27話 名犬シャーロック
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警視庁捜査一課長恒川警部は、ちょうど寝入りばなを叩き起こされた。役所から帰って、坊やと遊んで、少しばかり読書をして、つい今しがた寝についたばかりであった。叩き起こしたのは明智小五郎である。彼は芝浦の公衆電話を飛び出すと、タクシーを拾って自宅に急ぐ途中、その道筋に当たる恒川氏の宅をおそって、人間豹逮捕の助力を乞うたのである。
恒川氏はむろん床を蹴ってはね起きた。そして、この商売敵でもあり、親しい友だちでもある民間探偵から、事の仔細を聞き取ると――彼は今宵の明智の計画についてよく知っていたから、彼の醜怪な「人間豹」の変装には驚かなかった――すぐさま本庁に電話をかけ、腕利きの刑事を選び、明智探偵事務所へ急行するように命じておいて、手早く制服を身につけると、そのまま明智のタクシーに同乗した。
「あ、ちょっと待ってくれたまえ。君の家のシャーロックも一緒に乗せて行こう。是非あいつが必要なんだ」
明智が、出発しようとする車をとめて叫んだ。
「よし。お前、シャーロックを連れておいで」
恒川氏は一とことも反問しないで、明智の言うがままにした。この名探偵が必要だといえば、必要にきまっているのだ。間もなく恒川夫人手ずから一頭のシェパードを引き出して、車にのせた。名犬シャーロックは少しも騒がず、何かの予感に緊張の面持で、主人恒川警部の両膝のあいだにうずくまった。シャーロックは生れつき嗅覚がするどい上に、恒川氏の仕込みを受けて、その名にふさわしい探偵犬に仕上げられていた。これまでにも、警部を助けて手柄を立てたこと一再ではなかった。
「君は何か見込みをつけているのかい。シャーロックなど連れ出して」
車が走り出すと、恒川氏がやっとそれを尋ねた。
「ウン、この犬が役に立つか立たないか、それが僕の運命のわかれ道だ。もしシャーロックが不用だったら……ああ、僕はそれが恐ろしいのだよ」
明智は名状できない焦慮の色を浮かべて、不安に耐えぬもののようである。
「今も話す通り、電話ではあいつに大きな口をきいておいたけれど、僕は確実な信念があったわけではない。たった一つの空頼みなんだよ。ああ、あれがうまくやっていてさえくれたらなあ」
「あれって誰のことだい。伏兵を忍ばせておいたとでもいうのかね」
恒川氏は相手の意味を推しかねて聞き返した。
「ああ、三分間……いや二分間でもいい。せめて二分間あいつの息がつづいてくれたらなあ。ねえ、恒川君、人間の息が二分間以上つづくと思うかね」
「変なことを言い出したね。君の癖だぜ。二分間ぐらいつづく人間はいるさ。海女なんかその倍もつづくかもしれない。だが、普通の都会人にはとてもだめだね。三十秒だって怪しいもんだ」
「そこが僕のつけ目なんだよ。その都会人の中に二分間も息のつづくやつがいたらどうだろう。或る場合には大へん役に立つかもしれんじゃないか」
「君はそういう男を知っているのかい」
「ウン、知っているんだ。知っているんだ」
それきり名探偵はだまりこんでしまった。恒川氏も相手の癖を知っているので、深く尋ねようともしなかった。
間もなく、二人は明智探偵事務所の門前に車を捨てて、空き家のように人気のない屋内へはいって行った。
「シャーロックのやつ、ひどく逸っているぜ。やっぱり犯罪の匂いがわかるんだね」
恒川氏はそんなことを言いながら、愛犬を玄関の柱につないで靴をぬいだ。
明智は恒川氏を階下に待たせておいて、二階の部屋部屋を見まわって、空しく降りてきたが、そのあいだに警部は例の第六感というやつを働かせて、すばやくも廊下の奥の台所へ忍びよっていた。ドアを細目にひらいて見ると、いる、いる、小林少年、女中さん、それにマネキン人形までが、変な恰好でころがっている。
「おい、君、ここだ、ここだ」
恒川氏の声に、明智も台所へはいってきた。
「おや、君、君、あすこにいるのは、奥さんじゃないか。奥さんは誘拐されやしなかったぜ」
彼は調理台の下へ首を突っ込んでいるマネキン人形を指さして、それを文代さんと思いこんでいる。
