7話 七 川上眉山
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硯友社は御大紅葉を初めとし美妙といい漣といい美男のお揃いであったが、美貌をいったら川上眉山は第一位であったろう。眉山の美貌は硯友社に限らず、文壇に限らず、美男の畑なる役者の中を尋ねても決して数多くの匹儔を見出しがたいだろう。尤も美男を定める標準にも色々あろうし、人に由ての好き不好きもあろうが、如何なる点の辛い人でも眉山の美貌には百点近くを決して惜まないだろう。
眉山の色の白さは透徹るようで、支那人が玉人と形容するはこういう人だろうと思うほどに美くしく、何時でも薄化粧しているように見えた。いわゆる女にしても見ま欲しいという目眩しいような美貌で、まるで国貞の田舎源氏の画が抜け出したようであった。難をいったら余り美くし過ぎて、丹次郎というニヤケた気味合があった。最う少し色が浅黒いとか口が大き過ぎるとかいう欠点があったらかえって宜かったろうと思う。
眉山が予備門(今の高等学校)へ通う時分、その頃は制服がなかったので思い思いであったが、眉山は何時でも黄八丈の袂の長い羽織を着ていた。この媚かしい羽織が女のような眉山の顔と能く釣合って、影では蔭間のようだと悪語をいうものもあったが、男の眼にも恍惚とするほど美くしかった。通学の道筋に当る町の若い女は眉山の往帰りを楽みにして、目牽き袖引き目送って人知れず焦れていたものも少なくなかったという評判だった。
殊に眉山の艶容媚態――というと女の形容になるが、その頃の眉山を彷彿するには女の形容を用ゆるが適していた――を著るしく引立たしたのは春亭九華であった。春亭九華などというと如何にも柔しげだが、九華は縦も横も大々した巨漢であった。この九華がクラスの中でも殊に眉山と大の仲善しであって、学校の往復は本より何処にでも二人は一緒に連立っていた。筋骨逞ましい大兵肥満の黒々した巨漢と振袖然たる長い羽織を着た薄化粧したような美少年と連れ立って行くさまは弁慶と牛若といおう乎、髯奴と色若衆といおう乎。小説でなければ決して見られない図であった。今でも憶起すと師宣の絵にありそうな二人の姿を眼前に彷彿する。九華もまた堂々たる風采であったが、眉山が余り美くし過ぎていた。
この平家の公達のような美少年は早くから知っていたが、この人が眉山人であるとは少しも知らなかった。その後紅葉の家で計らず落合った時、この女のような顔の持主が也有の再来かと疑われる名文章の作者だと聞いて喫驚してしまった。かつ顔に似合わない思切った皮肉や毒口を連発するには呆れてしまった。眉山は遠くから瞻めてると女のように媚かしいただの色若衆であったが、会って見ると岩本院の稚児上りといいそうな江戸ッ子風の伝法肌であった。
眉山の家は本郷の春木町の下宿屋であった。学校から帰ると、素裸になって井戸の水を汲込みつつ大きな声で女中を揶揄っていた。真白な肉附きの好い肌が役者のように美くしかったので、近所の若い女が目引き袖引き垣根から隙見したそうだ。あの下宿屋の若旦那は役者よりも美くしいと其処ら中の若い女が岡惚れしたという評判であった。
が、眉山の家庭には気の毒な面倒臭い葛藤が絶間なかったそうで、何時でも晴れやかな顔をして駄洒落をいってる内面には人の知らない苦労が絶えなかったそうだ。親父が死んでから春木町を去って小石川の富坂へ別居した。この富坂上の家というは満天星の生垣を繞らした頗る風雅な構えで、手狭であったが木口を選んだ凝った普請であった。為永の中本にある寮というような塩梅で、美男であり風雅である眉山の住居には持って来いであった。が、その頃から眉山は段々と陰気臭く詩人臭くなった。
