伯爵の釵

2話 伯爵の釵(2)

5,751字 約12分 2009年5月31日 公開

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 少時(しばらく)すると、此の(ひでり)に水は()れたが、碧緑(へきりょく)の葉の深く繁れる中なる、緋葉(もみじ)の滝と云ふのに対して、紫玉は蓮池(はすいけ)(みぎわ)歩行(ある)いて居た。こゝに別に滝の四阿(あずまや)(とな)ふるのがあつて、()(はし)を掛け、飛石(とびいし)を置いて、枝折戸(しおりど)(とざ)さぬのである。

 で、滝のある位置は、柳の茶屋からだと、もとの道へ小戻(こもど)りする事に成る。紫玉はあの、吹矢(ふきや)(みち)から公園へ入らないで、引返(ひきかえ)したので、……涼傘(ひがさ)投遣(なげや)りに(かざ)しながら、(そで)を柔かに、手首をやゝ硬くして、彼処(あすこ)で抜いた白金(プラチナ)鸚鵡(おうむ)(かんざし)、其の翼を一寸(ちょっと)(つま)んで、晃乎(きらり)とぶら下げて居るのであるが。

 仔細は希有(けう)な、……

 坊主が土下座(どげざ)して「お慈悲、お慈悲。」で、お(ねがい)と言ふのが(かね)でも米でもない。施与(ほどこし)には違ひなけれど、変な事には「お禁厭(まじない)をして(つか)はされい。虫歯が(うず)いて堪へ(がた)いでな。」と、成程(なるほど)左の(ほお)がぷくりとうだばれたのを、堪難(たえがた)(さま)(てのひら)(かか)へて、首を引傾(ひっかたむ)けた同じ方の一眼(いちがん)が白くどろんとして(つぶ)れて居る。其の目からも、ぶよ/\とした唇からも、(きたな)(しる)が垂れさうな塩梅(あんばい)。「お慈悲ぢや。」と更に拝んで、「手足に五(すん)釘を打たれうとても、(かく)までの苦悩(くるしみ)はございますまいぞ、お(なさけ)ぢや、禁厭(まじの)うて(つか)はされ。」で、禁厭(まじない)とは別儀(べつぎ)でない。――其の紫玉が手にした白金(プラチナ)の釵を、歯のうろへ挿入(さしいれ)て欲しいのだと言ふ。

太夫様(たゆうさま)お手づから。……竜と蛞蝓(なめくじ)ほど違ひましても、(しょう)あるうちは(わし)ぢやとて、芸人の端くれ。太夫様の御光明(おひかり)に照らされますだけでも、此の疚痛(いたみ)は忘られませう。」と、はツはツと息を()く。……

 既に、何人(なんぴと)であるかを知られて、土に手をついて太夫様と言はれたのでは、其の所謂(いわゆる)禁厭(まじない)の断り(にく)さは、金銭の無心(むしん)をされたのと同じ事――(ただ)し手から手へ渡すも恐れる……落して(かんざし)を貸さうとすると、「あゝ、いや、太夫様、お手づから。……貴女様(あなたさま)(はだ)移香(うつりが)、脈の(ひびき)をお釵から伝へ受けたいのでござります。貴方様(あなたさま)御血脈(おけちみゃく)、其が禁厭(まじない)に成りますので、お手に釵の鳥をばお持ち遊ばされて、はい、はい、はい。」あん、と口を(ひら)いた中へ、紫玉は()む事を得ず、手に持添(もちそ)へつつ、釵の(あし)挿入(さしい)れた。

 (あえ)ぐわ、(しゃぶ)るわ! 鼻息(はないき)がむツと(かか)る。(たま)らず袖を巻いて唇を(おお)ひながら、(いきお)ひ釵とともに、やゝ(しろ)やかな手の伸びるのが、雪白(せっぱく)なる鵞鳥(がちょう)七宝(しっぽう)瓔珞(ようらく)を掛けた風情(ふぜい)なのを、無性髯(ぶしょうひげ)で、チユツパと啜込(すすりこ)むやうに、坊主は犬蹲(いぬつくばい)に成つて、(あご)でうけて、どろりと()め込む。

