硯友社の勃興と道程 ――尾崎紅葉――

7話 七 川上眉山

4,624字 約9分 2014年7月31日 公開

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 硯友社は御大(おんたい)紅葉を初めとし美妙といい漣といい美男のお(そろ)いであったが、美貌をいったら川上眉山(かわかみびざん)は第一位であったろう。眉山の美貌は硯友社に限らず、文壇に限らず、美男の畑なる役者の中を尋ねても決して数多くの匹儔(ひっちゅう)を見出しがたいだろう。尤も美男を定める標準にも色々あろうし、人に(よっ)ての好き不好きもあろうが、如何なる点の(から)い人でも眉山の美貌には百点近くを決して(おし)まないだろう。

 眉山の色の白さは透徹(すきとお)るようで、支那人が玉人(ぎょくじん)と形容するはこういう人だろうと思うほどに美くしく、何時(いつ)でも薄化粧しているように見えた。いわゆる女にしても見ま欲しいという目眩(まぶ)しいような美貌で、まるで国貞(くにさだ)田舎源氏(いなかげんじ)の画が抜け出したようであった。難をいったら余り美くし過ぎて、丹次郎(たんじろう)というニヤケた気味合(きみあい)があった。()う少し色が浅黒いとか口が大き過ぎるとかいう欠点があったらかえって()かったろうと思う。

 眉山が予備門(今の高等学校)へ通う時分、その頃は制服がなかったので思い思いであったが、眉山は何時(いつ)でも黄八丈の(ふり)の長い羽織を着ていた。この(なまめ)かしい羽織が女のような眉山の顔と()釣合(つりあ)って、影では蔭間(かげま)のようだと悪語(わるくち)をいうものもあったが、男の眼にも恍惚(うっとり)とするほど美くしかった。通学の道筋に当る町の若い女は眉山の往帰(いきかえ)りを(たのし)みにして、目牽(めひ)き袖引き目送(みおく)って人知れず(こが)れていたものも少なくなかったという評判だった。

 殊に眉山の艶容媚態(えんようびたい)――というと女の形容になるが、その頃の眉山を彷彿するには女の形容を用ゆるが適していた――を著るしく引立たしたのは春亭九華(しゅんていきゅうか)であった。春亭九華などというと如何にも(やさ)しげだが、九華は縦も横も大々(だいだい)した巨漢であった。この九華がクラスの中でも殊に眉山と大の仲善(なかよ)しであって、学校の往復は本より何処(どこ)にでも二人は一緒に連立(つれだ)っていた。筋骨(たく)ましい大兵(だいひょう)肥満の黒々(くろぐろ)した巨漢と振袖然(ふりそでぜん)たる長い羽織を着た薄化粧したような美少年と連れ立って行くさまは弁慶と牛若といおう()髯奴(ひげやっこ)色若衆(いろわかしゅう)といおう乎。小説でなければ決して見られない図であった。今でも憶起(おもいおこ)すと師宣(もろのぶ)の絵にありそうな二人の姿を眼前に彷彿する。九華もまた堂々たる風采であったが、眉山が余り美くし過ぎていた。

 この平家の公達(きんだち)のような美少年は早くから知っていたが、この人が眉山人であるとは少しも知らなかった。その後紅葉の家で計らず落合った時、この女のような顔の持主が也有(やゆう)の再来かと疑われる名文章の作者だと聞いて喫驚してしまった。かつ顔に似合わない思切った皮肉や毒口(どくぐち)を連発するには(あき)れてしまった。眉山は遠くから(なが)めてると女のように媚かしいただの色若衆であったが、会って見ると岩本院(いわもといん)の稚児上りといいそうな江戸ッ子風の伝法肌(でんぽうはだ)であった。

 眉山の家は本郷(ほんごう)春木町(はるきちょう)の下宿屋であった。学校から帰ると、素裸(すっぱだか)になって井戸の水を汲込(くみこ)みつつ大きな声で女中を揶揄(からか)っていた。真白な肉附きの好い肌が役者のように美くしかったので、近所の若い女が目引き袖引き垣根から隙見(すきみ)したそうだ。あの下宿屋の若旦那(わかだんな)は役者よりも美くしいと其処(そこ)(じゅう)の若い女が岡惚(おかぼ)れしたという評判であった。

 が、眉山の家庭には気の毒な面倒臭い葛藤(かっとう)絶間(たえま)なかったそうで、何時(いつ)でも晴れやかな顔をして駄洒落(だじゃれ)をいってる内面には人の知らない苦労が絶えなかったそうだ。親父(おやじ)が死んでから春木町を去って小石川の富坂(とみざか)へ別居した。この富坂上の家というは満天星(どうだん)生垣(いけがき)(めぐ)らした(すこぶ)る風雅な構えで、手狭(てぜま)であったが木口(きぐち)を選んだ凝った普請(ふしん)であった。為永(ためなが)中本(ちゅうほん)にある(りょう)というような塩梅(あんばい)で、美男であり風雅である眉山の住居(すまい)には持って来いであった。が、その頃から眉山は段々と陰気臭く詩人臭くなった。

