8話 七(1)
読み方を変える
「何、唄をお聞きになる、よろしい、やッつけましょう。節なしに……もっとも、節をつけては大変だ。……繰返して、聞いたから、そこ、ここうろぬきながら覚えています。――恋とサア、というくどきです。
恋とサア情のその二道は、やまと、唐土、夷の国の、おろしゃ、いぎりす、あめりか国も、どこのいずくも、かわりはしない。さても今度の心中話。それをくわしくたずねて見れば、加賀の城下のその片畔、能登屋仁平が、
これです、年とった亭主というのは。――
女房のおとせ、年は二十一愛嬌盛り……
ちょっと娘が気になりますね。鼓をうってる……年もちょうどそのくらい。
いつの頃から夫に忍び、その名岩島友吉こそは、年も二十六、やさがた生れ、きりょう好いのについ誘かされて、人目忍びて逢う瀬の数も、……
――阿漕が浦の度かさなれば、おさだまりで、たちまち近所となりのうわさ、これも定まる処です。
夫仁平は穏厚な生れ、かっと燃立つ胸なでおろし、それが素振は顔へも出さず……
いいか、悪いか、分りませんが、金沢ものだ、仕方がない、とにかく杯を合せましょう。で、何しろ、かように親類縁者までの耳へ入るようになっては、世間へ済まぬ。今はこれまで、暇をくれよう、どんな夫を持とうとも、そうなれば仔細はないと、穏厚人、出方がまことにおとなしい。……もっとも、
そちがこの家へ来たそのはじめ、わずか年さえ二七の春よ、思いまわせば七年以来……
というのです。二七の春――私はまた……曳船で見た、お冬さんのそのころの年を思った、十五六――
いえばおとせは顔赤らめて、何もいわずに恥し姿。五年六年、年つき日ごろ、かわい、かわいと、撫でさするまで、情わすれた不義いたずらを、ぶつか叩くか、しもしょうことを、すいた男を添わせてやろと、かかる実意な夫をすてる、冥利すぎます、もったいなさに、天の冥加も、いと可恐しい。せめて夫へ言訳のため、死んでおわびは草葉の蔭と、雨に出て行く夜空の涙……
それから屋敷町の暗夜へ忍んだ、勿論、小禄らしい。約束の礫を当てると、男が切戸から引込んで、すぐ膝に抱く、泣伏す場面で、
そなた一人をあの世へやろか、二人ならでは死なせはしない、何の浮世はただ仮の宿、どうで一度は死なねばならぬ、死んで未来で添遂げようと、いえば嬉しやなおさら涙。さらば最期とかねての用意、女肌には緋の帷巾に、上は単衣の藍紺縞よ、当世はやりの……
その頃の派手らしい藍紺縞――これを最初に唄った時、尼婆さんは、当世はやりの何とか、と高々とやりながら忘れていた。ちょうど、お孝が銚子のかわりめに立った時だったのです。が、尼婆さんの首を捻る処へ上って来て、
当世はやりの黒繻子の帯……
と言継いだ。ちょいちょい唄うらしい、尼婆さんの方で忘れた処を、きき覚えのお孝が続けたのですが、はて、……呉絽服綸ではなかったか、と尼婆さんはもう一度考えましたが、
……黒繻子の帯、二重まわして、すらりと結び、髪は島田の笄長く、そこで男の衣裳と見れば、下に白地の能登おり縮、上は紋つき薄色一重、のぞき浅黄のぶッ裂羽織、胸は覚悟の打紐ぞとよ、しゃんと袴の股立とりて……大小すっきり落しにさして……
――飛んでもない、いや、串戯じゃない、何がしゃんと、股立です。のぞき浅黄のぶッ裂羽織が事おかしい。熱くて脱いだ黒無地のべんべら絽が畳んであった、それなり懐中へ捻込んだ、大小すっきり落しにさすと云うのが、洋杖、洋杖です。あいつを左腰から帯へ突出してぶら下げた形といっては――千駄木の大師匠に十幾年、年期を入れた、自分免許の木彫の手練でも、洋杖は刀になりません。竹箆にも杓子にもならない。蟻にはもとより、蕪にならず、大根にならず、人参にならず、黒いから、大まけにまけた処が牛蒡です。すなわち、牛蒡丸抜安の細身の一刀、これをぶら下げた図というものは、尻尾じゃないが、十番越に狸穴から狸に化かされた同様な形です。
ああ、しかし、こういっても――不思議ともいうべき、めぐり合せで、その時、一つ傘で連立っていた――お冬さんを、おなじ化され夥間だと思われては情ない。申訳がないのです。