 ()、紫玉の手には、づぶ/\と響いて、腐れた(うり)突刺(つきさ)気味合(きみあい)

 指環は緑紅(りょくこう)の結晶したる玉の如き(にじ)である。(まぶ)しかつたらう。坊主は(ひら)いた目も閉ぢて、《ぼう》とした顔色(がんしょく)で、しつきりもなしに、だら/\と(よだれ)を垂らす。「あゝ、手がだるい、まだ?」「いま一息。」――

 不思議な光景(ようす)は、美しき女が、針の(さき)で怪しき魔を(あやつ)る、舞台に於ける、神秘なる場面にも見えた。茶店(ちゃみせ)の娘と其の父は、感に堪へた観客の如く、呼吸(いき)を殺して固唾(かたず)を飲んだ。

 ……「あゝ、お有難(ありがた)や、お有難い。トンと苦悩を忘れました。お有難い。」と三味線包(しゃみせんづつみ)、がつくりと抜衣紋(ぬきえもん)。で、両掌(りょうて)仰向(あおむ)け、低く紫玉の雪の爪尖(つまさき)を頂く真似して、「()やうに(むさ)いものなれば、くど/\お礼など申して、お身近(みぢか)(かえ)つてお目触(めざわ)り、御恩は忘れぬぞや。」と胸を()ぢるやうに(つえ)で立つて、

「お有難や、お有難や。あゝ、()を忘れて()が抜けた。もし、太夫様(たゆうさま)。」と敷居を(また)いで、蹌踉状(よろけざま)振向(ふりむ)いて、「あの、其のお(かんざし)に……」――「え。」と紫玉が鸚鵡(おうむ)()る時、「歯くさが着いては()りませぬか。恐縮(おそれ)や。……えひゝ。」とニヤリとして、

「ちやつとお()きなされませい。」此がために、紫玉は手を掛けた懐紙(ふところがみ)を、余儀(よぎ)なく一寸(ちょっと)逡巡(ためら)つた。

 同時に、あらぬ(かた)()(おもて)(そむ)けた。

        六

 紫玉は待兼(まちか)ねたやうに懐紙(かいし)を重ねて、伯爵、を清めながら、森の(こみち)()きましたか、坊主は、と()いた。父も娘も、へい、と言つて、大方()うだらうと言ふ。――()う影もなかつたのである。父娘(おやこ)(ただ)、紫玉の挙動(ふるまい)にのみ気を()られて居たらう。……此の辺を歩行(ある)門附(かどづけ)見たいなもの、と又訊けば、父親がつひぞ見掛けた事はない。娘が跣足(はだし)で居ました、と言つたので、旅から紛込(まぎれこ)んだものか、其も分らぬ。

 と、言ふうちにも、紫玉は一寸々々(ちょいちょい)(まゆ)(ひそ)めた。抜いて持つた(かんざし)鬢摺(びんず)れに髪に返さうとすると、()、する(ごと)に、手の(しな)ふにさへ、()も言はれない、()な、変な、悪臭(わるぐさ)い、(たま)らない、臭気(におい)がしたのであるから。

 城は公園を出る方で、其処(そこ)にも影がないとすると、吹矢(ふきや)の道を(のぼ)つたに相違ない。で、(あと)へ続くには堪へられぬ。

 其処(そこ)で滝の道を訊いて――此処(ここ)へ来た。――

 泉殿(せんでん)(なぞら)へた、飛々(とびとび)(ちん)(いず)れかに、邯鄲(かんたん)の石の手水鉢(ちょうずばち)、名品、と教へられたが、水の音より(せみ)の声。で、勝手に通抜(とおりぬ)けの出来る茶屋は、昼寝の(なか)ばらしい。()の座敷も寂寞(ひっそり)して人気勢(ひとけはい)もなかつた。

