29話 素材三つ 二、彼
読み方を変える
これは四五年前、丗枚ばかり書いたまゝ中止した話である。いつかまた書くかも知れないが、恐らく素材だけを頭に持って、書かずにしまうことだろう。
主人公は山の案内者、山には剛胆だが、人間としては正直すぎる程正直で小心な四十男を選ぶ。第一の神さんが病気で死に、後妻にもらった若い女が、結婚後一年ばかりで内職に駄菓子屋を始めたが、どうもそれは近所の若い男たちを集める一種の口実であるらしく、面白くない噂が立っているが、女が気が強くて喋舌り立てる上に、尻尾を押えられるような間抜けではないので、何ともいたし方がない。それやこれやでポシャポシャしているもんだから、よく物を忘れたり何かする。気がめいって弱っていると、東京の山田さん――前に半分書いた時、何故ともなく、山田という名を使用した――から手紙が来て、この夏は夫婦で山へ行く、案内者組合の方へも通知しておいたが、出来れば君に行ってもらいたいといって来る。
これで見違える程元気が出た……というのは、山田さんは中学校の時以来彼を知っているので、高等学校、大学と、六七度一緒に山へ入り、彼とは登山者対金銭でやとわれる山案内以上に親しい関係になっていたからである。大学を出ると山田さんは二年ばかり外国へ行き、去年三年ぶりで一緒に登山したが、今年は会社に入った上、春にはお嫁さんをもらったので、とても駄目だろうと思っていたのである。その山田さんが奥さんをつれて、彼が十数年前、はじめて案内した鹿島槍へ天幕を持って行くというのだから、神さんに厭味をいわれるくらい、彼ははしゃいでしまう。
彼は死んだ女房の弟の十九になるのをつれて、山田さん夫婦を鹿島槍へ案内する。鹿島槍と来れば吉田絃二郎さんの「静夜曲」に出て来る「O町」以上に、信州の大町であることがハッキリ判るだろうが、別にそこにモデルがある訳ではない。が、ヒントはある。数年前、Kという案内者が発狂して死んだ……たゞこれだけの事実である。
自分を信頼しきっている三人の若い男女をつれ、彼等に対する全責任を負って山へ入ることは、彼に新しい元気と体力とを与えた。が、何かしら彼は重大な忘れ物をしたような気がしてならぬのである。しきりに考えるが、どうしても思い出せぬ。時々トンチンカンな返事をして笑われる程、一所懸命に考えるのだが、何を忘れたのか、どうも見当がつかない。
鹿島川の岸で弁当にする時、彼は突然思い出した。マッチを忘れて来たのだ。四人の一行に対して山田さんが一箱と彼が一箱、いずれも煙草用のを持っているだけである。炊事、焚火等に、これでは足りない。いや、マッチ一本あれば雨中生木で焚火をすることも出来るが、何かの場合、これでは心細い。自分はとにかく、また義弟はとにかく、更に山田さんはとにかく、万一山田さんの奥さんに不自由な思いをさせては申訳ない。彼は山田さんにあやまり、その晩の夜営地を最初の予定地より二里ばかり手前にしてもらって、弁当も食わずに大町まで飛んで帰る。荷物は磧の石の間にかくした。空身だからとても早い。間もなく大町の旅館につくと、旅館の主人に「お前が出るとすぐ神さんが来て山の案内賃を三日分前借して行った」といわれる。
これは不愉快なことだった。そんな真似をしてはいけないと固く申し渡してあったのだ。が、まア或いは親類に病人でも出来たのかも知れぬと思って、一寸自宅に寄って見た彼は、恐ろしいものを見てしまった。女房がまっぴる間、若い男を引き入れて、いわゆる不義の快楽にふけっていたのである。
気がつかずにいる不義の二人のみだらな姿に、かっとなった彼は納屋から鉈を取り出して台所に忍びよったが、ふと太陽を横切った雲が地上に投げた影に、空を仰ぐと思いもかけぬ雷雲が現れている。彼は鉈を投げ出し、近所の荒物屋で油紙を一枚買うとそれでマッチを包み、一目散に山をめがけて走り出した。電光、雷鳴、沛然たる豪雨、彼は狂人みたいに走った。朝から何も食わず、おまけにひどい精神的打撃を受け、心身ともに疲労困憊している彼の頭の中で、善玉と悪玉が猛烈に争った。悪玉はぽってりした彼の女房である。悪玉はこの雷雨を幸に、雨戸をしめて更に不義の快楽をくりかえしていることだろう。これに反して善玉は、若くてスラリとした山田さんの奥さんだ。奥さんは定めしこの雨に苦しんでいることだろう。救わねばならぬ……保護せねばならぬ……という気持でいるのが、いつの間にか自分の子供みたいな年齢の奥さんが、自分を救ってくれ、保護してくれる観音様みたいな気がして来た。まろびつ、ころげつ、彼は走った。いつか雨はやんだ。そして日の暮れ方、とある野営地に山田さんの緑色のテントが張られ、その前には焚火が勢いよく燃えさかり、白いスウエッターを着た山田さんの奥さんが虹を見上げているのを見ると、彼はクタクタと濡れたいたどりのしげみの中に膝をついてしまった。まっかに充血した目に、涙がうかび出た。