19話 古事記 上つ卷 序并はせたり 〔天若日子〕
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天照らす大御神の命もちて、「豐葦原の千秋の長五百秋の水穗の國一は、我が御子正勝吾勝勝速日天の忍穗耳の命の知らさむ國」と、言依さしたまひて、天降したまひき。ここに天の忍穗耳の命、天の浮橋に立たして詔りたまひしく、「豐葦原の千秋の長五百秋の水穗の國は、いたくさやぎてありなり二」と告りたまひて、更に還り上りて、天照らす大御神にまをしたまひき。ここに高御産巣日の神三、天照らす大御神の命もちて、天の安の河の河原に八百萬の神を神集へに集へて、思金の神に思はしめて詔りたまひしく、「この葦原の中つ國四は、我が御子の知らさむ國と、言依さしたまへる國なり。かれこの國にちはやぶる荒ぶる國つ神五どもの多なると思ほすは、いづれの神を使はしてか言趣けなむ」とのりたまひき。ここに思金の神また八百萬の神等議りて白さく、「天の菩比の神六、これ遣はすべし」とまをしき。かれ天の菩比の神を遣はししかば、大國主の神に媚びつきて、三年に至るまで復奏まをさざりき。
ここを以ちて高御産巣日の神、天照らす大御神、また諸の神たちに問ひたまはく、「葦原の中つ國に遣はせる天の菩比の神、久しく復奏まをさず、またいづれの神を使はしてば吉けむ」と告りたまひき。ここに思金の神答へて白さく、「天津國玉の神七の子天若日子八を遣はすべし」とまをしき。かれここに天の麻迦古弓九天の波波矢一〇を天若日子に賜ひて遣はしき。ここに天若日子、その國に降り到りて、すなはち大國主の神の女下照る比賣に娶ひ、またその國を獲むと慮ひて、八年に至るまで復奏まをさざりき。
かれここに天照らす大御神、高御産巣日の神、また諸の神たちに問ひたまはく、「天若日子久しく復奏まをさず、またいづれの神を遣はして、天若日子が久しく留まれる所由を問はむ」とのりたまひき。ここに諸の神たちまた思金の神答へて白さく、「雉子名鳴女一一を遣はさむ」とまをす時に、詔りたまはく、「汝行きて天若日子に問はむ状は、汝を葦原の中つ國に遣はせる所以は、その國の荒ぶる神たちを言趣け平せとなり。何ぞ八年になるまで、復奏まをさざると問へ」とのりたまひき。
かれここに鳴女、天より降り到りて、天若日子が門なる湯津桂一二の上に居て、委曲に天つ神の詔命のごと言ひき。ここに天の佐具賣一三、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて、「この鳥はその鳴く音いと惡し。かれみづから射たまへ」といひ進めければ、天若日子、天つ神の賜へる天の波士弓天の加久矢一四をもちて、その雉子を射殺しつ。ここにその矢雉子の胸より通りて逆に射上げて、天の安の河の河原にまします天照らす大御神高木の神一五の御所に逮りき。この高木の神は、高御産巣日の神の別の名なり。かれ高木の神、その矢を取らして見そなはせば、その矢の羽に血著きたり。ここに高木の神告りたまはく、「この矢は天若日子に賜へる矢ぞ」と告りたまひて、諸の神たちに示せて詔りたまはく、「もし天若日子、命を誤へず、惡ぶる神を射つる矢の到れるならば、天若日子にな中りそ。もし邪き心あらば、天若日子この矢にまがれ一六」とのりたまひて、その矢を取らして、その矢の穴より衝き返し下したまひしかば、天若日子が、朝床一七に寢たる高胸坂に中りて死にき。こは還矢の本なり。またその雉子還らず。かれ今に諺に雉子の頓使一八といふ本これなり。
かれ天若日子が妻下照る比賣の哭く聲、風のむた一九響きて天に到りき。ここに天なる天若日子が父天津國玉の神、またその妻子二〇ども聞きて、降り來て哭き悲みて、其處に喪屋二一を作りて、河鴈を岐佐理持二二とし、鷺を掃持二三とし、翠鳥を御食人二四とし、雀を碓女二五とし、雉子を哭女とし、かく行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びたりき二六。
この時阿遲志貴高日子根の神到まして、天若日子が喪を弔ひたまふ時に、天より降り到れる天若日子が父、またその妻みな哭きて、「我が子は死なずてありけり」「我が君は死なずてましけり」といひて、手足に取り懸かりて、哭き悲みき。その過てる所以は、この二柱の神の容姿いと能く似れり。かれここを以ちて過てるなり。ここに阿遲志貴高日子根の神、いたく怒りていはく、「我は愛しき友なれ二七こそ弔ひ來つらくのみ。何ぞは吾を、穢き死人に比ふる」といひて、御佩の十掬の劒を拔きて、その喪屋を切り伏せ、足もちて蹶ゑ離ち遣りき。こは美濃の國の藍見河二八の河上なる喪山といふ山なり。その持ちて切れる大刀の名は大量といふ。またの名は神度の劒といふ。かれ阿治志貴高日子根の神は、忿りて飛び去りたまふ時に、その同母妹高比賣の命、その御名を顯さむと思ほして歌ひたまひしく、
天なるや二九 弟棚機三〇の
うながせる 玉の御統三一、
御統に あな玉はや三二。
み谷 二わたらす三三
阿遲志貴高日子根の神ぞ。 (歌謠番號七)
この歌は夷振三四なり。
一 日本國の美稱。ゆたかな葦原で永久に穀物のよく生育する國の義。
二 たいへん騷いでいる。アリナリは古い語法。ラ行變格動詞の終止形にナリが接續している。
三 この神が加わるのは思想的な意味からである。
四 日本國。葦原の中心である國。
五 暴威を振う亂暴な土地の神。
六 誓約の條に出現した神。出雲氏の祖先神で、出雲氏の方ではよく活躍したという。古事記日本書紀は中臣氏系統の傳來が主になつているのでわるくいう。
七 天の土地の神靈。
八 天から來た若い男。傳説上の人物として後世の物語にも出る。
九 鹿の靈威のついている弓。
一〇 大きな羽をつけた矢。
一一 キギシの鳥名はその鳴聲によつていう。よつて逆にその名を鳴く女の意にいう。
一二 神聖な桂樹。野鳥である雉子などが門口の樹に來て鳴くのを氣にして何かのしるしだろうとする。
一三 實相を探る女。巫女で鳥の鳴聲などを判斷する。
一四 前に出た弓矢。ハジ弓はハジの木の弓。カク矢は鹿兒矢で鹿の靈威のついている矢。
一五 タカミムスビの神の神靈の宿る所についていうのだろう。
一六 曲れで、災難あれの意になる。
一七 胡床とする傳えもある。
一八 ひたすらの使、行つたきりの使。
一九 風と共に。
二〇 天における天若日子の妻子。
二一 葬式は別に家を作つて行う風習である。
二二 食物を入れた器を持つて行く者。
二三 ホウキで穢を拂う意である。
二四 食物を作る人。
二五 臼でつく女。
二六 葬式の時に連日連夜歌舞してけがれを拂う風習である。
二七 友だちだから。
二八 岐阜縣長良川の上流。
二九 ヤは間投の助詞。
三〇 若い機おり姫。機おりは女子の技藝として尊ばれていた。
三一 頸にかけている緒に貫いた玉。
三二 大きな珠。ハヤは感動を示す。
三三 谷を二つ同時に渡る。ミは美稱。
三四 歌曲の名。