 硯友社員中、眉山は一番詩人らしかった。初めはやはり陽気に騒ぐ(たち)であったが、次第に段々沈欝(ちんうつ)となって、ややともすると考え込むようになった。家庭の事情が面白くなかった処へ自分の力ではとても背負い切れない亡父の債務が(にわか)に双肩に落ちたからであった。

 その頃眉山と私とは家が近かったので、少くも月に一度や二度は互に往来した。が、文学よりは債権債務の法律問題に熱心であって、こういう負債は弁債の義務があるだろう()とか、乃至(ないし)はこういう督促はどういう風に切抜けたもんだろう乎とかいうような(はなし)が多かった。今ではその事情は大抵忘れてしまったが、道徳上には何の責任も義務もない夢にも知らない債務を俄に背負わされて、眉山はその弁債方法に(くるし)んでいた。

 こういう家庭に関聯(かんれん)した道徳上及び物質上の難関に(くるし)みつつある一方には硯友社よりはむしろ『文学界』同人と(したし)んで生に(もだ)ゆる詩人の(なや)みに共鳴し、一方にはまた、今は全く韜晦(とうかい)して消息を絶ってしまったが、黒川文淵(くろかわぶんえん)という一種異色ある思想家が同居していて朝夕互に偏哲学を戦わしていた。眉山は最早のんきに鼻唄(はなうた)を歌う春木町時代の眉山ではなかった。

 眉山が一葉(いちよう)女史との浮名(うきな)を歌われたのもその頃であった。この消息については余り(くわ)しくは知らぬが、眉山がしばしば一葉の家に出入したのは事実であって、ツマリ頻繁(ひんぱん)な交際と女に好かれそうな眉山の男振(おとこぶり)から附会した風説であったろう。が、眉山の美貌はその頃は生活の苦労に傷つけられて幾分か険しくなって来た。

 富坂に住んだのはたッた一年かそこらで、眉山は終に債務のために世帯を畳むべく余儀なくされ、(わず)かばかりの身の廻りのものを友の家に預けて飄然として放浪の旅に上った。その時の道の記が『ふところ日記』となって後に発表されたのだが、当時の眉山の旅は『ふところ日記』に現れてるような暢気(のんき)なものではなかったのだ。

 三、四カ月()ってから眉山が帰って来たと或人から伝言された後、丁度初夏のフラネル時候であった。その頃江戸川(べり)に住んでいた私は偶然川畔(かわべり)散策(ぶらつ)いていると、流れを()りて来る川舟に犢鼻褌(ふんどし)一つで元気に(さお)をさしてるのが眉山で、吉原(よしわら)通いの山谷堀(さんやぼり)でも(くだ)了簡(りょうけん)で、胡座(あぐら)をかきつつ()い気持になってるのが中村花痩(なかむらかそう)であった。

 眉山は三月越しの旅で顔の色が(すす)けて日に焼けていたが、真白な長身は汗ばんで赤味を帯び、棹は上手(じょうず)下手(へた)か知らぬが流れに従って下りるんだから楽々として如何にも威勢が()く、とても旅路に放浪して今帰ったばかりの家なき人とは思われなかった。その艶気(つやけ)のある勇肌(いさみはだ)がトンと国貞あたりの錦絵(にしきえ)にありそうであった。眉山の容貌、風采、及び生活は洋画は勿論院派の日本画にもならないので、五渡亭(ごとてい)国貞あたりの錦絵から抜け出したようだった。

「や、乗らないか、」と眉山は私を見るなり声を掛けた。

「僕ン(とこ)へ来い、美味(うま)いものを喰わせるぞ。」

「今行くよ、直ぐ行くよ、」といいながら元気に舟を流して行った。

 私の家は川畔(かわべり)の直ぐ近所だったから、帰って待つ()もなく、眉山と花痩とは威勢よくやって来た。眉山はその時新小川町(しんおがわちょう)の花痩の家に泊っていたのだ。

 中村花痩もまた硯友社の一人だった。最も遅れて加盟したが、伯父さんが俳諧の宗匠だったので俳句には相当に苦労し、俳人としては社中の指折(ゆびおり)であった。これも御多分に()れないズボラであって、一度は金のために奇禍を買ったので、その後を(きよ)くする意味で雪後と改称したが、一生借金の苦労に追われて終に名を成す(いとま)がない中に、夫妻相続いて急性の肺患に犯され、一と月経たぬ間に夫婦とも鬼籍(きせき)に入った極めて不幸な作者であった。根が三馬鯉丈(りじょう)系統の戯作者(はだ)に出来上った男だから、いつも月夜に米の飯で暢気に暮し、貧乏にも借金にも少しも()げずに、執達吏の応接などは手に入ったもんだった。眉山が債権者と折衝するに(あた)って相談対手(あいて)としたのは(もっぱ)らこの男で、世帯を畳んだ時に身の廻りのものを預けたのもこの男の家なら、放浪から帰ると直ぐ(たよ)ったのもこの男の家であった。(紅葉が『金色夜叉』を書く時、高利貸の知識や粉本(ふんぽん)を借りたのもまた花痩からであった。)

