6話 秋になる 六
読み方を変える
二三日前の朝、今年はじめての百舌の声を聞いた。珍らしく早く起きて、と云っても七時頃、ねまきのまゝで新聞を読んでいると、ギー、ジュルジュル!という声。
私は新聞を持ったまゝ、あけ放した窓の所に行って見た。するとすぐ前の電線に、肩をいからし、胸を張って、ギー、キーン!と威張っている鳥、バックは澄んだ空と、松の丘である。前にひらける景色は、私の家と、はるか向うの山である。若い勇士が得意になるのも当然ではあるまいか。
私は大きなアームチェアにポコンと埋って、大人しくパンを噛っている子供を抱き上げた。子供は抱いて貰った嬉しさに、足をバタバタさせて笑った。
「陽ちゃん、あれを御覧!」
子供は窓わくに立って、私の指さす方を見た。電線にとまる鳥の姿は、すぐ彼女の目に映じた。パンをつかんだまゝ、右手をのばして百舌を指さす。目を見張って、一挙一動を見守る。
見物人があると知ったからでもあるまいが、百舌は盛んに高い声を出した。子供はパンを忘れて見詰めた。
突然、パッと百舌は飛び立った。私の家の屋根を越して西北の方へ。あとには電線が空で揺れた。
子供はほっとしたように私の顔を見て、「にゃいにゃ、にゃいにゃ。」と云った。無くなったの意味である。
「あゝ、どこかへ行って了ったね。」――私は彼女をもとのアームチェアに下しながら云った。
去年の夏生れた私の長女が、初めて、意識して聞いた秋の声と、意識して見た秋の姿は、実にこの百舌である。やがて生長して行く彼女にとって、秋が悲しいものになるか、うれしいものになるか。私はしばらく、新聞も読まずに彼女を見た。もう百舌のことなぞは忘れて了ったらしく、私の方にパンを差し出して、しきりに「あん、あん、あん」とうなづいている。私に呉れるというのである。
お父さんは××会社の重役、お嬢さんは××学園の二年生、北信××温泉の裏山へ、スキーをやりに来た。お父さんは数年来スキーに親しんでいるそうだが、お嬢さんはこれが最初である。
こゝで一寸、この××温泉のスキー場を説明したい。手取早くいえば、Vの字に、もう一つサイドをつけた形なのである。即ち温泉宿のある所から、急な坂を登って行くと、なだらかな斜面が目の下を下って行き、斜面の底部からは、自分の立っている所と相向って急な斜面が、かなりな高さでかゝっている。この二つの斜平面と交るのが右側の斜面で、こいつは恐しく急であり、シャンツェが出来ている。これで三つの側が出来た。残る一つの側は小さな谷口にひらけ、なだらかで狭い路がついている。
地形がこのようになっている以上、スキーをする人達が巧拙に依って各々その斜面を選ぶのは理の当然である。即ち最も上手な青年達は、シャンツェのある側へ行き、それ程でない人達は向う側の斜面で滑ったり止ったりし、一番下手な我々は、こちら側の斜面をころびながら上下し、より下手な連中はまるで斜面にさしかゝらず、その上の、平坦な場所で、立ったり坐ったりするのであった。
坂の上までたどりついたお嬢さんは、器用にスキーをはいた。恐らく東京で練習して来たのであろう。お父さんは先ずお嬢さんの写真をうつした。そして、写真機を革の箱に仕舞い込むと、
「さあ、杖をこう持って、グンと押して御覧!」といゝながら、ズルズルと、かなり固く踏まれた雪の上を滑って行った。お父さんはもう会社の小使さんにやってもいゝような外套を着、狐の毛皮を首にまいた上に、絵葉書型のコダックを肩にかけ、外套の裾から長靴下を出している。どうもスキーに来た重役というよりも、兵営建築用の材木を見に来た陸軍御用商人といった形である。それはとにかく、二三間滑ったかと思うと、ドサリと倒れて了った。
お嬢さんはほがらかな声を立てゝ笑った。
お父さんは雪まみれになって呶鳴った――「笑う人がありますか、スキーは三千遍ころばなくっちゃ上手になれないのだ。何より先に、ころびようと起きようとを練習しなくてはならぬ。起きる時には足をこう揃えて……」というのだが、外套の裾や狐の皮やコダックが邪魔をして、中々起きることが出来ない。お嬢さんは、
「パパ。だって……だって……」といゝながら、雪眼鏡を外して涙を拭う程笑った。
やっと起き上ったお父さんは、旧式な八字鬚のさきに雪をつけたまゝ、「さあ××ちゃん、こゝ迄来て御覧!」といった。