酔っています。だしぬけにこんな事をいって、確に酔っている。私は息が忙込みますが、あなたはどうぞ静にお聞き下さい……」
――ちょっと呆気に取られたが、この言葉で、筆者は静に聞いていた。
「話は前後しました、が、この既にお冬さんの一つ傘に肩を並べた時は、何だか、それなり一本松へ心中に出掛けるような気がしたんですから――この面や格好を見ては不可ません。」
直槙は寂しく笑った。
「まあ、しかし忘れぬうちに、唄のあとを続けてからにしましょう。――大小すらりと落しにさして、――という処で、前後しました……
ここで死んでは憚る人目。死出の山辺に燈一つ見える、一つ灯にただ松一つ、一本松こそ場所屈竟と、頃は五月の日も十四日、月はあれども心の闇に、迷う手と手の相合傘よ、すぐに柄もりに袖絞るらむ。心細道岩坂辿り、辿りついたはその松の蔭。かげの夫婦は手で抱合うて、かくす死恥旗天蓋と、蛇目傘開いて肩身をすぼめ、おとせ、あれあれ草葉の露に、青い幽な蛍火一つ、二つないのは心にかかる。されど露には影さすものを、わたしゃ影でも厭いはせぬと、縋るおとせをまた抱きしめて、女房過分な、こうなる身にも、露の影とは、そなたの卑下よ、消ゆるわれらに永劫未来、たった一つの光はそなた。さらば最期ぞ、覚悟はよいか、いえばおとせは顔ふりあげて、なんの今さら未練があろう、早う早うと両掌を合わす、松もかつ散る氷の刃……
つらつら思うに、心中なぞするもんじゃありません、後世には酒の肴になる。いや怪しからない、いつまで聞いていようというんだ。私は心で叱りました。」――
「――ありがとう……厚くお礼を申上げる……唄と、馳走のお厚情、かさねて、ご挨拶を。これで、失礼――心なく、思わず長座をいたしました。何だか帰途に一本松が見たくなりました。」と、機に起つと、
「わけないぞに、一緒に行こうかに。」
慄悚とした、玉露を飲んで、中気薬を舐めさせられた。その厭な心持。酔も醒めたといううちにも、エイと掛声で、上框に腰を落して、直してあった下駄を突っかける時、
「ああ月が出た。」
と壁の胡瓜を見たんですから、ちらつくどころか、目も磨硝子で、ゆがんでいた。
処へ、ざっと雨が来ました。土間の鉢植が、土と一所に湿っぽく濡々と香う。
「お孝や、いいんだよ。私がお送り申すから。」
すぐ傍で――いま、つい近い自動車まで、と傘を手にして三和土へ出た娘を留めて――優しい声がすると、酒の勢で素早く格子戸を出た、そのすぐ傍です。切戸が一枚、片暗がりにツイと開く。鉢植でもあろうと思う、細い柳の雨に搦んで、細い青々とした、黒塀へ、雪が浮いたように出たんです。袖に添えた紺蛇目傘がさっと涼しい、ろくろの音で、
「さあ、どうぞ。」
一かげり翳った下へ、私は頭は光らないが、小さな蛍のようにもう吸込まれた。送って出たお孝が紛れ込むように、降り来る雨に、一騒ぎ。そこらがざわめく人の足音、潮時の往来の影。その賑な明るい燈の町へ向わずに、黒塀添いを傘で導く。
死出の山辺の灯一つ見える、一つ灯に松ただ一つ、一本松こそ、場所屈竟と、頃は五月の日も十四日、月はあれども心の闇に、迷う手と手の相合傘よ、すぐに柄もりの袖絞るらむ……
被布の抜衣紋で、ぐたりとなった、尼婆さんの形が、散らかった杯盤の中に目に見えるようで、……二階でまだ唄っている。
「お危うございますよ、敷石に高低がありますから。」
「つん《のめ》っても構やしません。」
「あんなこと。」
「そうすれば、お縋り申す。」
「おほほ。」
「しかし、いいんですか。……失礼ですが、お冬さん……ですね。」
横顔で莞爾したようで、唇が動いたが、そのまま艶々とした円髷の、手柄の浅黄を薄く、すんなりとした頸脚で、うつむいたのがうなずいた返事らしい。
「……ほんとうにいいんですか、病気だっていうじゃありませんか。」
「ぶらぶらしてはいましたけれど、よもや、こんな処へなぞおいでなさりはしなかろうと思っておりましたのに、真実嬉しゅうございますわ。」
「私も嬉しいんです。」
何だか声が掠れている。