硯友社員中、眉山は一番詩人らしかった。初めはやはり陽気に騒ぐ質であったが、次第に段々沈欝となって、ややともすると考え込むようになった。家庭の事情が面白くなかった処へ自分の力ではとても背負い切れない亡父の債務が俄に双肩に落ちたからであった。
その頃眉山と私とは家が近かったので、少くも月に一度や二度は互に往来した。が、文学よりは債権債務の法律問題に熱心であって、こういう負債は弁債の義務があるだろう乎とか、乃至はこういう督促はどういう風に切抜けたもんだろう乎とかいうような咄が多かった。今ではその事情は大抵忘れてしまったが、道徳上には何の責任も義務もない夢にも知らない債務を俄に背負わされて、眉山はその弁債方法に苦んでいた。
こういう家庭に関聯した道徳上及び物質上の難関に苦みつつある一方には硯友社よりはむしろ『文学界』同人と親んで生に悶ゆる詩人の艱みに共鳴し、一方にはまた、今は全く韜晦して消息を絶ってしまったが、黒川文淵という一種異色ある思想家が同居していて朝夕互に偏哲学を戦わしていた。眉山は最早のんきに鼻唄を歌う春木町時代の眉山ではなかった。
眉山が一葉女史との浮名を歌われたのもその頃であった。この消息については余り精しくは知らぬが、眉山がしばしば一葉の家に出入したのは事実であって、ツマリ頻繁な交際と女に好かれそうな眉山の男振から附会した風説であったろう。が、眉山の美貌はその頃は生活の苦労に傷つけられて幾分か険しくなって来た。
富坂に住んだのはたッた一年かそこらで、眉山は終に債務のために世帯を畳むべく余儀なくされ、僅かばかりの身の廻りのものを友の家に預けて飄然として放浪の旅に上った。その時の道の記が『ふところ日記』となって後に発表されたのだが、当時の眉山の旅は『ふところ日記』に現れてるような暢気なものではなかったのだ。
三、四カ月経ってから眉山が帰って来たと或人から伝言された後、丁度初夏のフラネル時候であった。その頃江戸川畔に住んでいた私は偶然川畔を散策いていると、流れを下りて来る川舟に犢鼻褌一つで元気に棹をさしてるのが眉山で、吉原通いの山谷堀でも下る了簡で、胡座をかきつつ好い気持になってるのが中村花痩であった。
眉山は三月越しの旅で顔の色が煤けて日に焼けていたが、真白な長身は汗ばんで赤味を帯び、棹は上手か下手か知らぬが流れに従って下りるんだから楽々として如何にも威勢が好く、とても旅路に放浪して今帰ったばかりの家なき人とは思われなかった。その艶気のある勇肌がトンと国貞あたりの錦絵にありそうであった。眉山の容貌、風采、及び生活は洋画は勿論院派の日本画にもならないので、五渡亭国貞あたりの錦絵から抜け出したようだった。
「や、乗らないか、」と眉山は私を見るなり声を掛けた。
「僕ン許へ来い、美味いものを喰わせるぞ。」
「今行くよ、直ぐ行くよ、」といいながら元気に舟を流して行った。
私の家は川畔の直ぐ近所だったから、帰って待つ間もなく、眉山と花痩とは威勢よくやって来た。眉山はその時新小川町の花痩の家に泊っていたのだ。
中村花痩もまた硯友社の一人だった。最も遅れて加盟したが、伯父さんが俳諧の宗匠だったので俳句には相当に苦労し、俳人としては社中の指折であった。これも御多分に洩れないズボラであって、一度は金のために奇禍を買ったので、その後を潔くする意味で雪後と改称したが、一生借金の苦労に追われて終に名を成す遑がない中に、夫妻相続いて急性の肺患に犯され、一と月経たぬ間に夫婦とも鬼籍に入った極めて不幸な作者であった。根が三馬鯉丈系統の戯作者肌に出来上った男だから、いつも月夜に米の飯で暢気に暮し、貧乏にも借金にも少しも怯げずに、執達吏の応接などは手に入ったもんだった。眉山が債権者と折衝するに方って相談対手としたのは専らこの男で、世帯を畳んだ時に身の廻りのものを預けたのもこの男の家なら、放浪から帰ると直ぐ頼ったのもこの男の家であった。(紅葉が『金色夜叉』を書く時、高利貸の知識や粉本を借りたのもまた花痩からであった。)
