坊つちやん「遺蹟めぐり」

9話 〈下〉 二 道後の温泉

1,274字 約3分 2024年2月9日 公開

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 土手を下りると畠の展望の中を行く事になる。

 向ふに一帯の山や丘が重なつて居てその裾に小高くちよぼ/\大厦高楼の甍が見えるのが道後の温泉だ。遠見の水墨山水のやうな好風景の中に取つても付かぬ安価な洋館が二三並んで立つてる。共進会の第二会場跡だそうな。近づいて行くと剥げちよろけた洋館の白堊の壁に『この建物売もの』と書いてあつた。道後の狭い町の入口を閉いで電車の停車場が二軒並んでる。客を引かうと双方駅丁が懸命になつて鈴を振つてる。これは政友会側の電気鉄道会社と憲政会側の会社と競走してるのだそうな。道後の温泉の町は山の裾の傾斜に建てられ中央の何とかいふ神社のある台で邪魔をされ楕円形をなしてる。町の入口から左の方の通りに温泉の旅館が建つてる。檜皮葺で金で塗つた装飾が施してある。何様のお邸とも見れば見らるゝ宏大なものだ。霊の湯だの神の湯だの三つ許りある。それから病人の入る養生湯だの松の湯だのもある。宿屋の大そうもない作り方にも驚く。五階だの六階だのに廊下を架け渡して龍宮のやうだ。そして魔性の女の多い事、町中を色糸の(をさ)のやうに人の心を時めかし織つて歩るいてる。神社のある台の右側の方は静かだ。納まつた貴族的な宿屋が二三軒並んでる。予はこの側の鮒屋旅館別荘といふへ泊つた。宿賃三円づゝは江戸つ子の坊つちやんに聞かせても贅沢だといふだらう。この鮒屋の本家でむかし西洋料理を始めた事がある。その時随一のお得意客は夏目先生だつたそうだ。そんなに美味くも無い西洋料理だが折角田舎へ初めたのを止めないやうにと奨励の為め努めて先生は食ひに来られたのだ相な。町の突き当りが遊廓になつてゝ近くに寺がある。これを()き合せて『坊つちやん』の中には『山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ』のやうに出来上つてる。坊つちやんが遊廓の入口に在る団子を食つた為め翌日生徒に教場の黒板へ『団子二皿七銭、遊廓の団子旨い旨い』と書かれたといふ団子は名物と説明してあるからは先生は此所の温泉の町の平凡な団子屋よりこの構想を得られたので無く、これは近所の石手寺(いしてでら)といふ名刹の門前に『お(やき)』といふ名物の焼餅を売つてる。これよりして、想ひ付かれたものとする方が団子の由緒も名誉であらう。

 宿屋で三人で飯を食つてると更に伊予日々の阿部君といふのと洋画家で学校の先生を勤てる桃甫(たうほ)君といふのが訪ねられた。これもこつちを名士扱ひにしてその実漫画家見物に来た連中ぢやないかね。予はもう応揚に『それはどうも苦労ですな』を言ふ勇気を欠いた。寝そべつて相手方が(うや/\)しく取上ぐるビールのコツプの泡が唇へ吸ひ込まれるのを人間が慰楽を摂取する器械はうまく出来てゐるなと眺めた。(やが)てお客達は銘々用意して来た合財袋を開けて手拭とシヤボンを取出した。合財袋の裏にはゴムが取り付けてあつて濡手拭を入れても大丈夫のやうに出来てる。温泉通ひに慣れた松山の人達だなと思はせる。お客達は温泉へ浴りに入つた留守、冷々する畳に腹を押付けて頼まれた絵を描いてると雨が降つて来た。いろ/\な蛾や羽虫が電球に打つかつて筆洗の中に落ちる。

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