのですよ」
(え、え、なんですって? この夜ふけに誰もいないって?)
「そうですよ。小林君は台所でね、女中さんと一緒にグッスリ寝込んでいて、いくら起こしても起きませんしね、奥さんは人形箱の中にはいってしまって、出てこないのですよ」
度胆を抜かれたように、明智の声がしばらく途絶えた。
「モシモシ、どうかなすったのですか。あなたは明智先生でしょうね」
恩田はドス黒い舌を出して、ペロペロと唇を舐めまわした。獣人得意の絶頂である。
(ハハハハハ……君は恩田君だね。誰かと思ったよ。恩田君なればちょうど幸いだ。君の方は仕事はうまくいっているのかね)
突如として明智の声が快活になった。
「偉い! さすがは明智先生だよ。びくともしないねえ。ところで、さっき君に捕えられた僕が、どうしてここにいるかわかるかね」
(護送の刑事諸君がドジを踏んだのさ。日本の警察は猛獣の捕物には慣れていないからね。お蔭で僕はとんだ目にあうところだったぜ。君はなかなか頭もいいとみえるね。それとも親父さんの方かい)
「ウフフフ……とっさのあいだに、すっかりおれたちの陰謀を悟ってしまったね。偉いよ。だが、よく生きていられたねえ。芝浦でひどい目にあわなかったかい」
(ひどい目にあったのは、どっかのルンペンだったよ。僕はそれを見物しただけさ。ハハハハハ)
「すると、君の方もウマく逃亡したんだねえ。お互いに無事でよかったねえ、ウフ、ウフ、ウフ、ウフ」
そして、この稀代の殺人鬼と名探偵とは、電話口に声を揃えて、さも面白そうに笑い合うのであった。
「電話をかけてくるところを見ると、君は遠方だね。芝浦付近だろう」
人間豹は赤いヌメヌメした唇を意地わるくヒン曲げて、一種異様のアクセントでからかった。
(そうだよ。芝浦の公衆電話だよ)
「ウフフフフ……おれは実に愉快だぜ、探偵さん……君は今イライラして、額から脂汗を流しているねえ。見えるようだぜ……そこで円タクを拾って、いくら急がせてみたって、ここまで二十分はかかるね。それとも警察へ電話をかけるかね。だが、おまわりさんたちが慌てふためいて、ボロ自動車を飛ばすとしても、あすこからは十分はかかるぜ。ところが、おれの方はというと、三十秒もあれば君の留守宅をおさらばできるんだ。仕事はすっかりすませてしまったからね」
(…………)
「さっきもいった通り、君の雇い人たち、チンピラ探偵の小林と女中とは、台所の板の間で、仲よく寝ているし、君の奥さんは、ほら、例の人形の箱ね、あの箱の中でスヤスヤおやすみなんだよ。表にはおれのトラックが待ち構えている。そこへ箱詰めの文代さんを積んで、おさらばしようってわけなのさ。君にはちっとばかりお気の毒だが、美しい奥さんとも今夜限り永のお別れだねえ」
(君は僕の探偵としての力を軽蔑しているようだね)
明智の声はひどく落ちつき払って、少しも困惑の調子を帯びていなかった。
「ウン、軽蔑しているよ。探偵のくせに大事の奥さんを盗まれるなんて、軽蔑してもいいと思うよ」
(ところが、そんなことはできっこないのだ。君は夢を見ているんだ。君は僕のほんとうの力を知らないのだよ)
電話の声に何かしら確信に満ちた威厳のようなものが感じられた。何かしら恩田をギョッとさせるような調子があった。
「ウフフフフフ、君はまだ、負け惜しみを言っているんだね。そんな遠吠えなんぞ、なんの役にも立ちやしないよ」
(ねえ、君。君は僕がなぜいつまでも、こんな無駄口をたたいているかわかるかね……ばかに落ちついているじゃないか。いま女房を盗まれようとしている男とは見えんじゃないか……君、怖くはないのかい。僕がいま何を考えているか、君にはわかるまいね)
「畜生っ、さては貴様、ここへ電話をかける前に何か細工をしたんだな。警察か。警察へ電話がかけてあるのか」
(ハハハハ……どうだい、少し怖くなったろう。警察かもしれない。もっと別のことかもしれない。いずれにしても、君は僕の最後の罠にはまったのだよ。ハハハハハ、君、たいへん気に掛けているようだね。息遣いがここまで聞こえるよ)
「だまれ、だまれ。貴様なんかのおどかしに乗るおれじゃないぞ」
(まあ聞きたまえ。怒ったってしようがないよ。僕はね、こうして君と愉快に話している間に、君たち親子の巣窟をつきとめたのも同然なんだよ。黒い糸がね、眼にも見えない黒い糸がね、蜘蛛の巣のように君のからだにからみついて離れないのだよ。どこまででも、君の行く所まで、その糸がつながって行くのだよ)