お嬢さんは僕達が見ているので幾分てれたようだったが、それでも勇敢に両脚をそろえてズルズルと滑った。そして、一間ばかり行った所で、ヘタと雪の中に坐って了った。そこは雪がやわらかかった。お父さんは盛んに「スキーを揃えて、膝をおなかに引きよせて……」と教えるが、中々そううまくは行かぬ。お嬢さんはニッカースもスウェッターもまっ白にした。まだ起きられぬ。いくら××学園で無邪気だとはいえ、もう十六七になるのだから、知らぬ男の前で雪の上をころがるのは、いゝ加減恥しいであろう。僕達は二人をそこに残したまゝ、青年達が飛ぶのを見るために、斜面の中程まで下りて行った。
その日の晩方、チラチラと粉雪が降って来たので、もう帰ろうかなと、二三人で谷底から上って来ると、上からお嬢さんが滑って来た。大分しっかりしている。底部まで行ってバタンと横に倒れた。スキーを揃え、うまく起き上った。僕達はお嬢さんが上って来るのを待って、一緒に上まで行った。もう誰もいない平坦地には、お父さんが水っぱなをたらして待っていた。お嬢さんはその横まで行って、「パパ、今度は下まで倒れずに行けたわよ」と、如何にもうれしそうに叫んだ。お嬢さんの赤くほてった頬が、白い雪と、白いスウェッターと、白い帽子とに、可愛らしく輝いた。お父さんは、僕達がいなかったら、その頬っぺたにキスしたかも知れぬ。
その翌日、僕達は、僕達だけで温泉宿の裏山へ行ったが、翌々日、僕だけ午後の汽車で発つので、そろって、例のスキー場へ行って見た。丁度お昼前で、あまり人がいない。坂を登りきると、例の平坦地に、あのお父さんが一人で立っている。不相変長外套、鳥打帽子、狐の毛皮といういで立ちだが、写真機はもっていなかった。
僕達の仲間で、このお父さんをよく知っているのが、
「××さん、今日は。お嬢さんは?」というと、
「それが君、どこかへ行って了ったんですよ」という返事である。どこかといっても手前の斜面は一目で見下ろせる、真正面のは急すぎる。さりとてスキーをはいて三日目のお嬢さんが、ジャムプをやりに、右側の急斜面を登る筈はない。左の方の谷へまぎれ込んだとすれば、あすこには川があり、若し落ちでもすれば大変である。僕達は一寸緊張した。お父さんを知っている友人は、すぐさま斜面を滑り下り、左へ曲って谷へ姿を消した。
僕は雪眼鏡を外した。キラキラして目が痛い。出来るだけしかめっ面をして、真向うの斜面を見上げ見下しすると、はるか上の方を、えらい勢で滑り下りる人がいる。その辺は段々になっているので、見えたり見えなかったりするが、どうもお嬢さんらしい。白いスウェッターの襟から、下に着た赤いスウェッターがチラリと見えている。
素敵な勢で滑って来たお嬢さんは、段の一つに来て、ザラザラと転げ落ちた。左の方にはジグザグな路がある。お嬢さんは、恐らくそこを登って行ったのであろうが、コントロールを失っているから、どこでも構わず滑り落ちるのであろう。
「××さん、お嬢さんはあすこにいますよ」僕の指さす方向を、これもしかめっ面をして眺めたお父さんは、
「や、や、大変な所へ行ったもんだ。仕方のない子だ」といゝながら、滑り出そうとしたが、考えなおしたと見えて、
「大丈夫でしょうな、大丈夫なら見ていましょう」といった。
お嬢さんが、無事に段々の箇所を通りぬけた時、我々は底まで滑って行った。丁度左手の谷をさがしに行った男も帰って来たので我々四人、上を向いていると、ヒョッコリ、上の棚みたいな所にお嬢さんが身体を出した。
「ヨホー!」と叫ぶとお嬢さんは片方の杖を大きく振って、勇敢に滑り始めた。ころぶ、起き上る、ヒョロける、ころぶ、滑る。そして間もなく、帽子も雪眼鏡もふっ飛ばした雪達摩みたいなお嬢さんが我々の横に立った。
「お前は一体何て真似をする。お父さんに心配かけて!」お父さんは水っぱなをすゝりながらいった。お嬢さんは、それに構わず、
「パパ、お腹で雪がとけて冷たいわよ」といった。
その日の晩方、暮れて行く千曲川にそって走る汽車の中で僕は四日前の晩、スキーを背負い出す僕を玄関まで送った娘のことを思い続けた。彼女はピョンピョン跳ねながら、
「お父ちゃん、お弁当持ってスキーに行くのね。陽ちゃんも学校に入ったら、お弁当持ってお父ちゃんとスキーに行くのよ」と、繰り返していったものである。僕はこの陽子をつれてスキーに行く僕自身と、××さんとを思いくらべた。
陽子があのお嬢さん位になる時には、僕は五十近くになっている。僕も狐の毛皮を首にまくか知ら……と思ったら、腹の底から笑がこみ上げて来て、何とも始末が悪いことであった。