伯爵の釵

4話 伯爵の釵(4)

1,914字 約4分 2009年5月31日 公開

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口惜(くや)しい!」

 紫玉は(ふなばた)(すが)つて身を震はす。――真夜中の月の大池(おおいけ)に、影の沈める樹の中に、しぼめる睡蓮(すいれん)の如く(ただよ)ひつゝ。

「口惜しいねえ。」

 車馬(しゃば)の通行を()めた場所とて、人目の恥に歩行(あゆ)みも成らず、――金方の計らひで、――万松亭(ばんしょうてい)と言ふ(みぎわ)なる料理店に、とに(かく)引籠(ひっこも)る事にした。紫玉は(ただ)引被(ひっかつ)いで打伏(うちふ)した。が、金方(きんかた)は油断せず。弟子たちにも(むね)を含めた。で、次場所(つぎばしょ)の興行()くては面白かるまいと、やけ酒を(あお)つて居たが、酔倒(えいたお)れて、其は寝た。

 料理店の、あの亭主は、心(やさし)いもので、起居(たちい)にいたはりつ、慰めつ、で、此も注意はしたらしいが、深更(しんこう)(しか)も夏の()戸鎖(とざし)浅ければ、伊達巻(だてまき)跣足(はだし)で忍んで出る(すき)は多かつた。

 生命(いのち)(おし)からぬ身には、(あやつ)るまでの造作(ぞうさ)も要らぬ。小さな通船(かよいぶね)は、胸の悩みに、身もだえするまゝに揺動(ゆりうご)いて、(しお)れつゝ、乱れつゝ、根を絶えた小船の花の面影(おもかげ)は、昼の空とは世をかへて、皓々(こうこう)として(しずく)する月の(つゆ)吸ふ力もない。

「えゝ、口惜しい。」

 乱れがみを《むし》りつゝ、手で、砕けよ、とハタと(ふなばた)を打つと……時の()()せた指は細く成つて、右の手の()つの指環は明星に(なぞら)へた金剛石(ダイヤモンド)のをはじめ、紅玉(ルビイ)も、緑宝玉(エメラルド)も、スルリと抜けて、きらきらと、薄紅(うすくれない)に、浅緑(あさみどり)に皆水に落ちた。

 ()うでもなれ、左を試みに振ると、青玉(せいぎょく)黄玉(こうぎょく)も、真珠もともに、月の美しい影を輪にして沈む、……(たつ)(くち)は、水の輪に舞ふ(ところ)である。

 こゝに残るは、名なれば其を(ほこり)として、指にも髪にも飾らなかつた、(むらさき)の玉(ただ)一つ。――紫玉は、中高(なかだか)な顔に、深く月影に透かして差覗(さしのぞ)いて、千尋(ちひろ)(ふち)水底(みなそこ)に、いま落ちた玉の緑に似た、門と柱と、欄干(らんかん)と、あれ、森の(こずえ)白鷺(しらさぎ)の影さへ宿る、(やぐら)と、窓と、(たかどの)と、美しい住家(すみか)()た。

「ぬしにも成つて、(この)、此の田舎(いなか)のものども。」

 (すが)る波に力あり、しかと引いて水を(つか)んで、池に(さかさま)に身を投じた。爪尖(つまさき)の沈むのが、(かんざし)鸚鵡(おうむ)の白く(はね)うつが如く、月光に(かすか)に光つた。

御坊様(ごぼうさま)貴方(あなた)は?」

「あゝ、山国(やまぐに)門附(かどづけ)芸人、誇れば、魔法つかひと言ひたいが、いかな、()までの事もない。昨日(きのう)から御目(おめ)に掛けた、あれは手品ぢや。」

 坊主は、欄干に(まが)苔蒸(こけむ)した井桁(いげた)に、破法衣(やれごろも)の腰を掛けて、()けるが如く爛々(らんらん)として(まなこ)の輝く青銅の竜の(わだかま)れる、(つの)の枝に、(ひじ)を安らかに()みつゝ言つた。