「まあ、お世辞のいいこと。でも、いま、名をおっしゃられて震えましたよ。とても覚えてなぞお在なさらないと存じました。けれど、それでもお目にかかりますのに、余り取乱していたもんですから、急にあの髪結さんを呼んで、それから湯へ入ったりなんかして……ついお座敷へ伺いますのが。」
夜目にも湯上りの薄化粧と、見れば一層鬢が濡れて、ほんのりした耳元の清らかさ。それに人肌といいますか、なつかしい香が、傘を打つしとしと雨に、音もなく揺れるんです。
「卯の花。」
慌てて、言いそらして、
「曳船を、柳町を思い出します。」
「ねえ、お久しい……二十……何年ぶりですか。私は口不重宝で、口に出しては何にもいえはいたしません。」
「何をです。」
「いいえ、いいんです。」
「おっしゃい、云って下さい、そうでないと、狸になって、あなたの傘を持った手に、もじゃ、もじゃ。」
「あれ。」
「触りやしない。触りやしないが、ぶら下りかねないというんです。いって下さいよ。」
「ただね、あつかましいんですけど、片時も忘れはしませんと申す事。」
「ご同然……」
「……」
「以上です。」
「……」
「お冬さん」
「……」
「口をおききなさらなければ毛だらけの手が。」
「それこそ、狸ちゃんでいらっしゃる。」
「ええ、狸。」
「私をおだましなさいます。」
「はぐらかしちゃ不可ないなあ、時に、路地を出ましたね。」
下駄がしとって、燈が流れる。
「構いませんか、こんな事をして歩行いていて。」
「里うちですもの、お互に廊下で行逢うもおなじですわ。」
私は酒の胸がわくわくした。
「ところで、自動車の、あります処は。」
「手前どもの、つい傍だったんでございますけれど、少し廻道をしたんですよ。大それた……お連れ申して歩行いて済みません。もう直きそこにございますから。」
「そりゃ、そりゃ困る、直きそこじゃ困るんだ。是非大廻りに、堂々めぐり、五百羅漢、卍巴に廻って下さい。唐天竺か、いや違った、やまと、もろこしですか、いぎりす、あめりかか、そんな、まだるっこしいことはおいて、お願いです、二の橋か、一本松へ連れてって頂きたい。」
「いらっしゃる。」
お冬は軽く佇みました。
「ほんとうに。」
「勿論、一緒に行って下さるんなら。ご迷惑?」
「いいえ、嬉しいんです。でも、まだお目にかかりませんけれど、奥様にお悪くはないでしょうか。」
「名所古跡を尋ねるのは、堂寺まいり同然です、構やしない。後生のためです、順礼に報謝のつもりで――ああ、そうだ亀井戸だ。――お酌というのが贅沢なら、あなたの手から煙草をのまないじゃ帰らない、いっそお宅へ引返すか。」
「それは、でもあの尼が、あなたのお座敷へ出ますのを喜びませんような様子が見えます。」
これはそうらしい。でなくっても、あの顔は見たくない。またいかに何でも、ほかの待合なぞへとは言いかねました。もっともそのまま別れる気はない。処へ自動車が見つかった。
弱った、一応は声をかけなければ済まない。
「ああ、柳町へ来ましたね。」
ちょうど人丈三つばかりなのが、雨に青い蓑で立っていて、その傍に空地を控え、おでん屋が出ていました。
「またおもい出します、難有い。」
傘の中から面と肩を斜っかいに、つっかかるように暖簾の中へ突出して、
「や、お閻魔殿、ご機嫌よう。」
「一口にがアぶり、えヘッ、ヘッヘッ、頭から塩という処を……味噌にしますか。」
「味噌は、あやまる。からしにしてくれ、菎蒻だ。」
「掛声はありがたいが閻魔はひどうがす。旦那、辻の地蔵といわれます、石で刻んで、重味があっても、のっぺりと柔い。」
「なるほど。」
「はんぺんのような男で。」
「はんぺんは不可い、菎蒻だ。からしを。」
「ご酒は……酒はそれこそ、黒松の生一本です。」
「私は、何だったって、一本松だよ。」
傘に葉ずれの音がします。うしろから柳の寝ン寝子を着せ掛けられるような気がして振向くと、一つに包まったほど、小雨もほの暖く湯上りの白い膚が、単衣を透通るばかり、立っている。
「おお、こりゃ、雪の家の、ご新姐。」
待合の女房を、ご新姐という。娘のおかみさんがあるのに対してだ、と思われた。