 御歯黒蜻蛉(おはぐろとんぼ)が、鉄漿(かね)つけた女房(にょうぼ)の、(かすか)な夢の影らしく、ひら/\と一つ、葉ばかりの燕子花(かきつばた)を伝つて飛ぶのが、此のあたり御殿女中の逍遙(しょうよう)した昔の幻を、(さび)しく描いて、都を出た日、遠く来た旅を思はせる。

 すべて旧藩侯(きゅうはんこう)の庭園だ、と言ふにつけても、贈主(おくりぬし)なる貴公子の面影(おもかげ)さへ浮ぶ、伯爵の鸚鵡(おうむ)(なん)とせう。

 霊廟(れいびょう)の土の(おこり)を落し、秘符(ひふ)の威徳の鬼を追ふやう、立処(たちどころ)に坊主の虫歯を(いや)したは()ることながら、路々(みちみち)悪臭(わるぐさ)さの消えないばかりか、口中(こうちゅう)の臭気は、次第に持つ手を(つたわ)つて、(そで)にも移りさうに思はれる。

 紫玉は、樹の下に涼傘(ひがさ)(たた)んで、滝を斜めに()つゝ、池の(へり)に低く居た。

 滝は、(ひでり)(しか)く骨なりと(いえど)も、(いわお)には苔蒸(こけむ)し、(つぼ)は森を(かつ)いで(あお)い。(しか)(いわ)がくれの裏に、どうどうと落ちたぎる水の音の(すさま)じく響くのは、大樋(おおどい)を伏せて二重に城の用水を引いた、敵に対する要害で、地下を城の内濠(うちぼり)(そそ)ぐと聞く、戦国の余残(なごり)ださうである。

 紫玉は(かんざし)を洗つた。……(えん)なる女優の心を得た池の(おも)は、萌黄(もえぎ)薄絹(うすぎぬ)の如く波を()べつゝ(ぬぐ)つて、清めるばかりに見えたのに、取つて黒髪に()さうとすると、(ちっ)と離したくらゐでは、耳の(はた)へも寄せられぬ。鼻を()いて、ツンと(くさ)い。

「あ、」と声を立てたほどである。

 (しずく)を切ると、雫まで(ぷん)(にお)ふ。たとへば貴重なる香水の(かおり)の一滴の散るやうに、洗へば洗ふほど流せば流すほど()が広がる。……二三度、四五度、繰返すうちに、指にも、手にも、(はて)は指環の緑碧紅黄(りょくへきこうこう)珠玉(しゅぎょく)の数にも、言ひやうのない悪臭(あくしゅう)(いき)(かか)るやうに思はれたので。……

「えゝ。」

 紫玉はスツと立つて、手のはずみで一振(ひとふり)振つた。

「ぬしにお成りよ。」

 白金(プラチナ)(はね)の散る(さま)に、ちら/\と映ると、(かんざし)滝壺(たきつぼ)真蒼(まっさお)な水に沈んで行く。……あはれ、呪はれたる仙禽(せんきん)よ。(おんみ)は熱帯の鬱林(うつりん)に放たれずして、山地(さんち)碧潭(へきたん)(たく)されたのである。……ト此の奇異なる珍客を迎ふるか、不可思議の()ものに(きそ)ふか、(しずか)なる池の()に、眠れる(うお)の如く縦横(じゅうおう)(よこた)はつた、樹の枝々の影は、尾鰭(おひれ)を跳ねて、幾千ともなく、一時(いちどき)に皆揺動(ゆれうご)いた。

