3話 伯爵の釵(3)
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「……太夫様……太夫様。」
偶と紫玉は、宵闇の森の下道で真暗な大樹巨木の梢を仰いだ。……思ひ掛けず空から呼掛けたやうに聞えたのである。
「一寸燈を、……」
玉野がぶら下げた料理屋の提灯を留めさせて、さし交す枝を透かしつゝ、――何事と問ふ玉江に、
「誰だか呼んだやうに思ふんだがねえ。」
と言ふ……お師匠さんが、樹の上を視て居るから、
「まあ、そんな処から。」
「然うだねえ。」
紫玉は、はじめて納得したらしく、瞳をそらす時、髷に手を遣つて、釵に指を触れた。――指を触れた釵は鸚鵡である。
「此が呼んだのか知ら。」
と微酔の目元を花やかに莞爾すると、
「あら、お嬢様。」
「可厭ですよ。」
と仰山に二人が怯えた。女弟子の驚いたのなぞは構はないが、読者を怯しては不可い。滝壺へ投沈めた同じ白金の釵が、其の日のうちに再び紫玉の黒髪に戻つた仔細を言はう。
池で、船の中へ鯉が飛込むと、弟子たちが手を拍つ、立騒ぐ声が響いて、最初は女中が小船で来た。……島へ渡した細綱を手繰つて、立ちながら操るのだが、馴れたもので、あとを二押三押、屋形船へ来ると、由を聞き、魚を視て、「まあ、」と目を《みは》つた切、慌しく引返した。が、間もあらせず、今度は印半纏を被た若いものに船を操らせて、亭主らしい年配な法体したのが漕ぎつけて、「これは/\太夫様。」亭主も逸時く其を知つて居て、恭しく挨拶をした。浴衣の上だけれど、紋の着いた薄羽織を引かけて居たが、扨て、「改めて御祝儀を申述べます。目の下二尺三貫目は掛りませう。」とて、……及び腰に覗いて魂消て居る若衆に目配せで頷せて、「恁やうな大魚、然も出世魚と申す鯉魚の、お船へ飛込みましたと言ふは、類希な不思議な祥瑞。おめでたう存じまする、皆、太夫様の御人徳。続きましては、手前預りまする池なり、所持の屋形船。烏滸がましうござりますが、従つて手前どもも、太夫様の福分、徳分、未曾有の御人気の、はや幾分かおこぼれを頂戴いたしたも同じ儀で、恁やうな心嬉しい事はござりませぬ。尚ほ恁くの通りの旱魃、市内は素より近郷隣国、唯炎の中に悶えまする時、希有の大魚の躍りましたは、甘露、法雨やがて、禽獣草木に到るまでも、雨に蘇生りまする前表かとも存じまする。三宝の利益、四方の大慶。太夫様にお祝儀を申上げ、われらとても心祝ひに、此の鯉魚を肴に、祝うて一献、心ばかりの粗酒を差上げたう存じまする。先づ風情はなくとも、あの島影にお船を繋ぎ、涼しく水ものをさしあげて、やがてお席を母屋の方へ移しませう。」で、辞退も会釈もさせず、紋着の法然頭は、最う屋形船の方へ腰を据ゑた。
若衆に取寄せさせた、調度を控へて、島の柳に纜つた頃は、然うでもない、汀の人立を遮るためと、用意の紫の幕を垂れた。「神慮の鯉魚、等閑にはいたしますまい。略儀ながら不束な田舎料理の庖丁をお目に掛けまする。」と、ひたりと直つて真魚箸を構へた。
――釵は鯉の腹を光つて出た。――竜宮へ往来した釵の玉の鸚鵡である。
「太夫様――太夫様。」
ものを言はうも知れない。――
とばかりで、二声聞いたやうに思つただけで、何の気勢もしない。
風も囁かず、公園の暗夜は寂しかつた。
「太夫様。」
「太夫様。」
うつかり釵を、又おさへて、
「可厭だ、今度はお前さんたちかい。」
十
――水のすぐれ覚ゆるは、
西天竺の白鷺池、
じんじやうきよゆうにすみわたる、
昆明池の水の色、
行末久しく清むとかや。
「お待ち。」
紫玉は耳を澄した。道の露芝、曲水の汀にして、さら/\と音する流の底に、聞きも知らぬ三味線の、沈んだ、陰気な調子に合せて、微に唄ふ声がする。
「――坊さんではないか知ら……」