あとで解った事ですが。――
お冬は武家の出で、本所に落魄れた旗本か、ごけにんの血を引いている。煮豆屋の婆が口を利いて、築地辺の大会社の社長が、事務繁雑の気保養に、曳船の仮の一人ずみ、ほんの当座の手伝いと、頼まれた。手廻り調度は、隅田川を、やがて、大船で四五日の中に裏木戸へ積込むというので、間に合せの小鍋、碗家具、古脇息の類まで、当座お冬の家から持運んでいた、といいます。その折に、雲原明流先生の内弟子、けずり小僧が訪ねたのです。
それこそ、徳川の末の末の細流は、淀みつ、濁りつ、消えつつも、風説は二の橋あたりへまで伝わり流れて、土地のおでん屋の耳から口へ、ご新姐であったとも思われる。
ついでに、
――曳船の時、お十九でいらっしゃいましたね、そのあんたの前で、間淵洞斎が頬杖をつきながら、十五の私を、おれの女房だと、申しました。それッきり、私は世の中を断念めました――
肌身は、茶碗の水と一緒に、その夜、卯の花のように、こなごなに散った、と言うのを、やがて聞くことになりました。
それも、これも、私が魅されたのかも知れない。間淵に、例の「魔道伝書」がありましょう。女房に相伝していないと言われますか――お聞きになれば分るんですが。
「何を差上げます。ご新姐さん。」
うしろの空地に、つめ襟の服と、印半纏、人影が二つ三つさして来た。
「私は。……」
「しばらく、お見かけ申しません。」
「ご病気だった。それだもの、湯ざめをなさると不可い。猪口でなんぞ、硝子盃だ、硝子盃。しかし、一口いかがです。」
「では。わざと一つだけ。」
で、硝子盃から猪口へ通わせる。何を通わせるんだか、さながら手品の前芸です。酔方をお察し下さい。
「ご勘定、いいんですよ。」
「よくはありません。」
「私におまかせなさいまし。」
「実はおまかせ申したいんです。溝へ打棄らないで、一本松へ。」
「はあ、それはご趣向。あとで、お駕籠でお迎いに参りましょう。」
「棺桶といえ、お閻魔殿。――ご馳走でした。……お冬さん、そこで、一本松までは遥々ですか。」
「ええ、ええ、遥々……ここから小石川柳町もっと、本所ほどもありましょうか、ほほほ――そこの(ぞうしき)から直ぐですわ。」
「そいつは、心中を済ましたあとです。」
「まあ、(ぞうしき)という町の名。」
「これは失礼。」
と、明い町に、お辞儀をして、あの板の並んだ道を、船に乗ったように蹌踉した。酔っています。
「交番がありますから、裏路地を。」
「的実、ごもっともです。」
「ね、暗うございますから、お気をつけなさいましよ。」
「おお、冷い。……おん手を給わる、……しかし冷いお手だ。」
「済みません。冬も寒の中、指は霜の柱ですわ、こんな身体で。」……
「飛んでもない、私から見ると(二十一)だ。何でしたっけ、何だっけ……(年紀は二十一愛嬌盛り。)……」
「あれ、危い、路が悪いんですから、そんなにお離れなすっては濡れますよ。」
「心得た、(しゃんと袴の股立とりて。大小すらりと落しにさして。)……」
――ここです。濡れに寄るにも、袖によるにも、洋杖は溢出しますから、件の牛蒡丸抜安です。それ、ばかされていましょう。ばかされながらもその頃までは、まだ前後を忘却していなかった筈ですが、路地を出ると、すぐ近く、高い石磴が、くらがりに仄白い。深々とした夜気に包まれて階子のように見えるのが、――ご存じと思います。――故郷の一本松の上り口にそっくりです。
段の数はあるが、一も二もなく踏掛けた。
あたりに人ッ子一人なし、雨はしきる、相合傘で。
「――いよいよ道行です、何でしたっけ……
さらば最期のかねての覚悟。
女肌には緋のかたびらに、上は単衣の藍紺縞よ………………
でしたかね。」
という時、ふと見ると、おでん屋の燈でも、町通りでも気がつかなかった。暗夜の幻影、麻布銀座のあかりがさすか、その藍と紺の横縞の、お召……ですか、その単衣に、繻子ではないでしょうが、黒の織物に、さつきの柳の葉が絡ったような織出しの優しい帯をしめている。
