4話 伯爵の釵(4)
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「口惜しい!」
紫玉は舷に縋つて身を震はす。――真夜中の月の大池に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮の如く漾ひつゝ。
「口惜しいねえ。」
車馬の通行を留めた場所とて、人目の恥に歩行みも成らず、――金方の計らひで、――万松亭と言ふ汀なる料理店に、とに角引籠る事にした。紫玉は唯引被いで打伏した。が、金方は油断せず。弟子たちにも旨を含めた。で、次場所の興行恁くては面白かるまいと、やけ酒を煽つて居たが、酔倒れて、其は寝た。
料理店の、あの亭主は、心優いもので、起居にいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深更の然も夏の夜の戸鎖浅ければ、伊達巻の跣足で忍んで出る隙は多かつた。
生命の惜からぬ身には、操るまでの造作も要らぬ。小さな通船は、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺動いて、萎れつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面影は、昼の空とは世をかへて、皓々として雫する月の露吸ふ力もない。
「えゝ、口惜しい。」
乱れがみを《むし》りつゝ、手で、砕けよ、とハタと舷を打つと……時の間に痩せた指は細く成つて、右の手の四つの指環は明星に擬へた金剛石のをはじめ、紅玉も、緑宝玉も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅に、浅緑に皆水に落ちた。
何うでもなれ、左を試みに振ると、青玉も黄玉も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……竜の口は、水の輪に舞ふ処である。
こゝに残るは、名なれば其を誇として、指にも髪にも飾らなかつた、紫の玉唯一つ。――紫玉は、中高な顔に、深く月影に透かして差覗いて、千尋の淵の水底に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干と、あれ、森の梢の白鷺の影さへ宿る、櫓と、窓と、楼と、美しい住家を視た。
「ぬしにも成つて、此、此の田舎のものども。」
縋る波に力あり、しかと引いて水を掴んで、池に倒に身を投じた。爪尖の沈むのが、釵の鸚鵡の白く羽うつが如く、月光に微に光つた。
「御坊様、貴方は?」
「あゝ、山国の門附芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、然までの事もない。昨日から御目に掛けた、あれは手品ぢや。」
坊主は、欄干に擬ふ苔蒸した井桁に、破法衣の腰を掛けて、活けるが如く爛々として眼の輝く青銅の竜の蟠れる、角の枝に、肱を安らかに笑みつゝ言つた。
「私に、何のお怨みで?……」
と息せくと、眇の、ふやけた目珠ぐるみ、片頬を掌でさし蔽うて、
「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚しい人気ゆゑに、恥入るか、もの嫉みをして、前芸を一寸遣つた。……さて時に承はるが太夫、貴女は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞をせよ、と言はば、すぐに優伎の舞台に出て、小町も静も勤めるのかな。」
紫玉は巌に俯向いた。
「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は何うぢやらう。」
「えゝ、」
と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に沁みた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。
「貴方なら、貴方なら――何故、さすらうておいで遊ばす。」
坊主は両手で顔を圧へた。
「面目ない、われら、此処に、高い貴い処に恋人がおはしてな、雲霧を隔てても、其の御足許は動かれぬ。呀!」
と、慌しく身を退ると、呆れ顔してハツと手を拡げて立つた。
髪黒く、色雪の如く、厳しく正しく艶に気高き貴女の、繕はぬ姿したのが、すらりと入つた。月を頸に掛けつと見えたは、真白な涼傘であつた。
膝と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、白やかなる手尖を軽く、彼が肩に置いて、
「私を打つたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……」
装は違つた、が、幻の目にも、面影は、浦安の宮、石の手水鉢の稚児に、寸分のかはりはない。
「姫様、貴女は。」
と坊主が言つた。
「白山へ帰る。」
あゝ、其の剣ヶ峰の雪の池には、竜女の姫神おはします。
「お馬。」
と坊主が呼ぶと、スツと畳んで、貴女が地に落した涼傘は、身震をしてむくと起きた。手まさぐり給へる緋の総は、忽ち紅の手綱に捌けて、朱の鞍置いた白の神馬。
ずつと騎すのを、轡頭を曳いて、トトトト――と坊主が出たが、
「纏頭をするぞ。それ、錦を着て行け。」
かなぐり脱いだ法衣を投げると、素裸の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧なる巌の聳つ崕を、翡翠の階子を乗るやうに、貴女は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫たる曠野の中をタタタタと蹄の音響。
蹄を流れて雲が漲る。……
身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水の、巌窟の奥である。うしろは五十万坪と称ふる練兵場。
紫玉が、たゞ沈んだ水底と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――
雨を得た市民が、白身に破法衣した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰の光景が見せたい。