紫玉は胸が轟いた。
あの漂白の芸人は、鯉魚の神秘を視た紫玉の身には、最早や、うみ汁の如く、唾、涎の臭い乞食坊主のみではなかつたのである。
「……あの、三味線は、」
夜陰のこんな場所で、もしや、と思ふ時、掻消えるやうに音が留んで、ひた/\と小石を潜つて響く水は、忍ぶ跫音のやうに聞える。
紫玉は立留まつた。
再び、名もきかぬ三味線の音が陰々として響くと、
――日本一にて候ぞと申しける。鎌倉殿こと/″\しや、何処にて舞ひて日本一とは申しけるぞ。梶原申しけるは、一歳百日の旱の候ひけるに、賀茂川、桂川、水瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、――
聞くものは耳を澄まして袖を合せたのである。
――有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて、仁王経を講じ奉らば、八大竜王も慈現納受たれ給ふべし、と申しければ、百人の高僧貴僧を請じ、仁王経を講ぜられしかども、其験もなかりけり。又或人申しけるは、容顔美麗なる白拍子を、百人めして、――
「御坊様。」
今は疑ふべき心も失せて、御坊様、と呼びつゝ、紫玉が暗中を透して、声する方に、縋るやうに寄ると思ふと、
「燈を消せ。」
と、蕭びたが力ある声して言つた。
「提灯を……」
「は、」と、返事と息を、はツはツとはずませながら、一度消損ねて、慌しげに吹消した。玉野の手は震へて居た。
――百人の白拍子をして舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其験もなかりけり。静一人舞ひたりとても、竜神示現あるべきか。内侍所に召されて、禄おもきものにて候にと申したりければ、とても人数なれば、唯舞はせよと仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむしやうの曲と言ふ白拍子を、――
燈を消すと、あたりが却つて朦朧と、薄く鼠色に仄めく向うに、石の反橋の欄干に、僧形の墨の法衣、灰色に成つて、蹲るか、と視れば欄干に胡坐掻いて唄ふ。
橋は心覚えのある石橋の巌組である。気が着けば、あの、かくれ滝の音は遠くだう/\と鳴つて、風の如くに響くが、掠れるほどの糸の音も乱れず、唇を合すばかりの唄も遮られず、嵐の下の虫の声。が、形は著しいものではない、胸をくしや/\と折つて、坊主頭を、がく、と俯向けて唄ふので、頸を抽いた転軫に掛る手つきは、鬼が角を弾くと言はば厳めしい、寧ろ黒猫が居て顔を洗ふと言ふのに適する。
――なから舞ひたりしに、御輿の嶽、愛宕山の方より黒雲俄に出来て、洛中にかゝると見えければ、――
と唄ふ。……紫玉は腰を折つて地に低く居て、弟子は、其の背後に蹲んだ。
――八大竜王鳴渡りて、稲妻ひらめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を流し、国土安穏なりければ、扨こそ静の舞に示現ありけるとて、日本一と宣旨を給りけると、承り候。――
時に唄を留めて黙つた。
「太夫様。」
余り尋常な、ものいひだつたが、
「は、」と、呼吸をひいて答へた紫玉の、身動ぎに、帯がキと擦れて鳴つたほど、深く身に響いて聞いたのである。
「癩坊主が、ねだり言を肯うて、千金の釵を棄てられた。其の心操に感じて、些細ながら、礼心に密と内証の事を申す。貴女、雨乞をなさるが可い。――天の時、地の利、人の和、まさしく時節ぢや。――こゝの大池の中洲の島に、かりの法壇を設けて、雨を祈ると触れてな。……袴、練衣、烏帽子、狩衣、白拍子の姿が可からう。衆人めぐり見る中へ、其の姿をあの島の柳の上へ高く顕し、大空に向つて拝をされい。祭文にも歌にも及ばぬ。天竜、雲を遣り、雷を放ち、雨を漲らすは、明午を過ぎて申の上刻に分毫も相違ない。国境の山、赤く、黄に、峰嶽を重ねて爛れた奥に、白蓮の花、玉の掌ほどに白く聳えたのは、四時に雪を頂いて幾万年の白山ぢや。貴女、時を計つて、其の鸚鵡の釵を抜いて、山の其方に向つて翳すを合図に、雲は竜の如く湧いて出よう。――尚ほ其の上に、可いか、名を挙げられい。……」
