硯友社の勃興と道程 ――尾崎紅葉――

6話 六 漣山人

2,530字 約5分 2014年7月31日 公開

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 巌谷(いわや)の伯父さんといったらドンナ山の中の児供(こども)でも知ってるが、漣山人(さざなみさんじん)では都会の中学生にも今では通用しない。独逸(ドイツ)から帰って来てからの漣は出山の釈迦(しゃか)が成覚したように小説家たる過去を忘れてお伽噺(とぎばなし)小波(さざなみ)となってしまった。が、巌谷の伯父さんの出世作は『我楽多文庫』の創刊号から巻頭を飾った「五月鯉(さつきごい)」であった。この「五月鯉」は後に『初紅葉(はつもみじ)』という題で単行本として出版されたが、『文章世界』に載せた小波の告白を待つまでもなく、甕江(おうこう)川田博士の令嬢に対する小波の幼き恋を描いたものであるのはその頃から誰も知っていた。

 が、この同じ物語を延長した後談が紅葉の『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の藍本(らんぽん)であるという説は知らないものがないほど広がってるが実は誣妄(ふぼう)である。『金色夜叉』については小波もしばしば弁明しているし、私も度々紅葉から聞いているが、(ほん)の発端をこの事実から思付いたという位に過ぎんので、小波をモデルとしたというのは全然虚伝である。が、小波のこの恋物語は硯友社外の私の耳にすらも早くから聞えていたほどかなりに評判されていた。小波の恋が破れて後、その令嬢が縁付いた婚家の近くに住っていた私は時折美貌(びぼう)垣間見(かいまみ)、淑徳を聞くにつけて小波のために(すこぶ)る同情に堪えなかった。小波は小皺(こじわ)の寄った今日でも秀麗閑雅を(しの)ばせる美男だから、少年時代はさこそと推量(おしはか)られるので、「五月鯉」の第一回に梅若丸(うめわかまる)然とした美少年が荒くれ男に組敷かれる処があるのも大方小波の()稚児(ちご)時代の自叙伝の一節だろうと想像する。「五月鯉」は傑作というほどのものではないが無垢(むく)なる少年の無邪気な恋を描いたものとしてかなりに評判された。

 尤も小波の作はこの処女作に限らず(すべ)何処(どこ)かに無邪気(あどけな)い処があった。そのくせ風俗壊乱に問われた事が一度や二度でなかったが、根が貴族的に生立(おいた)った人だから、材料がいつでも素直(すなお)温和(おとな)しい上品なウブな恋であって、深酷な悲痛や()じくれたイキサツや皮肉な譏刺(きし)が少しも見られなかった。あくまでも無邪気なお姫様式、若様式のお伽恋物語ばかりだった。

 小波がお伽噺に筆を染めたのは随分古い事で、二十一年十二月発行の『我楽多文庫』第十三号から「鬼車」というメールヘンの飜訳を連載したのがそもそもの初めであった。小波の無邪気な筆が恋物語よりはかえってお伽噺に適していたはその頃から見えていた。

 が、小波はお伽噺を一生の仕事とするツモリは少しもなかったのだ。それから数年を経、博文館に入ってから『新桃太郎』や『猿蟹(さるかに)後日合戦』を書き、『少年文学』の第一巻として『黄金丸(こがねまる)』を発表した頃、「漣もお伽噺ばかり書いてるようでは()うお(しま)いです、その内には必ず本統の小説を書きます」と、或時私に語った事があった。ところがその頃は筆休めに過ぎなかったお伽噺が予期以上に歓迎され、教育界から(しき)りに頌徳表(しょうとくひょう)(たてま)つられ、四囲の事情もまた風俗壊乱に問われがちな小説を作るを許さなくなったらしく、次第に小説よりはお伽噺に傾いて、独逸から帰朝して以来は終に全くお伽噺に没頭し、著述以外に講演をも初めて通俗教育の旗幟(きし)を建て、博文館を引退してからは文壇よりもむしろ教育界に近い人となってしまった。