だが、明智はそれどころではなかった。倒れた小林少年の上にかがみこんで、一所懸命にその顔を見つめている。何事かを念じるように、瞬きもせず見つめている。
すると、明智の念力が通じたのか、少年の眼が細くひらかれた。長い睫毛に覆われた細眼と、明智の眼とが、お互いに探り合うように見かわされた。普通なれば、そんなに手間取るわけはない、一と眼でわかるはずであった。だが、読者も知る通り、このとき明智はまだ「人間豹」のメーク・アップを洗いおとしていなかったのだ。
「アッ、先生!」
とうとうそれがわかった。小林少年は叫びざまピョコンと立ち上がった。おやおや、今まで気絶していた人間に、突然こんな活溌な動作ができるものだろうか。
それを見ると、名探偵の不安にとざされていた頬にも、サッと喜びの色がのぼった。
「おお、小林君、よくやった。よくやった」
明智は立ち上がった少年に飛びついていって、感謝にたえぬもののように、その肩を抱き、その手を握りしめた。
「まるで親子再会の場だね。いったいこれはどうしたわけなんだ」
恒川氏があっけにとられて尋ねる。
「いや、僕の予想が的中したんだよ。僕は決して嘘をつかなかった。喜んでくれたまえ、もう文代は無事だ。恩田を捕える見込みも立った、シャーロックはむだにならなかったよ」
明智は勝利に酔っているのだ。
「そいつは目出度い。だが、奥さんが無事なことは、さっきからわかっているじゃないか。まさか殺されているんじゃないだろう」
恒川氏がじれったそうに、例のマネキン人形を指さす。
「ところが、僕はあれを人形だと思い込んでいたのだよ。君も話を聞いているだろうが、僕は今夜、文代の身代り人形を使った。着物からなにからすっかり同じ人形なんだ。そいつがころがっているとしか考えられなかったのだよ。なぜって、本物の文代は恩田が人形の箱へ入れて連れて行ったのだからね。しかし、小林君のこの様子では、あれはやっぱり人形じゃない。ね、そうだろう」
少年を顧みると、彼はニコニコしながら、ガクンガクンと大きくうなずいて見せた。
はてな、もしそうだとすると、どうも辻褄が合わなくなるぞ。恩田は確かに文代さんを人形箱へ入れたではないか。それをトラックに積んで運び去ったではないか。しかも、九段の濠端で、その文代さんを、あのむごたらしい目にあわせたではないか。もう文代さんは五体所を異にして最期をとげてしまったのだ。その人が今、明智邸の台所に寝ているなんて、まるで狐につままれたような話ではないか。
だが、そこにころがっていたのは、やっぱり人形ではなかった。何がどうあろうとも、本物の文代さんであった。まだ気を失っていたけれど、調理台の下から顔を引き出して調べるまでもなく、からだにさわってみれば、人形か人形ではないかは、たちまちわかることであった。恒川氏と明智とは、そのグッタリとした文代さんを抱いて、とりあえず書斎の長椅子へと運んだ。ついでに女中さんのよく太ったからだもそこの肘掛椅子の柔かいクッションへ。
すぐに電話でお医者さんが呼ばれた。だが、文代さんはただ麻酔剤で眠っているばかりだ。さして心配することはない。それよりも、この際もっと大切なことがある。人間豹を捕えなければならないのだ。
「明智君、僕にはまだ事情がよくわからんが、これは小林君の手柄なのかい。それにしても……」
「そうだよ。この少年探偵さんの大手柄だよ。つまり、小林が僕の日頃の言いつけを、忠実に守ってくれたわけなのだ」
「すると、小林君、君が恩田の隙をうかがって、一度箱に入れられた文代さんを、また元の人形と入れ換えておいたとでもいうわけかい」
「ええ、そうです。でも、先生が恩田のやつをあんなに長く電話口へ惹きつけておいてくださらなかったら、とてもできなかったのです。僕は機会がないかと一所懸命待っていました。すると、うまいぐあいに先生から電話がかかって、先生の智恵で僕に仕事をする隙を与えてくださったのです。僕はあの電話を聞いて、先生は暗に僕に命令をくだしていらっしゃるんだなと感じたのです」
少年が林檎のような頬をかがやかせて、にこやかに説明した。
「だが待ちたまえ。むろん君もあいつに麻酔剤を嗅がされたんだろう。でなければ、あいつがそんな油断をするはずはないからね」