――賢人の釣を垂れしは、
厳陵瀬の河の水。
月影ながらもる夏は、
山田の筧の水とかや。――……
十一
翌日の午後の公園は、炎天の下に雲よりは早く黒く成つて人が湧いた。煉瓦を羽蟻で包んだやうな凄じい群集である。
かりに、鎌倉殿として置かう。此の……県に成上の豪族、色好みの男爵で、面構も風采も巨頭公に良似たのが、劇興行のはじめから他に手を貸さないで紫玉を贔屓した、既に昨夜も或処で一所に成る約束があつた。其の間の時間を、紫玉は微行したのである。が、思ひも掛けない出来事のために、大分の隙入をしたものの、船に飛んだ鯉は、其のよしを言づけて初穂と言ふのを、氷詰めにして、紫玉から鎌倉殿へ使を走らせたほどなのであつた。――
車の通ずる処までは、最う自動車が来て待つて居て、やがて、相会すると、或時間までは附添つて差支へない女弟子の口から、真先に予言者の不思議が漏れた。
一議に及ばぬ。
其の夜のうちに、池の島へ足代を組んで、朝は早や法壇が調つた。無論、略式である。
県社の神官に、故実の詳しいのがあつて、神燈を調へ、供饌を捧げた。
島には鎌倉殿の定紋ついた帷幕を引繞らして、威儀を正した夥多の神官が詰めた。紫玉は、さきほどからこゝに控へたのである。
あの、底知れずの水に浮いた御幣は、やがて壇に登るべき立女形に対して目触りだ、と逸早く取退けさせ、樹立さしいでて蔭ある水に、例の鷁首の船を泛べて、半ば紫の幕を絞つた裡には、鎌倉殿をはじめ、客分として、県の顕官、勲位の人々が、杯を置いて籠つた。――雨乞に参ずるのに、杯をめぐらすと言ふ故実は聞かぬが、しかし事実である。
伶人の奏楽一順して、ヒユウと簫の音の虚空に響く時、柳の葉にちら/\と緋の袴がかゝつた。
群集は波を揉んで動揺を打つた。
あれに真白な足が、と疑ふ、緋の袴は一段、階に劃られて、二条の紅の霞を曳きつゝ、上紫に下萌黄なる、蝶鳥の刺繍の狩衣は、緑に透き、葉に靡いて、柳の中を、する/\と、容顔美麗なる白拍子。紫玉は、色ある月の風情して、一千の花の燈の影、百を数ふる雪の供饌に向うて法壇の正面にすらりと立つ。
花火の中から、天女が斜に流れて出ても、群集は此の時くらゐ驚異の念は起すまい。
烏帽子もともに此の装束は、織ものの模範、美術の表品、源平時代の参考として、嘗て博覧会にも飾られた、鎌倉殿が秘蔵の、いづれ什物であつた。
扨て、遺憾ながら、此の晴の舞台に於て、紫玉のために記すべき振事は更にない。渠は学校出の女優である。
が、姿は天より天降つた妙に艶なる乙女の如く、国を囲める、其の赤く黄に爛れたる峰嶽を貫いて、高く柳の間に懸つた。
紫玉は恭しく三たび虚空を拝した。
時に、宮奴の装した白丁の下男が一人、露店の飴屋が張りさうな、渋の大傘を畳んで肩にかついだのが、法壇の根に顕れた。――此は怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害つて、何うやら華魁の道中じみたし、雨乞には些と行過ぎたもののやうだつた。が、何、降るものと極れば、雨具の用意をするのは賢い。……加ふるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破と言はばさし掛けて濡らすまいための、鎌倉殿の内意であつた。
――然ればこそ、此のくらゐ、注意の役に立つたのはあるまい。――
