28話 都会のジャングル
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名犬シャーロックの先導する追跡自動車は、明智のいわゆる「黒い糸」に引かれでもするように、少しも誤まることなく、恩田の通過した淋しい町々を走った。そして、まもなく九段近くの濠端にさしかかったとき、明智の鋭い眼が、たちまち前方の路上に異様な物体を発見した。
「おや、あれはなんだ。車をとめてくれたまえ」
その声に驚いて、恒川氏がシャーロックの綱を引きしめた。運転手がブレーキを踏んだ。
「君、懐中電燈を持ってませんか」
同乗の刑事に尋ねると、幸い一人がそれを用意していた。明智はその懐中電燈を借りて車をおりた。
「やっぱりそうだ。恒川君、やつはこの辺で人形箱の蓋をひらいてみたんだ。そして、一杯喰わされたことを知って怒り出したんだね」
明智は路上を照らしながらだんだん先へ歩いて行った。その移動する懐中電燈の下に、マネキン人形の首が、手が、足が、次々と現われては消えて行った。さいぜん恩田が車上から投げ捨てたのは、この人形だった。文代さんではなかった。いくら獣類でも本物の人間を道のまんなかであんな目にあわせるほど向こう見ずではなかったのだ。
「ハハハハ、奴さん、大切な獲物が人形だとわかったとき、どんなに憤慨したか眼に見えるようだね。この惨酷さはどうだ。八ツ裂きだね。人形でよかったよ」
明智は一と通り見おわって自動車に戻った。
「だが、あいつがここで真相を発見すると、そのままオメオメ帰っただろうか。また君の家へ取って返したんじゃあるまいか」
運転台の恒川氏が不安らしく呟いた。
「それは大丈夫だ。電話でウンとおどかしてあるからね。今にも警官がくるかと思って、やっこさん泡を喰って逃げ出したほどだ。もう一度帰る元気はないよ。それに、いま念のために調べてみたんだが、クレオソートの黒い糸がちっとも停滞していない。もしやつが引き返したとすれば、車があともどりするか、少なくとも一度停車しなければならないのだが、そういう様子が少しもないのだよ」
「先生、諦めたんだね……よし、それじゃ前進だ」
そして再び犬と車とは走り出した。
黒い糸はその辺から右折して、電車通りを避けながら、上野公園不忍池のそばを通って、ついに浅草公園裏通りに出た。それからまたグルッと一と廻りして、二天門への入口に達したが、そこまでくると、シャーロックはヒョイと立ち止まって、しばらく地面を嗅ぎまわっていたかと思うと、いきなり元きた方角へ引っ返しはじめた。
「おや、恩田の車はここで引っ返しているんだな。ちょっと止めてくれたまえ。なんだか、この辺が怪しいぞ」
車が止まると、明智はまた懐中電燈を手にして地上に降り立ち、その辺を調べはじめた。
「おい、見たまえ、ここに黒い水溜りができている。クレオソートが同じ場所にしばらくのあいだ滴りつづけていたんだ。つまりやつの車が停車した証拠だよ。それから元の方へ引っ返しているところを見ると、やつだけがここで車を降りたのに違いない。とにかく一度調べてみる値打はある」
そこで、明智の言葉に従って、一同車を降りたのだが、考えてみると、実に漠然とした探しものではないか。二天門の中には何がある。観音堂がある。五重の塔がある。公園と池と樹木地帯がある。それから水族館と花やしきと華やかな映画街だ。
「浅草公園とは思いがけなかったね。まさかやっこさん公園に巣喰ってるんじゃあるまいね。こんな賑やかな場所に」
恒川氏が当惑したように言った。
「いや、そうとも限らんよ。東京じゅうでこの公園ほど、犯罪者にとって究竟の隠れ場所はないともいえるんだ。ここは都会のジャングルだよ。和洋あらゆる種類の建物がゴタゴタと立ち並んでいる。おびただしい露店の群れがある。到る処に抜け裏がある。その上ひっきりなしの大群衆だ。それらがすべて、犯人が身を隠す叢林にも等しいのだぜ。もしあいつがこの公園を隠れがにえらんだとすれば、その着想に敬服しないわけにはいかん。人間豹と都会のジャングル、実にうまい取り合わせじゃないか」
明智は感嘆するようにいうのだ。
「だが、もしそうだとすると、こいつは実に厄介だぜ。とてもこんな小人数の手に合うもんじゃない。管内の警官を総動員しても足りないくらいだ」
「だが、ともかくも調べてみよう。人の目立つ夜ふけのことだから、ひょっとして誰かがやつの姿を見ているかもしれない」