――生霊か、死霊か、ここでその姿が消えるのではないかと、聞いている筆者は思った。さきに「近世怪談録」を見ているほどだから、その浅草新堀の西福寺うらの若侍とおなじく、横路地で冷たい手、といった時、もう片手きかないほどに氷ったのではないか、と危んだくらいであった。
「……やさしい、すずしい帯でした。
女肌には緋のかたびらに……
が、それが、なよなよとした白縮緬、青味がかった水浅黄の蹴出しが見える、緋鹿子で年が少いと――お七の処、磴が急で、ちらりと搦むのが、目につくと、踵をくびった白足袋で、庭下駄を穿いていました。」
――筆者はその時、二人の酒席の艶かな卓子台の上に、水浅黄の褄を雪なす足袋に掛けて、片裾庭下駄を揚げた姿を見、且つ傘の雫の杯洗にこぼるる音を聞いた。熟と、ともに天井を仰いだ直槙は、その丸髷の白い顔に、鮮麗な眉を、面影に見たらしい。――熟と、しばらくして、まうつむけのように俯向いた。酔っている。
「や、あなたは庭下駄を穿いていますね。」
吃驚して私が云った。
「いっそ脱ぎましょうか。」
「跣足になる……」
「ええ。」
「覚悟はいいんですか。」
「本望ですわ。」
「一本松へ着いてから。」
「ええ一本松へついてから。」
「一緒に草葉の蛍を見ましょう。」
「是非どうぞ。」
「そこまでは脱がせません、玉散る刃を抜く時に。」
が、例の牛蒡丸の洋杖で、そいつを捻くった処は、いよいよもって魅まれものです。
――さて、その一本松です。夜目に見て、前申した故郷の松にそのままです。一体、名所の松といえば、それが二本松、三本松でも、実際また絵で見なくても、いい姿はわかるものです、暗夜の遠燈の、ほの影に、それに靄をかけた小雨なんです。
――ああ、まだあすこをごらんにならない。――実は私もその夜がはじめてで。
事情あって、その後も、あの一本松、また寺の石磴のあたりまでは参りましたけれども、石磴を上ったって松も何もありはしません。磴は横です。真向うに、その夜、真暗な上り道がありました。一本松はその上なんです。石磴は、のぼると、……寺なのを、まつたくその時は知らなかった。のみならず、お目にかけたいくらい、あの石磴は妙です。あたりに何にもない中に立っているから、仄白い空の階子のようで、故郷の山道に似た処から、ひとりぎめに、私が先へ踏掛けた。ついて上ったのは、お冬さんなんですが、どうでしょう。庭下駄で捌く褄の媚かしさが、一段、一段、肩にも、腰にも、裳にも添って、上り切ると、一本松が見えたから不思議なんです。
「風はないのに、松の匂が襲うと一緒に、弱い女の肌の香が消えそうで。……実際身でしめ、袖で抱きたかった。
心細道、岩坂辿り、辿りついたはその松の蔭、
……その一本松よき死場所と、
かげの夫婦は手で抱合うて……
それから何でしたっけ。」
お冬が、
「……かくす死恥……ですわ、そんな、唄、うたってかまいませんか。
かくす死恥旗天蓋に、蛇目傘開いて肩身をすぼめ……
あれ、お燈明が、石燈籠に。
おとせあれ見よ、草葉の露に、青い幽迷な蛍火一つ……
蛍のようですわね。」
「お燈明。」
「ええ、ねえ、ごらんなさい、この松には女の乳を供えるんです。」
「飛んでもない、あなたの乳なぞ。……妬ける、妬けます。」
と云った。……乳とただ言われただけで、お冬さんの胸が雪白に見えるほど、私の目が、いいえ、お冬さんのいう言葉が、乳にかぎらず、草といえば、草、葉といえば、葉、露は、露、蛍は、蛍、燈明が燈明に見えたんです。何よりも一本松が一本松に、ありありと夜中に見えたんですから化されていたに違いない。いやそれ以上、魔法にやられていたのです、――「伝書」をお忘れになりますまい。ところで、唄の忘れた処は、その胸に手をあてて、お冬さんが思い出しては、つけてうたって、聞かせました。
「あの、……(わたしゃ蔭でもいといはせぬと、縋るおとせ)……何ですか、もんくでも私の口からだとあつかましい。」
「それはこっちでいう事ですが、何でしたっけな……縋るおとせをまた抱きしめて……
……縋るおとせをまた抱きしめて、女房過分な、こうなる身にも、露の影とは女の卑下よ、消ゆるわが身に永劫未来、たった一つの光はそなた。