2話 伯爵の釵(2)
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少時すると、此の旱に水は涸れたが、碧緑の葉の深く繁れる中なる、緋葉の滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池の汀を歩行いて居た。こゝに別に滝の四阿と称ふるのがあつて、八ツ橋を掛け、飛石を置いて、枝折戸を鎖さぬのである。
で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻りする事に成る。紫玉はあの、吹矢の径から公園へ入らないで、引返したので、……涼傘を投遣りに翳しながら、袖を柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処で抜いた白金の鸚鵡の釵、其の翼を一寸抓んで、晃乎とぶら下げて居るのであるが。
仔細は希有な、……
坊主が土下座して「お慈悲、お慈悲。」で、お願と言ふのが金でも米でもない。施与には違ひなけれど、変な事には「お禁厭をして遣はされい。虫歯が疚いて堪へ難いでな。」と、成程左の頬がぷくりとうだばれたのを、堪難い状に掌で抱へて、首を引傾けた同じ方の一眼が白くどろんとして潰れて居る。其の目からも、ぶよ/\とした唇からも、汚い液が垂れさうな塩梅。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五寸釘を打たれうとても、恁までの苦悩はございますまいぞ、お情ぢや、禁厭うて遣はされ。」で、禁厭とは別儀でない。――其の紫玉が手にした白金の釵を、歯のうろへ挿入て欲しいのだと言ふ。
「太夫様お手づから。……竜と蛞蝓ほど違ひましても、生あるうちは私ぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明に照らされますだけでも、此の疚痛は忘られませう。」と、はツはツと息を吐く。……
既に、何人であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所謂禁厭の断り悪さは、金銭の無心をされたのと同じ事――但し手から手へ渡すも恐れる……落して釵を貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴女様の膚の移香、脈の響をお釵から伝へ受けたいのでござります。貴方様の御血脈、其が禁厭に成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を開いた中へ、紫玉は止む事を得ず、手に持添へつつ、釵の脚を挿入れた。
喘ぐわ、舐るわ! 鼻息がむツと掛る。堪らず袖を巻いて唇を蔽ひながら、勢ひ釵とともに、やゝ白やかな手の伸びるのが、雪白なる鵞鳥の七宝の瓔珞を掛けた風情なのを、無性髯で、チユツパと啜込むやうに、坊主は犬蹲に成つて、頤でうけて、どろりと嘗め込む。
唯、紫玉の手には、づぶ/\と響いて、腐れた瓜を突刺す気味合。
指環は緑紅の結晶したる玉の如き虹である。眩しかつたらう。坊主は開いた目も閉ぢて、《ぼう》とした顔色で、しつきりもなしに、だら/\と涎を垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――
不思議な光景は、美しき女が、針の尖で怪しき魔を操る、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶店の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸を殺して固唾を飲んだ。
……「あゝ、お有難や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包、がつくりと抜衣紋。で、両掌を仰向け、低く紫玉の雪の爪尖を頂く真似して、「恁やうに穢いものなれば、くど/\お礼など申して、お身近は却つてお目触り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を捻ぢるやうに杖で立つて、
「お有難や、お有難や。あゝ、苦を忘れて腑が抜けた。もし、太夫様。」と敷居を跨いで、蹌踉状に振向いて、「あの、其のお釵に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡を視る時、「歯くさが着いては居りませぬか。恐縮や。……えひゝ。」とニヤリとして、
「ちやつとお拭きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙を、余儀なく一寸逡巡つた。
同時に、あらぬ方に蒼と面を背けた。
六
紫玉は待兼ねたやうに懐紙を重ねて、伯爵、を清めながら、森の径へ行きましたか、坊主は、と訊いた。父も娘も、へい、と言つて、大方然うだらうと言ふ。――最う影もなかつたのである。父娘は唯、紫玉の挙動にのみ気を奪られて居たらう。……此の辺を歩行く門附見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足で居ました、と言つたので、旅から紛込んだものか、其も分らぬ。
と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々眉を顰めた。抜いて持つた釵、鬢摺れに髪に返さうとすると、呀、する毎に、手の撓ふにさへ、得も言はれない、異な、変な、悪臭い、堪らない、臭気がしたのであるから。