むろん興行物はハネてしまい、夜店商人たちもほとんど帰ったあとで、宵の明るさ賑やかさは跡形もなかったけれど、夜ふけの参詣者、お百度詣りなどの黒い人影がチラホラして、二天門をはいったところには、これからが商売の易者のテント張りが、ポツンと、取り残されたように立っていた。
その二天門の敷石に、一人のむさくるしいいざりの乞食が、夜詣りの人を目当てに、まだ店を張っていた。
「ああ、こいつに聞いてみたら、見覚えているかもしれない」
明智は独りごとを言いながら、その乞食のそばへ近づいて行った。
幸い恩田の変装を解かないでいるし、メーク・アップもまだ洗い落としていなかったので、尋ねるのに、手数はかからぬ。
「おい、君、君、今から三十分ほど前にね、ここを、こういう男が通らなかったかね。つまりこの僕とソックリの男だ」
明智が前に立ちはだかって聞くと、いざり乞食はヒョイと顔を上げて、不意の質問者を眺めた。なんてひどい片輪者であろう。両足がまったくだめで、手に草鞋のようなものをはいている上に、顔じゅうが腐れただれて、ほとんど眼鼻もわからないむごたらしさだ。その顔が破れたお釜帽子の下から、ヒョイと覗いたときには、明智は思わずわきを向いて、話しかけたのを後悔したほどであった。
「ああ、旦那とそっくりの人、通った、通った、あっち、あっちへ行った」
乞食は呂律のまわらぬ口でそう言いながら、草鞋ばきの手で観音堂の方を指し示した。
「ほんとうかい。間違いないだろうね」
「ウン、ほんとうだ。旦那とそっくりだった」
乞食の鈍い眼にも、明智の際立った変装姿がわからぬはずはない。それとそっくりの男だったというからには、おそらく間違いはないであろう。こんな恐ろしい形相の人間が、あいつのほかにあるはずはないのだから。
一同は明智を先頭に、観音堂の方へ歩いて行った。明智はその辺にウロウロしているルンペンどもを捉えて、片っぱしから質問した。恒川氏は、お堂の前の交番に立ち寄って、そこの警官にも聞きただした。だが、誰も明確に答えるものはなかった。二天門のような狭い通路と違って、この電燈の遠い広い場所では、むしろそれが当然だと言ってもよかった。
しばらくのあいだ、本堂のまわりから公園の池にかけて、綿密な捜索が行なわれたが、むろん、なんの獲物もなかった。
「今夜は引き上げるほかないよ。警察としてはできるだけの動員をして、浅草公園そのものを囲んでしまうんだね。そんなことをしても、この入り組んだジャングルの豹狩りは、おぼつかないと思うけれど。僕も民間探偵の力に及ぶだけはやってみるつもりだよ」
「ウン、さっそく手配をしよう。夜の明けるまでに何か君に報告できるかもしれんぜ。われわれの仲間には、このジャングルの秘密に通暁しているやつが、たくさんあるんだからね。だが、君のお蔭で犯人が浅草公園へはいったことがわかっただけでも、大した収穫だ」
明智と恒川氏はそんなことを言いながら、二人の刑事といっしょに元の二天門へと引っ返した。そこの敷石にはさいぜんのいざり乞食が、まだ慾張って店を出していた。明智はふと心づいて、ポケットの小銭を探り、彼の前の面桶に投げ入れて通りすぎた。
「旦那、旦那」
おやっと立ち止まって振り返ると、いざり乞食が呼び止めている。
「旦那、おとしもんだ。これ、これ」
草鞋の手で指し示す地上に、二つに折った封筒が落ちていた。
「僕が落としたっていうのかい」
明智はけげんらしく二、三歩立ち戻って、その封筒を拾い上げた。
「ああ、その旦那だ。いま落としたんだ」
乞食がくずれた顔でお追従笑いをしている。
封筒を門の天井の電燈にかざして見ると、表に「明智小五郎殿」とある。確かに明智のものに違いない。だが、彼はそんな封書などをポケットに入れてきた記憶はまったくないのだ。
「おい、恒川君、僕たちはいま公園の中で、あいつにすれ違ったのかもしれないぜ」
「えっ、あいつって、人間豹のことか」
「ウン、どうもそんな気がするんだ。ともかく、こんな明かりじゃだめだから、自動車まで帰ろう。そして一つこの封筒をよく調べてみよう」
明智はすぐ向こうの電車通りに待っている警察自動車へ急いだ。
明るいヘッド・ライトの前に、四人が顔をつき合わせて封書を調べた。封筒は薄いハトロン紙の安物だ。裏に差出人の名前もなく、封もひらいたままになっている。明智は急いで中身を取り出してみた。半紙型のザラ紙、それに鉛筆の走り書きで、左のような文句がしたためてある。
