11話 一一
読み方を変える
お八重お定の二人が、郷里を出て十二日目の夕、忠太に伴れられて、上野のステイションから歸郷の途に就いた。
貫通車の三等室、東京以北の總有國々の訛を語る人々を、ぎつしりと詰めた中に、二人は相並んで、布袋の樣な腹をした忠太と向合つてゐた。長い/\プラットフォームに數限りなき掲燈が晝の如く輝き初めた時、三人を乘せた列車が緩やかに動き出して、秋の夜の暗を北に一路、刻一刻東京を遠ざかつて行く。
お八重はいふ迄もなく、お定さへも此時は妙に淋しく名殘惜しくなつて、密々と其事を語り合つてゐた。此日は二人共庇髮に結つてゐたが、お定の頭にはリボンが無かつた。
忠太は、棚の上の荷物を氣にして、時々其を見上げ見上げしながら、物珍し相に乘合の人々を、しげしげと見比べてゐたが、一時間許り經つと少し身體を屈めて、
『尻ア痛くなつて來た。』と呟やいた。『汝ア痛くねえが?』
『痛くねえす。』とお定は囁いたが、それでも忠太がまだ何か話欲しさうに屈んでるので、
『家の方でヤ玉菜だの何ア大きくなつたべなす。』
『大きくなつたどもせえ。』と言つた忠太の聲が大きかつたので、周圍の人は皆此方を見る。
『汝ア共ア逃げでがら、まだ二十日にも成んめえな。』
お定は顏を赤くしてチラと周圍を見たが、その儘返事もせず俯いて了つた。お八重は顏を蹙めて、忌々し氣に忠太を横目で見てゐた。
十時頃になると、車中の人は大抵こくり/\と居睡を始めた。忠太は思ふ樣腹を前に出して、グッと背後に凭れながら、口を開けて、時々鼾をかいてゐる。お八重は身體を捻つて背中合せに腰掛けた商人體の若い男と、頭を押接けた儘、眠つたのか眠らぬのか、凝としてゐる。
窓の外は、機關車に惡い石炭を焚くので、雨の樣な火の子が横樣に、暗を縫うて後ろに飛ぶ。懷手をして圓い頤を襟に埋めて俯いてゐるお定は、郷里を逃げ出して以來の事を、それからそれと胸に數へてゐた。お定の胸に刻みつけられた東京は、源助の家と、本郷館の前の人波と、八百屋の店と、への字口の鼻先が下向いた奧樣とである。この四つが、目眩ろしい火光と轟々たる物音に、遠くから包まれて、ハッと明るい。お定が一生の間、東京といふ言葉を聞く毎に、一人胸の中に思出す景色は、恐らく此四つに過ぎぬであらう。
軈てお定は、懷手した左の指を少し許り襟から現して、柔かい己が頬を密と撫でて見た。小野の家で着て寢た蒲團の、天鵞絨の襟を思出したので。
瞬く間、窓の外が明るくなつたと思ふと、汽車は、とある森の中の小さい驛を通過した。お定は此時、丑之助の右の耳朶の、大きい黒子を思出したのである。
新太郎と共に、三人を上野まで送つて呉れたお吉は、さぞ今頃、此間中は詰らぬ物入をしたと、寢物語に源助にこぼしてゐる事であらう。