城は公園を出る方で、其処にも影がないとすると、吹矢の道を上つたに相違ない。で、後へ続くには堪へられぬ。
其処で滝の道を訊いて――此処へ来た。――
泉殿に擬へた、飛々の亭の孰れかに、邯鄲の石の手水鉢、名品、と教へられたが、水の音より蝉の声。で、勝手に通抜けの出来る茶屋は、昼寝の半ばらしい。何の座敷も寂寞して人気勢もなかつた。
御歯黒蜻蛉が、鉄漿つけた女房の、微な夢の影らしく、ひら/\と一つ、葉ばかりの燕子花を伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍遙した昔の幻を、寂しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。
すべて旧藩侯の庭園だ、と言ふにつけても、贈主なる貴公子の面影さへ浮ぶ、伯爵の鸚鵡を何とせう。
霊廟の土の瘧を落し、秘符の威徳の鬼を追ふやう、立処に坊主の虫歯を癒したは然ることながら、路々も悪臭さの消えないばかりか、口中の臭気は、次第に持つ手を伝つて、袖にも移りさうに思はれる。
紫玉は、樹の下に涼傘を畳んで、滝を斜めに視つゝ、池の縁に低く居た。
滝は、旱に爾く骨なりと雖も、巌には苔蒸し、壺は森を被いで蒼い。然も巌がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の凄じく響くのは、大樋を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠に灌ぐと聞く、戦国の余残ださうである。
紫玉は釵を洗つた。……艶なる女優の心を得た池の面は、萌黄の薄絹の如く波を伸べつゝ拭つて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に挿さうとすると、些と離したくらゐでは、耳の辺へも寄せられぬ。鼻を衝いて、ツンと臭い。
「あ、」と声を立てたほどである。
雫を切ると、雫まで芬と臭ふ。たとへば貴重なる香水の薫の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど香が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、果は指環の緑碧紅黄の珠玉の数にも、言ひやうのない悪臭が蒸れ掛るやうに思はれたので。……
「えゝ。」
紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振振つた。
「ぬしにお成りよ。」
白金の羽の散る状に、ちら/\と映ると、釵は滝壺に真蒼な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽よ。卿は熱帯の鬱林に放たれずして、山地の碧潭に謫されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の獲ものに競ふか、静なる池の面に、眠れる魚の如く縦横に横はつた、樹の枝々の影は、尾鰭を跳ねて、幾千ともなく、一時に皆揺動いた。
此に悚然とした状に、一度すぼめた袖を、はら/\と翼の如く搏いたのは、紫玉が、可厭しき移香を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、尚ほ且つ飜々とふるひながら、衝と飛退くやうに、滝の下行く桟道の橋に退いた。
石の反橋である。巌と石の、いづれにも累れる牡丹の花の如きを、左右に築き上げた、銘を石橋と言ふ、反橋の石の真中に立つて、吻と一息した紫玉は、此の時、すらりと、脊も心も高かつた。
七
明眸の左右に樹立が分れて、一条の大道、炎天の下に展けつゝ、日盛の町の大路が望まれて、煉瓦造の避雷針、古い白壁、寺の塔など睫を擽る中に、行交ふ人は点々と蝙蝠の如く、電車は光りながら山椒魚の這ふのに似て居る。
忘れもしない、眼界の其の突当りが、昨夜まで、我あればこそ、電燭の宛然水晶宮の如く輝いた劇場であつた。
あゝ、一翳の雲もないのに、緑紫紅の旗の影が、ぱつと空を蔽ふまで、花やかに目に飜つた、唯見ると颯と近づいて、眉に近い樹々の枝に色鳥の種々の影に映つた。
蓋し劇場に向つて、高く翳した手の指環の、玉の矜の幻影である。
紫玉は、瞳を返して、華奢な指を、俯向いて視つゝ莞爾した。
そして、すら/\と石橋を前方へ渡つた。それから、森を通る、姿は翠に青ずむまで、静に落着いて見えたけれど、二ツ三ツ重つた不意の出来事に、心の騒いだのは争はれない。……涼傘を置忘れたもの。……
森を高く抜けると、三国見霽しの一面の広場に成る。赫と射る日に、手廂して恁う視むれば、松、桜、梅いろ/\樹の状、枝の振の、各自名ある神仙の形を映すのみ。幸ひに可忌い坊主の影は、公園の一木一草をも妨げず。又……人の往来ふさへ殆どない。
一処、大池があつて、朱塗の船の、漣に、浮いた汀に、盛装した妙齢の派手な女が、番の鴛鴦の宿るやうに目に留つた。
真白な顔が、揃つて此方を向いたと思ふと。
「あら、お嬢様。」
「お師匠さーん。」
一人が最う、空気草履の、媚かしい褄捌きで駆けて来る、目鼻は玉江。……最う一人は玉野であつた。
紫玉は故郷へ帰つた気がした。
「不思議な処で、と言ひたいわね。見ぶつかい。」
「えゝ、観光団。」
「何を悪戯をして居るの、お前さんたち。」
と連立つて寄る、汀に居た玉野の手には、船首へ掛けつゝ棹があつた。
舷は藍、萌黄の翼で、頭にも尾にも紅を塗つた、鷁首の船の屋形造。玩具のやうだが四五人は乗れるであらう。
「お嬢様。おめしなさいませんか。」