明智君、さすがに君は名探偵だね。おれの獲物は人形だった。その上、君はおれがここへきたことを知っていた。実にするどいねえ。ブルブルブル、おお怖い。だがね探偵さん、この手紙を読んで君がどんな顔をするか、見てやりたいものだね。おかしくって。一体いつの間に誰がこんなものを君のポケットへ投げ込んだか、わかりますかね。探偵さん、まだちっとばかり修業が足りないようだね。それじゃまた会おうぜ。
人間豹
「フム、驚いたねえ。するとあの公園の闇の中で、人間豹のやつがわれわれの眼の前を歩いていたんだね。そして、こんなものを君のポケットへほうりこんで行ったんだね」
恒川氏が驚嘆した。
明智は何かじっと考えこんでいた。
そんなはずはない。おれは眼の前にいる敵を見のがすほどぼんくらだろうか。しかも、そいつにポケットへ手を突っ込まれるなんて、かつて、経験したことのない侮辱だ。だが、どうも信じられない。おれの神経はからだじゅうに行き渡っているはずだ。ポケットに物を入れられて気がつかぬなんて、おれとしてあり得ないことだ。
「ちょっと待ってくれ。なんだかわかりそうだぞ」
明智の眼が昂奮のためにギラギラと光って見えた。
「何かカラクリがある。手品の種がある……そうだ。きっとそうだ。おい、恒川君、僕は大変な失策をやった。だが、まだ間に合うかもしれない。あいつだ。あのいざり乞食をふん縛るんだ」
言い捨てて脱兎のごとく駈け出した。あとの三人もそのあとに従った。
一と飛びに二天門まで駈けつけたが、案の定、そこにはもう乞食の影もなかった。やっぱりそうだ。落とし物を教えるような顔をして、実はあいつ自身が、封筒を明智の通ったあとへ投げ捨てておいたのだ。そんなまねをするやつがほかにあるだろうか。あいつこそ人間豹の変装姿であったに違いない。かたわ乞食に化けて、浅草の雑沓に隠れていようとは、なんというズバ抜けた思いつきであろう。
人々は門の付近を歩きまわって、乞食の姿を尋ねたが、どこにもそれらしい影は見当たらなかった。
明智は大道易者のテントにまで首を突っ込んで尋ねていた。
「君は毎晩ここに出ているのだろうね。二天門の下のいざり乞食を知っているかね、手に草鞋をはいたやつだよ。あいつはいつもあすこにいるのかね」
四方をテントで張りつめて、前の方にやっと客の顔が見えるだけの窓があいている。その窓から大きなロイド目がねをかけた白ひげのお爺さんが、天眼鏡片手にのぞいていた。
「へええ、いざりの乞食ですって? 存じませんな。この辺には、そういう乞食を見かけたことがありませんよ」
「ところが、いま僕はそいつを見たんだよ。その筋のお尋ねものなんだ。ちょっとの隙に逃げられてしまった。もしやそんな乞食が、君の店の前を走り過ぎはしなかったかね」
「存じませんな。わしはつい今しがたまで客がありましてな。人相の方に夢中になっておりましたのでね」
「そうか。いや、ありがとう」
それを最後に、明智たちは一応捜索を断念して引き上げるほかはなかった。恒川氏は警視庁に帰って浅草公園包囲の手配を講ずるために急いでいた。人々は自動車の方へ急ぎ足に引っ返して行った。
「ウフフ、もうよさそうだよ、とうとう諦めて帰ってしまった」
易断のテント張りの中で、白ひげの易者が妙な独りごとをした。すると、その声に応じて、テーブルのような台の下から、ゴソゴソ這い出したやつがある。いざり乞食だ。
乞食はいざりでもなんでもない。いきなりニューッと立ち上がって、老易者と肩を並べた。そして顔じゅうに貼りつけた腫物だらけのゴム仮面を、ベリベリとはぎ取ってしまった。仮面の下から現われたのは、まぎれもない人間豹の恐ろしい形相である。
「わしの方では明智を知っているけれど、あいつはわしの顔を見たことがないのだからね。まんまと一杯喰わせてやったよ」
老易者は無気味なしわがれ声で言いながら、大きなロイド目がねをはずした。言うまでもなく、人間豹の父親である。息子はいざり乞食に、おやじは大道易者に、そして、互いに連絡を取りながら、群衆の叢林の中に身を隠していようとは、なんという奇想天外の欺瞞手段であったろう。
「だが、この変装も長いあいだつづけてきたが、今晩限りでよさなくちゃいけまいね。あのするどい男は、今の自動車が道の半分も行かぬうちに、きっとわしたちの秘密を気づいてしまうことだろうよ」
「ウフン、だがあとの祭さ」
人間豹は吐き出すように言って、大きなあくびをした。
「お父さんもきょうはずいぶん働いてくれたね」
「ウン、麻布から、芝浦、芝浦から浅草とね、なあに、なんでもありゃしない。世間を相手に戦うのが、わしには面白くてたまらんのだからね」
そして、この世にも恐ろしい親と子は、顔を見合わせて、無気味に無気味に、ニタニタと笑いかわすのであった。