この時は小一時間も話した。駄洒落で執達吏を煙に巻く花痩が同席していたから、眉山も元気に噪いで少しもシンミリしなかった。
間もなく二度目に家を持ったのが牛込の北山伏町で、債務の段落が一時着いたというもののやはり旧債に祟られていた。或時尋ねると、「昨日は突然差押えを喰って茶呑茶碗まで押えられてしまった、」と眉山は一生忠実に仕えた老婢に向って、「オイ阿婆、何処かで急須と茶碗を借りて来な、」と平気なもんだった。
その頃は最う眉山も執達吏に馴れ切っていた。「身体に附いてるものは押える事が出来ないッてから、今度はピカピカ光る指環を三つも四つも穿めて見せびらかしてやろう、」なぞと平気な顔をして笑っていた。が、眉山はかなり長い間債務の交渉に忙がしかったが、ついぞ服装を崩さずにリュウとしていた。何時でも座敷を奇麗に片附け、床の間には幅を掛け花を活け、庭には植木棚を作って盆栽の二、三十鉢も列べて置くという風で、儀式張った席へ臨む時は、質屋で着更えて行くと本人はいっていたが、左に右く黒紋付の対に仙台平という拵えだったから、岡目には借金に苦められてるとは少しも見えなかった。借金取にも最う慣れ切っていて、貧乏咄をするにも極めて余裕があって、それほど窮迫しているとは誰も思わなかった。
眉山は酒の上が余り評判が好くなかった。始終眼が充血していて、頭の具合が悪いと口癖にいっていたのもやはり酒のためらしかった。が、この酒は元来好きでもあったろうが一つは生活の不愉快を忘れたさに益々酒癖を昂じさせたのであろう。春木町時代に極めて陽気であったのが富坂時代には沈鬱となり、北山伏町時代には徐々荒んで多少自棄気味となり、酒のために警察の厄介になり、警察で演説をして新聞種になった事もあった。
それから後、南榎町に転じてから今の未亡人を迎えて沈着いて来た。生活も段々順調となって名声もまた次第に高く、これから新らしい運命を展開しようという処で意外な魔の手は忽然隕石の如く落下してこの秀麗なる玉人を撃砕した。
あたかもその時私は京都に旅していた。蒲団着て寝たる姿の東山を旅館の窓から瞻めつつ、眠ったような平和な自然美をあくまで貪ぼっていた長閑な夢を破ったのは眉山の訃であった。その頃は眉山と私との往来はやや疎縁になって、眉山の近状について余り知らなかったが、が、こういう悲惨な最後を耳にしようとはかつて夢にだも想像しなかった。
眉山が沈鬱となって偏哲学に耽った富坂時代には時々死を考えた事があったそうだ。死の瞬間は歓喜の美しい飽満であろうと話した事もあった。或時暗黒の中で瞑想している刹那、忽然座辺のものが歴然と見えて、庭前の松の葉が一本々々数えられたとソムナンビュリストの夢のような事をいったりした。が、夫人を迎えて家庭の団欒の悦びに浸るようになってからは詩人の夢から覚めて頗る平穏堅実となったとのみ聞いていた。
眉山の死の原因について新聞紙は種々の憶測を下して多くは生活難のためといった。が、眉山の生活は豊かでなかったにしろ、自殺するほど逼っていたとも思われなかった。富坂時代から貧乏線は度々踰えて借金学も一と通り卒業して来たから、如何に家族を抱えていても死ぬほど窮苦に堪えられなかったとは想像されない。眉山の死の原因を単なる生活難に帰するは決して穿ち得たものではない。が、原因は何にてもあれ、あれほど豊かな天分才能を持っていながら一生は実に数奇を極めていた。美人薄命というが、強ち女にのみ限らず、玲瓏玉の如き美男の眉山もまた頗る薄命であった。