8話 八
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約半刻ののち、菅田平野は、黒藤邸の庭先に立っていた。かなり広い庭で、樹が多く、配石のもようなどもなかなか凝ったものである。躑躅に囲まれた池があり、そこでは鯉が(産卵期なのだろう)しきりにばちゃばちゃと騒いでいた。
――作法を知らぬやつだ、これでたいてい人間がわかる。
彼は心の中でそうつぶやいた。
だがそれは公平ではない、彼の姿は乞食と区別がつかなかった。縞目もわからないほど古びて継ぎだらけの垢じみた着衣、やぶれたぼろ傘、脛まではねのあがった草鞋ばきの泥足。これでは「庭へまわれ」と云うのが当然かもしれない。それは菅田平野も認めるが、しかもやはり承服できない。たとえ乞食のように落魄していても侍は侍である。「御主人の大事について」と云うものを、庭先へまわすというのは無礼である。
「これだけでも黒藤というやつが品性劣等だということを証明している」と菅田平野は口の中で云った、「――これはよほどうまくもちかけないと、座敷へは通さないかもしれないぞ」
廊下へ白髪頭の老人が現われた。少しばかり腰が曲っている、着物も粗末だし袴は皺くちゃであった。ひと眼で家扶だということがわかる人態で、正しくそのとおりだった。そこで菅田平野は本気に腹を立てた。
「私は御主人に会いたいと申上げた」と彼は尖った声で云った、「――御主人のお命にかかわる大事だからわざわざまいったので、御主人に会えないのなら帰ります、なに、こっちはどうでもいいことなんだ」
彼は雨の中へ出てゆこうとした。家扶はあわてて呼びとめた。一命にかかわる、というのを聞き捨てにはできないだろう、「しばらく」といって、曲りぎみの腰をもどかしそうに奥へ去った。菅田平野は唾を吐いた。それからふと、自分が本当に腹を立てているのに気がついた。しんじつ黒藤源太夫のために来てやったような錯覚にとらわれたらしい、菅田平野は「なんと、――」とつぶやいて苦笑した。
小者が洗足の道具を持って来た。家扶が現われて奥へとおれと云う、菅田平野は足を洗い、袴の裾のはねを払い、肩から旅嚢を取り、刀を脱して、右手に持ちながら広縁へあがった。
案内されたのは六帖ばかりの暗い部屋であった。そこで形式だけの茶菓が出た。薄くてぬるい茶に、黴の生えたような打物である。菅田平野は茶をひと口啜っただけで、あとは手を出さなかった。彼は両手を膝に重ね、心を鎮めて、脇玄関から庭、広縁からその部屋へ来るまでの、建物の配置を頭の中に書きとめた。四半刻ほども経ってから、若侍が現われて「こちらへ」と云った。菅田平野はちょっと考えたが、旅嚢の脇へ刀を置いて立った。中廊下を少しゆき、いちど左へ曲って、八帖の明るい座敷へとおされた。そこはさっきの庭とは反対側に面しているらしい、あけてある障子の向うに、石燈籠などを配した内庭を隔てて、土蔵が三棟並んでいる。たぶん武庫だろうと思ってぼんやり見ていると、まん中の土蔵から中年の侍が出て来た。その侍は手籠のような物を持っていたが、出て来るとそれを下に置いて、土蔵の観音開きを重そうに閉め、それからいま置いた手籠ようの物を持って、雨の中を跳ぶように去っていった。
彼がぼんやりとそんなけしきを眺めているところへ、黒藤源太夫が出て来た。年は四十三、四、肥えてはいるがひき緊った精悍な躯つきだし、眉の太い、眼の大きい、厚い唇をきつくむすんだ顔つきも精悍にみえた。源太夫は坐ると同時に懐紙を出し、かっと喉を鳴らして唾を吐いた。そのとき六時を知らせる時計の音が聞えた。
源太夫は話を信じた。その顔の表情の変ったことで、話を信じたことが明瞭にわかった。
「井坂といいましたか」源太夫は膝の上の手をぎゅっと握った、「――そんなはずはないのだが、名前はなんといいました」
「名は云わなかったようです、なにしろ縁の下で聞いていたものですから」と菅田平野は云った、「――あとから来た一人が、江戸へゆかれるのではなかったのか、ときいていましたが、これは寺田という男のようでした」
「ほかに聞かれた名がありますか」
「うろ覚えですが、――そうです、広瀬、島口、それから」と菅田平野は首をひねった、「――保田、いや保川でしたかな、寺田というのは二人いたようです、それと、関口とか八田などという名も聞えました。記憶ちがいがあるかもしれません、呼びあう声で数えたのは十五人でした」
源太夫の片方の膝が上下に動きだした。
「すると」と源太夫が云った、「つまり井坂が江戸へゆくとみせて光明寺へ留り、そこへ同志の者を呼び集めたということですね」
「私の申上げた姓名にお心当りがありますか」
「ある、全部ではないが、三、四心当りがある」
「では人をやって在不在をたしかめて下さい」と菅田平野は云った、「――私はかれらが手分けをして、こなたさまをはじめ、仲島、前林のお三方を誅殺すると聞いたのですから、現在その連中が家にいなければ、事実だということがおわかりになるでしょう」
源太夫は鈴を鳴らしながらきいた。
「かれらは日時を申していたか」
「昨夜半の話で明後日と云っていましたが、今日の夜にはさらに人数を集めるように聞きました」
若侍が廊下へ来てかしこまった。源太夫は料紙と硯箱を持って来るように命じ、それが来ると、(菅田平野に聞きながら)九人まで名を書き、「この者たちの在否を至急にたしかめさせろ」といって、若侍に渡した。
「はなはだ汗顔の至りですが」と菅田平野が云った、「――昨日から食事をしておりませんので、まことに申しかねるが、朝食の馳走にあずかりたいのですが」
源太夫はこちらを見て頷き、いま支度をさせるから、と立っていった。