 此に悚然(ぞっ)とした(さま)に、一度すぼめた袖を、はら/\と翼の如く(たた)いたのは、紫玉が、可厭(いとわ)しき移香(うつりが)を払ふとともに、高貴なる鸚鵡を思ひ切つた、安からぬ胸の波動で、()()飜々(はらはら)とふるひながら、()飛退(とびの)くやうに、滝の下行く桟道(さんどう)の橋に退()いた。

 石の反橋(そりはし)である。(いわ)と石の、いづれにも(かさな)れる牡丹(ぼたん)の花の如きを、左右に築き上げた、(めい)石橋(しゃっきょう)と言ふ、反橋(そりはし)の石の真中に立つて、()一息(ひといき)した紫玉は、此の時、すらりと、()も心も高かつた。

        七

 明眸(めいぼう)の左右に樹立(こだち)が分れて、一条(ひとすじ)大道(だいどう)、炎天の(もと)(ひら)けつゝ、日盛(ひざかり)の町の大路(おおじ)が望まれて、煉瓦造(れんがづくり)の避雷針、古い白壁(しらかべ)、寺の塔など(まつげ)(こそぐ)る中に、行交(ゆきか)ふ人は点々と蝙蝠(こうもり)の如く、電車は光りながら山椒魚(さんしょううお)()ふのに似て居る。

 忘れもしない、眼界(がんかい)の其の突当(つきあた)りが、昨夜(ゆうべ)まで、我あればこそ、電燭の宛然(さながら)水晶宮の如く輝いた劇場であつた。

 あゝ、一翳(いちえい)の雲もないのに、(みどり)(むらさき)(くれない)の旗の影が、ぱつと空を(おお)ふまで、(はな)やかに目に(ひるがえ)つた、()見ると(さっ)と近づいて、(まゆ)に近い樹々の枝に色鳥(いろどり)種々(いろいろ)の影に映つた。

 (けだ)し劇場に向つて、高く(かざ)した手の指環の、玉の(ほこり)幻影(まぼろし)である。

 紫玉は、(ひとみ)を返して、華奢(きゃしゃ)な指を、俯向(うつむ)いて()つゝ莞爾(にっこり)した。

 そして、すら/\と石橋(しゃっきょう)前方(むこう)へ渡つた。それから、森を通る、姿は(みどり)に青ずむまで、(しずか)に落着いて見えたけれど、(ふた)()(かさな)つた不意の出来事に、心の騒いだのは(あらそ)はれない。……涼傘(ひがさ)置忘(おきわす)れたもの。……

 森を高く抜けると、三国(さんごく)見霽(みはら)しの一面の広場に成る。(かっ)()る日に、手廂(てびさし)して()(なが)むれば、松、桜、梅いろ/\樹の(さま)、枝の(ふり)の、各自(おのおの)名ある神仙(しんせん)の形を映すのみ。幸ひに可忌(いまわし)い坊主の影は、公園の一(ぼく)(そう)をも(さまた)げず。又……人の往来(ゆきか)ふさへ(ほとん)どない。

 一処(ひとところ)大池(おおいけ)があつて、朱塗(しゅぬり)の船の、(さざなみ)に、浮いた(みぎわ)に、盛装した妙齢(としごろ)派手(はで)な女が、(つがい)鴛鴦(おしどり)の宿るやうに目に(とま)つた。

 真白な顔が、(そろ)つて此方(こっち)を向いたと思ふと。

「あら、お嬢様。」

「お師匠(ししょう)さーん。」

 一人が()う、空気草履(くうきぞうり)の、(なまめ)かしい褄捌(つまさば)きで駆けて来る、目鼻は玉江(たまえ)。……()う一人は玉野(たまの)であつた。

 紫玉は故郷へ帰つた気がした。

「不思議な(ところ)で、と言ひたいわね。(けん)ぶつかい。」

「えゝ、観光団。」

「何を悪戯(いたずら)をして居るの、お前さんたち。」

 と連立(つれだ)つて寄る、(みぎわ)に居た玉野の手には、船首(みよし)へ掛けつゝ(さお)があつた。

 (ふなばた)(あい)萌黄(もえぎ)の翼で、(かしら)にも尾にも(べに)を塗つた、鷁首(げきしゅ)の船の屋形造(やかたづくり)玩具(おもちゃ)のやうだが四五人は乗れるであらう。