「ええ、ですけど、僕、息が強いんです。一所懸命になれば、二分以上息をつめていても平気なんです。いつも先生に、それを利用することを忘れるなって教えられていたもんですから、ガーゼで鼻と口をふさがれても、じっと息をつめて、気を失ったまねをしてやったんです」
さすがの恩田もこの可憐な少年に、そんな大それた隠し芸があろうとは知らぬものだから、グッタリとなったのを見て、安心しきってしまったものであろう。
「へえ、君がねえ。驚いたもんだな……ハハア、これだね、明智君、さいぜん君が謎みたいなことを言っていたのは」
「そうだよ。僕の勝敗はただその一点にかかっていたのだよ……だが、小林君、君はもう一つのことを忘れやしなかっただろうね。ほら、昼間は白、夜は黒のアレを」
「ええ、うまく仕掛けました。むろん黒の方です。運転台にいた手下のやつが、なんだか怪しんでいたようですが、あの仕掛けには気づかなかったらしいです」
「恒川君、僕の発明品が役に立ったぜ」
「なんだか面白そうな話だね、いったいどんな発明なんだい。その昼間は白、夜は黒っていうのは」
警部が好奇の眼をかがやかした。
「自動車尾行器とでもいうかね。自分で直接尾行できない場合、相手の行方をつきとめる仕掛けなんだ。車のナンバー・プレートなんてものは、替えようと思えばいつだって替えられるからね。それに番号はわかっていても、車の所在がなかなかつきとめられぬ場合がある。そこで僕の発明なんだが、それはね、クレオソートを一杯入れて大きなブリキ缶に、丈夫な取手をつけて、そいつを自動車の後尾の車体の下へちょっと、引っかけておきさえすればいいんだ。ブリキ缶の底には針で突いたほどの穴があいている。そこからポタリポタリと、大げさにいえば、細い糸のようになって、クレオソートが地面にしたたるという仕掛けなのだよ」
「そして、そのしたたったあとを、探偵犬につけさせようってわけだね。シャーロックの役目のほどがわかったよ。だが、白だの黒だのっていうのは?」
「昼間は色のないクレオソート、夜は光の反射をさけるために黒いクレオソート、つまりコールタールを使用するんだ。その二色の薬をつめたブリキ缶が、僕の家にはいつもちゃんと用意してあったのだよ。尾行というやつは余程手腕のいる仕事だからね。女子供にはむずかしい。そこで小林や文代などには、まさかの場合は危険は冒さないで、この道具を使うように言い含めてあるんだ。今夜の場合などは、殊に適切だったよ。小林の機転を褒めてやってもらいたいね」
「ウン、さすがに君のお弟子ほどのことはあるよ。敵が電話をかけている隙をうかがって、それだけの仕事をするなんて、見上げたもんだ……さあ、それじゃ小林君の手柄をむだにしないように、さっそく追跡をはじめようか」
「ウン、それには警察の自動車が一台要るね。僕らがそれに乗って、その前をシャーロックに走ってもらうんだ」
「もう僕の方の刑事たちがやってくる時分だよ、先生たちきっと自動車に乗ってくるだろう」
間もなくその二名の腕利き刑事が、警察自動車を飛ばして来着した。
明智は文代さんのことは医者に任せておいて、恒川警部と共にその自動車に乗りこんだ。名犬シャーロックには長い綱をつけて、運転台に席を取った恒川氏が、その綱の先を握っている。
小林少年はクレオソートをたっぷり含ませた布を持ってきて、シャーロックの鼻先につきつけた。これから追跡するものの匂いを充分覚えさせるためである。
犬は鼻をヒクヒクさせて、薬品のはげしい匂いに親しんだ。小林少年が突然その布片を持って家の中へ駈け込んでしまうと、彼は方角に迷って、しばらくキョトンとしていたが、やがて、類似の匂いを嗅ぎつけたのか、鼻面で地面をこするようにして、勢いこんで前進をはじめた。
「よし、出発だ」
恒川氏の指図に従って、車は動き出した。シャーロックは時々立ち止まっては、烈しく走り出す。そのたびごとに車の速度を調節しなければならなかったけれど、さすがに名犬は敵のあとを見失うようなことはなく、異様な追跡自動車は、寝静まった深夜の町々を、北へ北へと進んで行った。
明智がさっきの電話で、黒い糸のようなものが恩田のからだにからみついて離れないといったのは、つまりこのことであった。彼の言葉が単なるおどし文句や怪談ではなかったことが、今こそ明らかになったのである。