「私に、何のお(うら)みで?……」

 と息せくと、(めっかち)の、ふやけた目珠(めだま)ぐるみ、片頬(かたほお)(たなそこ)でさし(おお)うて、

「いや、辺境のものは気が狭い。貴方が余り目覚(めざま)しい人気ゆゑに、恥入るか、もの(ねた)みをして、前芸(まえげい)一寸(ちょっと)()つた。……さて時に(うけたま)はるが太夫(たゆう)貴女(あなた)は其だけの御身分、それだけの芸の力で、人が雨乞(あまごい)をせよ、と言はば、すぐに優伎(わざおぎ)の舞台に出て、小町(こまち)(しずか)も勤めるのかな。」

 紫玉は(いわや)俯向(うつむ)いた。

「其で通るか、いや、さて、都は気が広い。――われらの手品は()うぢやらう。」

「えゝ、」

 と仰いで顔を視た時、紫玉はゾツと身に()みた、腐れた坊主に不思議な恋を知つたのである。

「貴方なら、貴方なら――何故(なぜ)、さすらうておいで遊ばす。」

 坊主は両手で顔を(おさ)へた。

面目(めんぼく)ない、われら、此処(ここ)に、高い(とうと)(ところ)に恋人がおはしてな、(くも)(きり)を隔てても、其の御足許(おあしもと)は動かれぬ。()!」

 と、(あわただ)しく身を退(しさ)ると、(あき)れ顔してハツと手を拡げて立つた。

 髪黒く、色雪の如く、(いつく)しく正しく(えん)に気高き貴女(きじょ)の、(つくろ)はぬ姿したのが、すらりと入つた。月を(うなじ)()けつと見えたは、真白(ましろ)涼傘(ひがさ)であつた。

 (ひざ)と胸を立てた紫玉を、ちらりと御覧ずると、(しろ)やかなる手尖(てさき)を軽く、彼が肩に置いて、

「私を()つたね。――雨と水の世話をしに出て居た時、……」

 (よそおい)は違つた、が、幻の目にも、面影(おもかげ)は、浦安(うらやす)(みや)、石の手水鉢(ちょうずばち)稚児(ちご)に、寸分のかはりはない。

「姫様、貴女(あなた)は。」

 と坊主が言つた。

白山(はくさん)へ帰る。」

 あゝ、其の(けん)(みね)の雪の池には、竜女(りゅうじょ)姫神(ひめがみ)おはします。

「お馬。」

 と坊主が呼ぶと、スツと(たた)んで、貴女(きじょ)が地に落した涼傘(ひがさ)は、身震(みぶるい)をしてむくと起きた。手まさぐり(たま)へる緋の(ふさ)は、(たちま)(くれない)手綱(たづな)(さば)けて、朱の(くら)()いた白の神馬(しんめ)

 ずつと()すのを、轡頭(くつわづな)()いて、トトトト――と坊主が出たが、

纏頭(しゅうぎ)をするぞ。それ、(にしき)を着て行け。」

 かなぐり脱いだ法衣(ころも)を投げると、素裸(すはだか)の坊主が、馬に、ひたと添ひ、紺碧(こんぺき)なる(いわお)(そばだ)(がけ)を、翡翠(ひすい)階子(はしご)を乗るやうに、貴女(きじょ)は馬上にひらりと飛ぶと、天か、地か、渺茫(びょうぼう)たる曠野(ひろの)の中をタタタタと(ひづめ)音響(ひびき)

 蹄を流れて雲が(みなぎ)る。……

 身を投じた紫玉の助かつて居たのは、霊沢金水(れいたくこんすい)の、巌窟(がんくつ)の奥である。うしろは五十万坪と(とな)ふる練兵場(れんぺいじょう)

 紫玉が、たゞ沈んだ水底(みなそこ)と思つたのは、天地を静めて、車軸を流す豪雨であつた。――

 雨を得た市民が、白身(はくしん)破法衣(やれごろも)した女優の芸の徳に対する新たなる渇仰(かつごう)光景(ようす)が見せたい。

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