「お嬢様。おめしなさいませんか。」

 聞けば、向う岸の、むら(はぎ)(いおり)の見える、船主(ふなぬし)の料理屋には()交渉済(こうしょうずみ)で、二人は(なぐさ)みに、此から漕出(こぎだ)さうとする(ところ)だつた。……お前さんに漕げるかい、と覚束(おぼつか)なさに念を押すと、浅くて(さお)が届くのだから仔細ない。(ただ)、一ヶ所(そこ)の知れない深水(ふかみず)の穴がある。(たつ)(くち)(とな)へて、此処(ここ)から下の滝の伏樋(ふせどい)に通ずるよし言伝(いいつた)へる、……(あぶな)くはないけれど、其処(そこ)だけは()けたが()からう、と、……こんな事には気軽な玉江が、つい駆出(かけだ)して仕誼(ことわり)を言ひに行つたのに、料理屋の女中が、わざわざ出て来て注意をした。

「あれ、彼処(あすこ)ですわ。」と玉野が(ゆびさ)す、大池(おおいけ)(うしとら)(かた)へ寄る(ところ)に、板を浮かせて、小さな御幣(ごへい)が立つて居た。真中の築洲(つきず)(つる)(しま)と言ふのが見えて、(ほこら)竜神(りゅうじん)(まつ)ると聞く。……鷁首(げきしゅ)の船は、其の島へ(こころざ)すのであるから、竜の口は近寄らないで済むのであつたが。

「乗らうかね。」

 と紫玉は()(つま)を巻くやうに、爪尖(つまさき)(そろ)へながら、

「でも何だか。」

「あら、何故(なぜ)ですえ。」

「御幣まで立つて警戒をした(ところ)があつちやあ、遠くを離れて漕ぐにしても、船頭が船頭だから気味が悪いもの。」

(いいえ)、あの御幣は、そんなおどかしぢやありませんの。不断(ふだん)は何にもないんださうですけれど、二三日前、誰だか雨乞(あまごい)だと言つて立てたんださうですの、此の(ひでり)ですから。」

        八

 岸をトンと()すと、屋形船(やかたぶね)は軽く出た。おや、房州で生れたかと思ふほど、玉野は思つたより(たくみ)(さお)さす。大池(おおいけ)(しずか)である。(ふなばた)朱欄干(しゅらんかん)に、指を組んで、頬杖(ほおづえ)ついた、紫玉の胡粉(ごふん)のやうな(ひじ)の下に、萌黄(もえぎ)(あい)(まじ)へた鳥の翼の()るゝのが、其処(そこ)にばかり美しい波の立つ風情(ふぜい)に見えつゝ、船はする/\と滑つて、鶴ヶ島をさして(なめら)かに浮いて行く。

 ()までの距離はないが、月夜には柳が(けむ)るぐらゐな()で、島へは棹の(すう)百ばかりはあらう。

 玉野は上手(あじ)()る。

 さす手が五十ばかり進むと、油を敷いたとろりとした(しずか)な水も、棹に()かれて何処(どこ)ともなしに波紋が起つた、其の所為(せい)であらう。あの底知らずの(たつ)(くち)とか、日射(ひざし)其処(そこ)ばかりはものの朦朧(もうろう)として(よど)むあたりに、――(そよ)との風もない折から、根なしに浮いた板ながら真直(まっすぐ)に立つて居た白い御幣が、スースーと少しづゝ位置を()へて、夢のやうに一(すん)二寸づゝ動きはじめた。