聞けば、向う岸の、むら萩に庵の見える、船主の料理屋には最う交渉済で、二人は慰みに、此から漕出さうとする処だつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束なさに念を押すと、浅くて棹が届くのだから仔細ない。但、一ヶ所底の知れない深水の穴がある。竜の口と称へて、此処から下の滝の伏樋に通ずるよし言伝へる、……危くはないけれど、其処だけは除けたが可からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出して仕誼を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。
「あれ、彼処ですわ。」と玉野が指す、大池を艮の方へ寄る処に、板を浮かせて、小さな御幣が立つて居た。真中の築洲に鶴ヶ島と言ふのが見えて、祠に竜神を祠ると聞く。……鷁首の船は、其の島へ志すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。
「乗らうかね。」
と紫玉は最う褄を巻くやうに、爪尖を揃へながら、
「でも何だか。」
「あら、何故ですえ。」
「御幣まで立つて警戒をした処があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」
「否、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞だと言つて立てたんださうですの、此の旱ですから。」
八
岸をトンと盪すと、屋形船は軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより巧に棹さす。大池は静である。舷の朱欄干に、指を組んで、頬杖ついた、紫玉の胡粉のやうな肱の下に、萌黄に藍を交へた鳥の翼の揺るゝのが、其処にばかり美しい波の立つ風情に見えつゝ、船はする/\と滑つて、鶴ヶ島をさして滑かに浮いて行く。
然までの距離はないが、月夜には柳が煙るぐらゐな間で、島へは棹の数百ばかりはあらう。
玉野は上手を遣る。
さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした静な水も、棹に掻かれて何処ともなしに波紋が起つた、其の所為であらう。あの底知らずの竜の口とか、日射も其処ばかりはものの朦朧として淀むあたりに、――微との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直に立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を転へて、夢のやうに一寸二寸づゝ動きはじめた。
凝と、……視るに連れて、次第に、緩く、柔かに、落着いて弧を描きつゝ、其の円い線の合する処で、又スースーと、一寸二寸づゝ動出すのが、何となく池を広く大きく押拡げて、船は遠く、御幣は遙に、不思議に、段々汀を隔るのが心細いやうで、気も浮かりと、紫玉は、便少ない心持がした。
「大丈夫かい、彼処は渦を巻いて居るやうだがね。」
欄干に頬杖したまゝ、紫玉は御幣を凝視めながら言つた。
「詰りませんわ、少し渦でも巻かなけりや、余り静で、橋の上を這つてゐるやうですもの、」
とお転婆の玉江が洒落でもないらしく、
「玉野さん、船を彼方へ遣つて見ないか?……」
紫玉が圧へて、
「不可いよ。」
「否、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を敲けば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が然う言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。
成程、島を越した向う岸の萩の根に、一人乗るほどの小船が見える。中洲の島で、納涼ながら酒宴をする時、母屋から料理を運ぶ通船である。
玉野さへ興に乗つたらしく、
「お嬢様、船を少し廻しますわ。」
「だつて、こんな池で助船でも呼んで覧たが可い、飛んだお笑ひ草で末代までの恥辱ぢやあないか。あれお止しよ。」
と言ふのに、――逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木ほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の面にぴたりとついたと思ふと、罔竜の頭、絵ける鬼火の如き一条の脈が、竜の口からむくりと湧いて、水を一文字に、射て疾く、船に近づくと斉しく、波はざツと鳴つた。
女優の船頭は棹を落した。
あれ/\、其の波頭が忽ち船底を噛むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三尺あとへ引いて、薄波を一煽り、其の形に煽るや否や、人の立つ如く、空へ大なる魚が飛んだ。
瞬間、島の青柳に銀の影が、パツと映して、魚は紫立つたる鱗を、冴えた金色に輝かしつゝ颯と刎ねたのが、飜然と宙を躍つて、船の中へ堂と落ちた。其時、水がドブンと鳴つた。
舳と艫へ、二人はアツと飛退いた。紫玉は欄干に縋つて身を転はす。
落ちつゝ胴の間で、一刎、刎ねると、其のはずみに、船も動いた。――見事な魚である。
「お嬢様!」
「鯉、鯉、あら、鯉だ。」
と玉江が夢中で手を敲いた。
此の大なる鯉が、尾鰭を曳いた、波の引返すのが棄てた棹を攫つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。
九