あはれ、身のおき処がなく成つて、紫玉の裾が法壇に崩れた時、「状を見ろ。」「や、身を投げろ。」「飛込め。」――わツと群集の騒いだ時、……堪らぬ、と飛上つて、紫玉を圧へて、生命を取留めたのも此の下男で、同時に狩衣を剥ぎ、緋の袴の紐を引解いたのも――鎌倉殿のためには敏捷な、忠義な奴で――此の下男である。
雨はもとより、風どころか、余の人出に、大池には蜻蛉も飛ばなかつた。
十二
時を見、程を計つて、紫玉は始め、実は法壇に立つて、数万の群集を足許に低き波の如く見下しつゝ、昨日通つた坂にさへ蟻の伝ふに似て押覆す人数を望みつゝ、徐に雪の頤に結んだ紫の纓を解いて、結目を胸に、烏帽子を背に掛けた。
其から伯爵の釵を抜いて、意気込んで一振り振ると、……黒髪の颯と捌けたのが烏帽子の金に裏透いて、宛然金屏風に名誉の絵師の、松風を墨で流したやうで、雲も竜も其処から湧くか、と視められた。――此だけは工夫した女優の所作で、手には白金が匕首の如く輝いて、凄艶比類なき風情であつた。
さて其の鸚鵡を空に翳した。
紫玉の《みは》つた瞳には、確に天際の僻辺に、美女の掌に似た、白山は、白く清く映つたのである。
毛筋ほどの雲も見えぬ。
雨乞の雨は、いづれ後刻の事にして、其のまゝ壇を降つたらば無事だつたらう。処が、遠雷の音でも聞かすか、暗転に成らなければ、舞台に馴れた女優だけに幕が切れない。紫玉は、しかし、目前鯉魚の神異を見た、怪しき僧の暗示と讖言を信じたのであるから、今にも一片の雲は法衣の袖のやうに白山の眉に飜るであらうと信じて、須叟を待つ間を、法壇を二廻り三廻り緋の袴して輪に歩行いた。が、此は鎮守の神巫に似て、然もなんば、と言ふ足どりで、少なからず威厳を損じた。
群集の思はんほども憚られて、腋の下に衝と冷き汗を覚えたのこそ、天人の五衰のはじめとも言はう。
気をかへて屹と成つて、もの忘れした後見に烈しくきつかけを渡す状に、紫玉は虚空に向つて伯爵の鸚鵡を投げた。が、あの玩具の竹蜻蛉のやうに、晃々と高く舞つた。
「大神楽!」
と喚いたのが第一番の半畳で。
一人口火を切つたから堪らない。練馬大根と言ふ、おかめと喚く。雲の内侍と呼ぶ、雨しよぼを踊れ、と怒鳴る。水の輪の拡がり、嵐の狂ふ如く、聞くも堪へない讒謗罵詈は雷の如く哄と沸く。
鎌倉殿は、船中に於て嚇怒した。愛寵せる女優のために群集の無礼を憤つたのかと思ふと、――然うではない。這般、好色の豪族は、疾く雨乞の験なしと見て取ると、日の昨の、短夜もはや半ばなりし紗の蚊帳の裡を想ひ出した。……
雨乞のためとて、精進潔斎させられたのであるから。
「漕げ。」
紫幕の船は、矢を射るように島へ走る。
一度、駆下りようとした紫玉の緋裳は、此の船の激しく襲つたために、一度引留められたものである。
「…………」
と喚く鎌倉殿の、何やら太い声に、最初、白丁に豆烏帽子で傘を担いだ宮奴は、島になる幕の下を這つて、ヌイと面を出した。
すぐに此奴が法壇へ飛上つた、其の疾さ。
紫玉が最早、と思ひ切つて池に飛ばうとする処を、圧へて、そして剥いだ。
女の身としてあられうか。
あの、雪を束ねた白いものの、壇の上にひれ伏した、あはれな状は、月を祭る供物に似て、非ず、旱魃の鬼一口の犠牲である。
ヒイと声を揚げて弟子が二人、幕の内で、手放しにわつと泣いた。
赤ら顔の大入道の、首抜きの浴衣の尻を、七のづまで引めくつたのが、苦り切つたる顔して、つか/\と、階を踏んで上つた、金方か何ぞであらう、芝居もので。
肩を無手と取ると、
「何だ、状は。小町や静ぢやあるめえし、増長をしやがるからだ。」
手の裏かへす無情さは、足も手もぐたりとした、烈日に裂けかゝる氷のやうな練絹の、紫玉の、ふくよかな胸を、酒焼の胸に引掴み、毛脛に挟んで、
「立たねえかい。」
十三