 (じっ)と、……()るに連れて、次第に、(ゆる)く、柔かに、落着いて()を描きつゝ、其の(まる)い線の(がっ)する(ところ)で、又スースーと、一寸二寸づゝ動出(うごきだ)すのが、何となく池を広く大きく押拡(おしひろ)げて、船は遠く、御幣(ごへい)(はるか)に、不思議に、段々(みぎわ)(へだた)るのが心細いやうで、気も(うっ)かりと、紫玉は、便(たより)少ない心持(ここち)がした。

「大丈夫かい、彼処(あすこ)は渦を巻いて居るやうだがね。」

 欄干(らんかん)頬杖(ほおづえ)したまゝ、紫玉は御幣を凝視(みつ)めながら言つた。

(つま)りませんわ、少し渦でも巻かなけりや、(あんま)(しずか)で、橋の上を()つてゐるやうですもの、」

 とお転婆(てんば)の玉江が洒落(しゃれ)でもないらしく、

「玉野さん、船を彼方(あっち)()つて見ないか?……」

 紫玉が(おさ)へて、

不可(いけな)いよ。」

(いいえ)、何ともありやしませんわ。それだし、もしか、船に故障があつたら、おーいと呼ぶか、手を(たた)けば、すぐに誰か出て来るからつて、女中が()う言つて居たんですから。」とまた玉江が言ふ。

 成程(なるほど)、島を越した向う岸の(はぎ)の根に、一人乗るほどの小船(こぶね)が見える。中洲(なかず)の島で、納涼(すずみ)ながら酒宴をする時、母屋(おもや)から料理を運ぶ通船(かよいぶね)である。

 玉野さへ(きょう)に乗つたらしく、

「お嬢様、船を少し廻しますわ。」

「だつて、こんな池で助船(たすけぶね)でも呼んで()たが()い、飛んだお笑ひ草で末代(まつだい)までの恥辱ぢやあないか。あれお()しよ。」

 と言ふのに、――逆について船がくいと廻りかけると、ざぶりと波が立つた。其の響きかも知れぬ。小さな御幣の、廻りながら、遠くへ離れて、小さな浮木(うき)ほどに成つて居たのが、ツウと浮いて、板ぐるみ、グイと傾いて、水の(おも)にぴたりとついたと思ふと、罔竜(あまりょう)(かしら)(えが)ける鬼火(ひとだま)の如き一条(ひとすじ)(みゃく)が、(たつ)(くち)からむくりと()いて、水を一文字(いちもんじ)に、()()く、船に近づくと(ひと)しく、波はざツと鳴つた。

 女優の船頭は(さお)を落した。

 あれ/\、其の波頭(なみがしら)(たちま)船底(ふなぞこ)()むかとすれば、傾く船に三人が声を殺した。途端に二三(じゃく)あとへ引いて、薄波(うすなみ)一煽(ひとあお)り、其の形に煽るや(いな)や、人の立つ如く、空へ(おおい)なる(うお)が飛んだ。

 瞬間、島の青柳(あおやぎ)に銀の影が、パツと()して、(うお)紫立(むらさきだ)つたる(うろこ)を、()えた金色(こんじき)に輝かしつゝ(さっ)()ねたのが、飜然(ひらり)と宙を(おど)つて、船の中へ(どう)と落ちた。其時(そのとき)、水がドブンと鳴つた。

 (みよし)(とも)へ、二人はアツと飛退(とびの)いた。紫玉は欄干(らんかん)(すが)つて身を()はす。

 落ちつゝ(どう)()で、一刎(ひとはね)()ねると、其のはずみに、船も動いた。――見事な(うお)である。

「お嬢様!」

(こい)、鯉、あら、鯉だ。」

 と玉江が夢中で手を(たた)いた。

 此の(おおい)なる鯉が、尾鰭(おひれ)()いた、波の引返(ひっかえ)すのが()てた(さお)(さら)つた。棹はひとりでに底知れずの方へツラ/\と流れて行く。

        九

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