 この時は()一時間も話した。駄洒落で執達吏を(けむ)に巻く花痩が同席していたから、眉山も元気に(はしゃ)いで少しもシンミリしなかった。

 間もなく二度目に家を持ったのが牛込(うしごめ)北山伏町(きたやまぶしちょう)で、債務の段落が一時着いたというもののやはり旧債に(たた)られていた。或時尋ねると、「昨日(きのう)は突然差押えを喰って茶呑茶碗(ちゃのみぢゃわん)まで押えられてしまった、」と眉山は一生忠実に仕えた老婢(ろうひ)に向って、「オイ阿婆(ばあや)何処(どっ)かで急須(きゅうす)と茶碗を借りて()な、」と平気なもんだった。

 その頃は()う眉山も執達吏に()れ切っていた。「身体(からだ)に附いてるものは押える事が出来ないッてから、今度はピカピカ光る指環(ゆびわ)を三つも四つも穿()めて見せびらかしてやろう、」なぞと平気な顔をして笑っていた。が、眉山はかなり長い間債務の交渉に忙がしかったが、ついぞ服装(なり)(くず)さずにリュウとしていた。何時(いつ)でも座敷を奇麗に片附け、床の間には幅を掛け花を()け、庭には植木棚を作って盆栽の二、三十鉢も(なら)べて置くという風で、儀式張った席へ臨む時は、質屋で着更(きか)えて行くと本人はいっていたが、()()く黒紋付の(つい)仙台平(せんだいひら)という(こしら)えだったから、岡目(おかめ)には借金に(くるし)められてるとは少しも見えなかった。借金取にも最う慣れ切っていて、貧乏(ばなし)をするにも極めて余裕があって、それほど窮迫しているとは誰も思わなかった。

 眉山は酒の上が余り評判が好くなかった。始終眼が充血していて、頭の具合が悪いと口癖にいっていたのもやはり酒のためらしかった。が、この酒は元来好きでもあったろうが一つは生活の不愉快を忘れたさに益々(ますます)酒癖を(こう)じさせたのであろう。春木町時代に極めて陽気であったのが富坂時代には沈鬱となり、北山伏町時代には徐々(そろそろ)(すさ)んで多少自棄(やけ)気味となり、酒のために警察の厄介(やっかい)になり、警察で演説をして新聞種になった事もあった。

 それから後、南榎町(みなみえのきちょう)に転じてから今の未亡人を迎えて沈着(おちつ)いて来た。生活も段々順調となって名声もまた次第に高く、これから新らしい運命を展開しようという処で意外な魔の手は忽然(こつぜん)隕石(いんせき)の如く落下してこの秀麗なる玉人を撃砕した。

 あたかもその時私は京都に旅していた。蒲団(ふとん)着て寝たる姿の東山を旅館の窓から(なが)めつつ、眠ったような平和な自然美をあくまで(むさ)ぼっていた長閑(のどか)な夢を破ったのは眉山の()であった。その頃は眉山と私との往来はやや疎縁になって、眉山の近状について余り知らなかったが、が、こういう悲惨な最後を耳にしようとはかつて夢にだも想像しなかった。

 眉山が沈鬱となって偏哲学に(ふけ)った富坂時代には時々死を考えた事があったそうだ。死の瞬間は歓喜の美しい飽満であろうと話した事もあった。或時暗黒(くらやみ)の中で瞑想(めいそう)している刹那(せつな)、忽然座辺のものが歴然(ありあり)と見えて、庭前の松の葉が一本々々数えられたとソムナンビュリストの夢のような事をいったりした。が、夫人を迎えて家庭の団欒(だんらん)の悦びに浸るようになってからは詩人の夢から()めて(すこぶ)る平穏堅実となったとのみ聞いていた。

 眉山の死の原因について新聞紙は種々の憶測を下して多くは生活難のためといった。が、眉山の生活は豊かでなかったにしろ、自殺するほど(さしせま)っていたとも思われなかった。富坂時代から貧乏線は度々()えて借金学も一と通り卒業して来たから、如何に家族を抱えていても死ぬほど窮苦に堪えられなかったとは想像されない。眉山の死の原因を単なる生活難に帰するは決して穿(うが)ち得たものではない。が、原因は何にてもあれ、あれほど豊かな天分才能を持っていながら一生は実に数奇を極めていた。美人薄命というが、(あなが)ち女にのみ限らず、玲瓏(れいろう)(たま)の如き美男の眉山もまた頗る薄命であった。

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