硯友社の勃興と道程 ――尾崎紅葉――

5話 五 『新著百種』――薄倖の作家北村三唖と天才露伴の『風流仏』

2,549字 約5分 2014年7月31日 公開

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 硯友社の世間に乗出したのは『我楽多文庫』であったが、その芸術を認められて文壇の位置を確立したのは『新著百種』であった。

『新著百種』を語る前に先ず発行者たる吉岡哲太郎を紹介しなけりゃならない。吉岡は水産局の技師として十五、六年前に物故したが、東大出身の化学専攻の理学士であった。科学者に似合わぬ経紀の才があって、大学を出ると直ぐ出版業を経営した。吉岡の業績について特記すべきは“The Student”の発行である。英語書生対手(あいて)啓蒙(けいもう)的な語学雑誌であったが、やはり当時の欧化熱が産出したもので、日本人の手に成った外国語雑誌の開山である。一時はかなりな部数が出て、和田垣博士の赤壁賦(せきへきのふ)や忠臣蔵の英訳が青年読者の評判となった。佐藤顕理(ヘンリー)といっても今は余り知る人もなかろうが、一時は英文家として鳴らした佐藤顕理が世間から認められたのもこの雑誌の寄稿で、安鶴伝(あんつるでん)というのが取材が面白いので評判された。今では国民競技となってる野球や庭球の方式を当時の高等学校の教師たる英人ストレンジの筆で初めて教えられたのもまたこの雑誌であって、当時の英語書生は皆この雑誌を愛読したもんだ。

 吉岡は出版業の(かたわ)ら私立学校の教師をしていた。学校で英文の講義や輪講をしながら生徒に向って、「ただ講義や輪講をしたって詰らんから毎日済んだ処を諸君が代る代る飜訳して見ちゃどうだ。出版すりゃ牛肉ぐらい喰えるぜ、」などといったもんだ。レムゼンの化学を自分で飜訳して自分で出版し、自分の学校の生徒の参考書として売付けたりした。

 こういう商売人(はだ)の男だったから早くも紅葉初め硯友社の奇才に目をつけて『新著百種』を思い立った。尤も初めは政治、宗教、哲学、科学、工芸、美術、何くれとなく多方面に(わた)った叢書(そうしょ)を作るツモリで、小説一方と限ったわけではなかったのだ。仮に小説を中心とするにしても各方面の作家を網羅(もうら)する計画で、硯友社叢書とするツモリはなかったのだ。が、尾崎の派手な創作が予期以上の人気を博したために自然と尾崎の意見が重きをなして、何時(いつ)()にか硯友社の機関のようになってしまった。

『新著百種』の第一篇たる『色懺悔(いろざんげ)』は紅葉の出世作であった。『色懺悔』以前、紅葉の奇才は既に認められていたが、世間の人気を一時に沸騰さしたのは『色懺悔』であった。欧化主義の反動が文学上にも及ぼして安価なシャボン臭い政治小説や人情小説が飽かれて来た時だったので、『色懺悔』というような濃艶な元禄情味を(した)たらした書名が第一に人気に投じて、内容はさして(すぐ)れたものではなかったが、味淋(みりん)鰹節(かつおぶし)のコッテリした元禄(ばり)の文章味が読書界を沸騰さした。さしもに飛ぶ鳥を落す勢いの美妙斎の人気も一時にガタ落ちがして、紅葉露伴(ろはん)が取ってこれに代ったのは、畢竟(ひっきょう)欧化主義と国粋主義との勢力消長に原因しているので、(あなが)ち紅葉と美妙斎との芸術的優勝劣敗ではないのである。