恩田はそれを聞くと、変な顔をして思わず身のまわりをキョロキョロと見まわした。ほんとうに、そんな蜘蛛の糸が、どこか天井の隅からスーッと降りてきて、彼のからだにクルクルまきついているような、異様に無気味な感じに襲われはじめた。
「もうこの上貴様の世迷言を聞いている暇はない。じゃあアバヨ。奥さんは確かに頂戴したぜ」
(まあ待ちたまえ。ハハハハハ、そう慌てなくってもいいじゃないか。ハハハハハ、まだ話があるんだよ。どっさり話があるんだよ。ハハハハハ)
ガチャンと受話器をかけてしまっても、探偵の無気味な笑い声が耳について離れなかった。彼は眼に見えぬ妖魔を払いのけるように、ブルンと一つ身震いして立ち上がった。
「ヘヘン、怪談なんぞを、怖がると思っているのかい」
するどい眼がまたはげしい燐光を放ちはじめた。彼は野獣の歩き方で廊下へ出た。すると、たちまち、何かしら小さな影のようなものが、スーッと廊下の向こうに消えるのが感じられた。電燈は一つ折れ曲がった玄関の方についているだけなので、そのあたりはひどく薄暗いのだが、その薄闇の中を何かえたいの知れない形のものが、通り魔のように過ぎ去ったのである。
人間のようでもあった。またそうでないようにも思われた。影法師かもしれなかった。玄関の電燈の下を誰かが通って、その影が映ったのではないかと、大急ぎで曲がり角からのぞいてみたが、人のけはいはない。何か大きなコウモリのようなものが、廊下の床をスレスレに飛び去った感じであった。
恩田は慌てないではいられなかった。怪談を怖がったわけではない。身辺の危険を感じたのだ。その影法師が凶事の前兆のような気がしたのだ。もうこのうちのまわりは警官たちによって取り囲まれているのかもしれない。そいつらの影が廊下まで感じられたのかもしれない。
彼は獲物に忍びよる豹の静かさで、玄関の土間に飛びおりると、入口のドアを用心深く細目にひらいて、青く光る眼で、そとの闇を入念に見まわした。だが、ホッとしたことには、植込みにも、門前の道路にも、なんの怪しいけはいも見えぬ。そこで、彼は合図の口笛を、二た声低く吹き鳴らした。
間もなく門の方から、二つの黒い人影が、ノソノソとはいってきた。運送屋の人夫といった風体である。
「表は大丈夫だろうね。誰もきやしなかっただろうね」
恩田がささやき声で尋ねる。
「猫の子一匹通りゃしねえ。ひどく陰気な町ですねえ。いくら夜中だといって、この淋しさはどうだ」
「おい、念のために、あのことを言っておこうじゃねえか」
一人の男が、何か意味ありげにささやく。
「こいつ、またはじめやがった。お前の気のせいだっていうのに、臆病な野郎じゃねえか」
「おいおい、何をボソボソ言ってるんだ。何かあったのか」
恩田がきめつけると、臆病者といわれた男が、あたりの闇をキョロキョロ見まわしながら、変なことを報告した。
「なんだか小さな影みたいなものが、トラックのまわりをウロウロしていやがった。まったく小っぽけなやつでね。小人島の影法師みてえな、なんだかこうゾーッとするような、いやな物でしたよ」
「親方、気にしちゃいけねえ。この野郎、今夜はどうかしているんだ。それよりも、早く荷物を運び出そうじゃありませんか」
この人夫体の二人は、前科者の運転手なのだが、大方何か犯罪がかったこととは知りながら、莫大な謝礼金に眼がくらんで、一夜かぎりの恩田の手下に雇われているのであった。
「ウン、早くしてくれ。荷物はこの廊下にあるんだ。少し重い代物だよ」
恩田は先に立って人形箱に近づいた。
「これだ、あまり手荒くしないように、貴重品だからね」
「おやおや、まるで棺桶みてえですね」
「人形箱だよ、大切な人形がはいっているんだ。さあ、早く運んでくれ」
二人の男が、木箱を持ち上げている隙に、恩田はソッと台所のドアをひらいて覗いてみた。少しも異状はない。小林少年も女中も、さいぜんと同じ姿でグッタリと眠っている。小林少年が抱いてきた、文代さんそっくりのマネキン人形は、胴体を二つに折り曲げて、調理台の下へ首を突っ込んでころがっている。
