8話 八 硯友社の全盛時代
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硯友社の勢力は団体的の結束の力であって各自の個々の力ではなかった。紅葉の芸術的天分はエポックを画するだけの十分な力を持っていたが、それよりもなお一層勝れていたのは傘下の英才を統率して芸術的地盤を固めた政治的手腕であった。紅葉にもし芸術的天分がなくて政治か実業方面に働かせたなら、社会的にはヨリ以上成功したろう。
紅葉勃興当時の文壇は各々私交はあっても団体的に行動する事はなかった。春廼舎の起つや半峰居士は伯牙における鍾子期の如くに共鳴したが、早稲田は決して春廼舎を声援しなかった。二葉亭と嵯峨の屋とは春廼舎傘下の寒山拾得であったが、その運動は離れ離れであった。美妙は硯友社の一人であったが、抜駈の功名に逸って終に孤立してしまった。が、紅葉は早くも孤立の力なきを知って、初めから百名以上の応援隊を率いて起ち、固く結束して団体的に文壇を開拓し、進退行蔵を総て侶にして自家の勢力を扶植した。
当時文壇は全く旧作家に飽いて新作家を迎うるに鋭意していたから、多士済々たる硯友社は忽ち章魚の足のように八方に勢力を伸ばし、新聞社に雑誌社に出版人にそれぞれ多少の関係を附けざるはなかった。その上に固く結束して互に相援引し、応援するにも敵対するにも一斉に起って進退緩急の行動を侶にした。歩武の整然として訓練の能く行届いたは有繋に紅葉の統率の才の尋常でなかった事が解る。硯友社はこの全体の力で常に文壇に衝ったから、一時硯友社はあたかも政友会が政界に跋扈したように文壇を壟断して、操觚者も出版者も新聞雑誌社も硯友社に拠らざれば文壇の仕事は何一つ出来ないような形勢となった。当時の硯友社は実に政友会であって紅葉の手腕は原敬以上であった。
当時硯友社と相対峙した団体は思軒、篁村、三昧、得知ら一派のいわゆる根岸党であった。が、本来根岸党の名は根岸を中心とする文人の一群を指して他から与えた名称であって、渠らは折に触れて相集っていわゆる詩酒徴逐の風流に遊んだが、酒を以て集まる無形の交友倶楽部であって、硯友社のような文壇的運動を目的とする団結ではなかった。かつこの根岸党の中心となっているものは大抵旧作家の系統に属し、硯友社に比べては清新の思想と敏活の元気を欠き、文壇の選手権を争うには余りに老成し過ぎていた。
根岸党を外にしては鴎外の『しがらみ草紙』派があったが、この『しがらみ草紙』派は実は鴎外一人であって、その他は興味あれば集まり興味去れば散ずる去就常ならざる遊離分子であった。派という条、実は鴎外が単独で八人芸をしていたので、弟の三木竹二の外には鴎外の片腕の指一本の力となるものすらもなかった。随って個人としての鴎外の権威は認められていても文壇的の実際の運動には全く無力であった。
硯友社の最全盛期は明治二十六、七年頃から三十二、三年頃までだったろう。『読売新聞』を牙城とした紅葉は堀紫山を幕僚と頼んで三面及び文芸欄は思うままに主宰した。春陽堂には前田曙山が座し、博文館には大橋乙羽が控え、『新小説』も『文芸倶楽部』も硯友社の統轄に帰した。あまつさえ後藤宙外は早稲田を出ると紅葉幕下に参じ、硯友社の客将として主宰する『新著月刊』を硯友社の新版図に献じた。当時の紅葉は四方の書肆文人来貢すという勢いであった。随って傘下の硯友社員は各々その拠る処を得て勢力を張った。
が、この勢力は他の文人が各々孤立していたと反して団体的に築き上げたのだから、これと拮抗する他の団体が生ずれば自然に気勢を削がれるのは当然であった。果然、万年上田博士が帰朝して赤門派が崛起すると硯友社の勢威が幾分か薄くなった。続いて早稲田派が新旗幟を建つるに到って、硯友社は復た更に幾分か勢力を削がれた。幸いこの二派は硯友社の秀才に取って代るだけの創作家を出さなかったから当分はなお創作壇の選手権を握っていたが、紅葉門下の風葉鏡花が徐々流行児となり掛けた頃には硯友社の勢力は最早峠の絶頂を越していた。それからいくばくもなく紅葉が多年の牙城たる『読売』を棄てて『二六』に移った時は、一葉落ちて天下の秋を知るで、硯友社の覇権がそろそろ徐々傾き出した。三十六年の冬、紅葉が物故して以来硯友社の団結はまた旧の如くならず、あまつさえ自然主義が勃興して創作の権威が他の集団に移ったので、硯友社は漸次に凋零して今では全く過去の夢物語となった。