 漣山人の名は中坂思案外史と共に早くから『読売新聞』の投書欄に見えていた。私が偶然読んで記憶していた手習の説というは漣が最初の投書であって、その時十四歳であったそうな。十四歳初めて新聞に寄書し、十九歳小説を著わし、二十一歳既に一家を成した漣は(まれ)に見る寧馨児(ねいけいじ)であった。前にもいった通り、その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の名士の論戦場であって、昨年の春易簀(えきさく)した杉浦天台道士もまた寄書家の一人であったが、或時何かの問題で天台道士と漣と論戦した事があった。その後漣が先生の称好塾に入門してから後、偶然この事が解った時、君が漣山人かと天台道士も意外の感に打たれたそうだ。漣はこういう早熟の奇才子であった。

 私が漣に初めて会ったのは二十二年の夏の初めであった。或朝、紅葉を飯田町の三畳の書斎に訪うて話していると、飄然(ひょうぜん)やって来たのは飛白(かすり)単衣(ひとえ)瀟洒(しょうしゃ)たる美少年であって、これが漣であると紹介された時は、(かね)て若い人だとは聞いていたが、余り若過ぎるので喫驚(びっくり)してしまった。美妙斎に会った時も意外に若いので喫驚したが、漣の若いには更にヨリ以上驚かされた。漣はその時二十歳(はたち)であったが、精々(せいぜい)十八、九ぐらいにしか見えなかった。しかもこの十八、九ぐらいにしか見えない青年が既に一家をなしていたのだから驚かされてしまった。

 漣はその時あたかも『新著百種』中の『妹背貝』を書終って、丁度発行所の吉岡書店から原稿料を請取(うけと)って来た処だというので、紅葉はソンナラ午餐(ひるめし)(おご)れといい、自分は初対面であったが、三人して上野の精養軒へ行った。電車のない夏の炎天を壱岐殿(いきどの)坂下まで歩いて紅葉はヨボヨボ(じい)さんの二人乗を見付け、値切(ねぎり)倒して私と二人で合乗(あいのり)して行くと、漣は跡から気の()いた威勢の()い一人乗を飛ばして来て(たちま)ち抜いてしまった。「此奴(こいつ)乗打(のりう)ちをしたナ、覚えてろ!」と紅葉は手を振上げて打つ(まね)をするとヨタヨタ(ぐるま)がいよいよヨタヨタした。やがて精養軒の玄関へお(かか)え然たる一人乗を横付けした漣が貴公子然と取澄まして俥を下りる跡からヨタヨタ俥を下りて朴々乎(ぼくぼくこ)()いて行く紅葉と私の二人の恰好(かっこう)は余り()い図ではなかった。が、江戸ッ子のチャキチャキたる紅葉は泰然と澄ました顔をして、三人して食堂の卓を囲んだ。隣の卓では若い岡倉天心(おかくらてんしん)が外国人と相対(さしむか)いに肉刺(フォーク)を動かしつつ巧みな英語を(なめ)らかに(あや)つッていた。

 漣は根が洒落(しゃらく)である上に寛闊(かんかつ)に育ち、スッキリと(さば)けた中に何処(どこ)となく気品があった。殊に応酬に巧みで機智に富み、誰とでも隔てなく交際し誰にでも()(したし)まれた。その上に世を推移(おしうつ)る世才に()けているから、硯友社という小さい天地にばかり跼蹐(きょくせき)しないで、早くから広い世間に飛出して(こうしょう)していた。一味郎党を堅く結束して鎖国する紅葉は漣のこの世間的態度を内心快からず思ってるように(うわさ)されていたが、漣が硯友社の凋落(ちょうらく)した後までも依然として一方の雄を称しておるは畢竟(ひっきょう)早くから硯友社埒外(らちがい)の地歩を開拓するに努めていたからだ。漣は(ただ)に硯友社のみならず全文壇を通じての第一の才人である。

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