それを見届けておいて、彼は人形箱を運んで行く二人の男を監視しながら、門外へと出て行った。そこの闇にヘッドライトを消した一台のトラックがとまっている。荷物をのせてしまうと、二人の男は運転台についた。恩田は人形箱と一緒に無蓋の箱の中にうずくまった。エンジンが深夜の屋敷町にけたたましく響き渡ったかと思うと、この異様な誘拐自動車は、たちまち明智探偵事務所の門前を遠ざかって行った。
結局、何事もなかったのだ。警官たちは間に合わなかったのだ。ただ、ちょっと気になるのは、廊下をさまよい、トラックのまわりをうろついたという、例の怪しい影法師であったが、それもこうして車が走り出してしまえばなんの事もない。もしやその辺に影法師がぶら下がっているのではないかと、念入りにトラックのまわりをしらべてみたが、むろん何物も発見されなかった。恩田はやっと安堵を感じた。とうとうおれが勝ったぞ。美しい文代さんは完全におれのものになったぞ。彼は揺れるトラックの上を、いとしい人形箱によりかかりながら、豹の眼を細め、豹の口をだらしなくひらいて、ゾッとするような獣類の笑いを笑うのであった。
するとさっきの明智の電話は、単なるおどかしにすぎなかったのであろうか。名探偵は一個の怪談師になり下がってしまったのであろうか。いやいや、そうではない。そうでない証拠があるのだ。さいぜん明智は、「黒い糸」のことを言った。「黒い糸」が恩田にからみついて離れぬと言った。その黒い糸のようなものが、見よ、今恩田のトラックの尾端から、闇夜の道路に細々と筋を引いているではないか。赤いテイルライトの下あたりから、蜘蛛の糸のように絶え間なく地面に繰り出されているものがあるではないか。
だが、車上の恩田はむろんそれを知らなかった。またたとえ車を降りてその部分に眼をやったとしても、闇夜の中の、あるともなき一と筋の蜘蛛の糸を、いかな豹の眼とて、到底見わけることはできなかったに違いない。それほど細く、それほど黒く、何かしら曖昧な、無気味な、魔性の糸であった。
悪魔のトラックは、なるべく淋しい住宅街をえらんで、深夜の東京を北へ北へと去った。われわれはしばらく姿なき眼となって、闇の空中を飛行しながら、適度の間隔を取って、この怪トラックの跡をつけてみることにしよう。五分、十分、二十分、車は何事もなく走りつづけた。恩田は人形箱にもたれかかったまま、一つの黒いかたまりのように身動きもしない。深夜といっても、時たますれ違う人がある。だが、彼らはこの一見なんの変てつもないトラックを怪しむようなことはなかった。赤い電燈の交番の前も幾つとなくすぎたけれど、おまわりさんたちは、眼の前を恐ろしい殺人自動車が通るのも知らないで、皆そっぽを向いていた。やがて、車が九段に近い淋しい濠端を走っていた時、われわれの姿なき眼は、前方の車上に、実に恐ろしい椿事を目撃したのである。
恩田の黒い姿が車上に中腰になって、しきりと手を動かしはじめた。いったい何をしているのだろう。少し眼を近づけてみよう。車とのあいだが三間ほどになるように……すると、ああ、わかった。彼は待ちきれなくなったのだ。箱の中の恋人に会いたくなったのだ。彼は人形箱の縄を解いてしまった。蓋をあけて中を覗きこんでいる。長いあいだ覗きこんでいる。
おや、何をしようというのだ。人間豹は箱の中から気を失っている文代さんを抱き起こしたばかりではない。文代さんを小脇に抱えてスックとばかり立ち上がった。矢のように走る車の上にたちはだかった人間豹の精悍な黒い影と、その腰のあたりにグッタリとぶら下がっている文代さんの白い姿が、明暗二色に浮かび上がった。
するとたちまち、実に恐ろしいことが起こった。猛獣がその野性を暴露したのか。それとも彼は気が違ってしまったのであろうか、文代さんの首が飴ででもあるようにスーッと伸びたかと感じられた。
かつての夜、猛犬の上顎と下顎に手をかけて、二つに引き裂いたばか力が、今、彼女の首を引きちぎったのだ。
奇怪な幻か悪夢のような光景であった。ハッと見る間に、白い流星が闇の空に弧を描いて飛んだ。恩田は引きちぎった首を、悪魔の国の鞠投げのように、いきなり車の外へほうり出したのだ。
野獣は口から泡を吹いて怒り狂っていた。物凄い唸り声さえも聞こえてきた。彼は餌食をズタズタにしないではおかぬのだ。首の次には手が、足が、想像もつかない残虐さで、次々と引きちぎられて行った。そしてそれらの美しい八ツ裂き死体は、まるで大根かなんぞのように、無神経に、傍若無人に、いやむしろこれ見よがしに、闇の濠端へ投げ捨てられたのであった。