 先陣の紅葉が先ず花々しい勝名乗(かちなのり)を挙げたので、『新著百種』は一足飛びに出版界の一枚看板となり、紅葉胸中の成竹(せいちく)(ようや)く熟してこの機を(はず)さず硯友社の勢力展開の歩を進めた。第二篇の饗庭篁村の『掘出し物』は丁度新店(しんみせ)見世開(みせびら)きに隣家(となり)老舗(しにせ)の番頭を(やと)って来たようなものであるが、続いて思案の『乙女心(おとめごころ)』、漣の『妹背貝(いもせがい)』と、予定の如くに第三陣第四陣と順々に繰出(くりだ)して、盛んに軍容を整えて威武を張った。三国志流にいえば旌旗(せいき)林の如く風に飜って喊声(かんせい)天地に震うというような(すさ)まじい勢いだった。ツマリ『我楽多文庫』は硯友社の名題(なだい)披露の初舞台で、その艶っぽい花やかな元禄張の芸風を示した顔見世狂言は『新著百種』であった。硯友社の基礎はこの『新著百種』で固められた。

『新著百種』について憶出(おもいだ)されるは薄倖(はっこう)の作家北村三唖(きたむらさんあ)である。三唖は土佐の生れで、現内閣のバリバリで時めいてる仙石貢(せんごくみつぐ)親戚(しんせき)である。(したが)って土佐出身の名士には親昵(ちかづき)があったが、文人特有の狷介(けんかい)懶惰(らんだ)とズボラが累をなして同郷の先輩に近づかず、硯友社に投じて紅葉の庇護(ひご)の下に『新著百種』の一冊として『石倉新五左衛門』を発表した。

 甘ッたるい恋物語で食もたれしている処へ三唖の人を茶にする三馬式の軽い滑稽は餅菓子のあとへ塩煎餅(しおせんべい)を出したようなもので、三唖の処女作はかなりに受けた。この初陣(ういじん)の功名に乗じて続いて硯友社の諸豪と(くつわ)(なら)べて二作三作と発表したなら三唖もまた必ず相当の名を成して操觚(そうこ)の位置を固めたであろうが、性来の狷介と懶惰とズボラとが文壇にも累をなし、その上に硯友社からは新参者(しんざんもの)として外様(とざま)扱いされ、紅葉にも余り気に入らないで引立てられなかった。最後が岡山の山陽新報社に口があったを幸いに落延びて、馬骨と改名して田舎新聞に隠れたが、一時馬骨の名が岡山に振ったほど地方新聞小説家としてはかなりに幅を()かした。が、持って生れた狷介と懶惰とズボラとは(ここ)でも永続(ながつづ)きがしないで、折角数年の辛抱で築き上げた地方新聞社の位置をも些細(ささい)な失敗で()てるべく余儀なくされた。それから後は阪神附近をアチコチと流離していたが、ドコにも()れられないでとうとう九州に渡って別府に逼息(ひっそく)し、生活に(つか)れた病躯(びょうく)(かか)えて淋しく暮した。再び上京したらと元気を附けてやった事もあったが、盛返す勇気もなくて悶々(もんもん)数年の後、(つい)に大正四年の初冬に別府の同情深い友の家で淋しい敗残者の生涯を終った。三唖は『石倉新五左衛門』一冊の外には中央文壇に何の足跡をも残さないで今では殆んど忘られているが、また明治の数奇伝中の薄倖なる奇才であった。

『新著百種』は薄命なる才人三唖を暗黒なる生涯に送り出すと同時に天才露伴の『風流仏(ふうりゅうぶつ)』を開眼して赫灼(かくしゃく)たる前途を耀(かがや)かした。露伴の初めて世間に発表した作は『都之花』の「露団々(つゆだんだん)」であって、奇思(ふんよう)する意表外の脚色が世間を驚かしたが、雄大なる詩想の群を(ぬき)んずるを認められたのは『風流仏』であった。紅葉の『色懺悔』は万朶(ばんだ)の花が一時に咲匂うて馥郁(ふくいく)たる花の香に息の(つま)るような感があったが、露伴の『風流仏』は千里漠々(ばくばく)たる広野に彷徨して黄昏(たそが)れる時、忽然(こつぜん)薄靄(うすもや)を排して一大銀輪のヌッと()ずるを望むが如く、また千山万岳の重畳たる中に光明赫灼たる弥陀(みだ)の山越を迎うる如き感を抱かしめた。硯友社員に(あら)ざる露伴の『風流仏』を紹介したのは『新著百種』の最も大なる貢献であった。

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