4話 嫉妬
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尾越千造は襟を正して語るのだった。
「私はこれまで自分でやろうと思った事で失敗したことはありません。脱獄も今度で二度目ですが、二度とも成功でした。最初の時はある売国奴を殺つけるため、今度は罪なき囚人の死の願いを果すためです。私は忍術使いではありませんが、人の注意を他に外らせておいて、仕事をするのが得意ですから、脱獄もそう難しい事ではありません、が、さて、脱獄しても、今度のような場合は、自分の力ばかりでは駄目、囚人の願いを聞いて頂く方を探し求めなければならない、それが一方ならない困難でした。先生には御迷惑でしょうが、まあ白羽の矢が当ったものと思召して、一肌ぬいで頂きたいのです」
「お話に依っては――、私の力で出来ますことでしたら、何なりと致しましょう」と、快く引受けた。
「私はある死刑囚から世にも気の毒な物語を聞いたのです。独房にいるはずのその囚人から、同じく囚人である私が、どうして話を聞いたかという事は、どうぞ、お訊ね下さいますな。ただその物語りを先生に聞いて頂きさえすればよいのですから、――それで私の義務は終るのです。余計な事は一切省くことにいたしましょう」
「なに、要点だけを承わればよろしいんですよ」
「その死刑囚も、もう疾うの昔、発狂し、自殺を遂げてしまいました」と云って、尾越は少時瞑目した。やがて言葉をつぎ、
「その男を仮りに譲治とよびましょう。――その譲治は米国で生れましたが、両親には早く死別し、兄弟姉妹もなく、全くの独りぽッちでしたので、情のある宣教師に拾われて非常に愛され、やがて一緒に東京へ参り、譲治は学校へ入ったが、言葉もよく通じないし、西洋人の習慣が身についているので、友達になってくれる人もなかった。彼はいつでも淋しく校庭の隅っこに小さくなっていたのです。それを気の毒に思ったのか、上級生の中で一人、大変親切に世話をしくれる人がありました。間もなく二人は兄弟のように仲好くなりました」と云いながら、彼はマッチをすって、バットに火をつけ、
「友人というものを始めて持った譲治は実に有頂天でした。何でもかでも親友に打ち開けて相談する、という風でした。何年か経つうちに宣教師は亡くなり、その遺言によって、莫大な遺産が彼の懐中に転がり込みました」
「西洋人にはよくそういうことがありますのねえ」
「宣教師が亡くなってみると、大きな家に一人でいるのも淋しいからと云って、親友は知り合いのある未亡人の家を紹介してくれました。譲治は家族同様の待遇という約束でその家に移ることになったのです。そこから通学を始め、親友は始終訪ねて来て何かと世話をやいてくれました。末亡人には冬子という大変美しい娘があって、譲治はその娘に熱烈な恋をささやくようになりました。親友はそれを聞いて苦い顔をし、度々忠告したものです。冬子は不良だから断念めろ、将来ある君の妻にあんな女は相応しくないよ、第一貧乏人の娘じゃないか、などと云って、ひどくけなしていました。しかし、彼はどうしても思い切れないので、親友のとめるのもきかないで求婚しました。未亡人は非常に喜んだが、肝心の相手ははっきりとした返事をしなかったのです。が、遂に二人は結婚しました。冬子はともかくも、譲治は幸福でした。翌年には可愛女児も生れた、親友はまるで家族の一人であるように入り浸っていたものです。が、どういうものか、冬子は彼を好まなかったようで、それだけがいつも譲治の心を暗くさせていました。夫の親友なら、妻も親しんでくれればよいが、と、思っていたのです」
「よほど純情な男なのですね」
「夢のように七八年過ぎました。冬子は従兄に仙ちゃんという若い船員があって、航海から帰る度に土産物などを持って訪ねて来る。二人は幼少の頃同じ家で育ったとかで、まるで兄と妹のような睦じさです。従兄同志というものの親しさを、譲治は美しい眼で見て喜んでいましたが、親友は早くも二人の間に疑いを抱き、しばしば警告を与えるのです。妻の心を少しも疑っていない彼も、まのあたり見るような話を余り度々聞かされるので、あるいは? という気がしはじめたのです」
「無二の親友の言葉だけに、一層信じるでしょう」
「さあ、それからというものは、以前のような穏かな眼で二人を見ることは出来なくなりました。でもまだまだ半信半疑だったのですが、親友が歯がゆがって、一度証拠を見せてやろう、それほど僕の言葉が信じられないなら――、と云いました。見せてくれ、と彼も頼みました。見せてやってもいいが、君興奮すると危ぶないナ、と妙な笑い方をした。譲治は憤然として、もし事実でなかったら許さんよ、と云いました。親友は再び笑いました」と云いかけた時、応接室の置時計がふいに二時を打った。尾越はちょっと振り返って時計を見たが、また語をつぎ、
「するとクラス会の夜、出席している譲治のところへ慌しく親友が迎えに来ました。一緒に家へ帰ってみるとなるほど、奥の離室の方から賑かな楽しそうな笑声が聞えています。従兄の仙ちゃんが来ているんです。親友の思いつきで、次の間の戸棚の中にかくれて様子を見ていることになりました」
「女の子はその時どこにいたのです?」
「仙ちゃんの膝に腰かけて、チョコレートを食べていました。三味線を聞かせてよ、と仙ちゃんが云います。冬子は戸棚から三味線を出して調子を合せ、今日は何をやりましょう。と云う。思いなしか仙ちゃんは熱っぽい声で袈裟御前が首を落されるあれ、何とか云ったなと云うと、鳥羽の恋塚よ、と冬子は朗らに笑いました。妻は幼少の頃から長唄を習い、相当自信があるようでしたが、譲治はオルガンは好きだが、三味線は嫌いだったので決して弾くな、と言い渡してあったのです。その代りにグランドピアノの立派なものを買ってやったのです」
「それじゃ譲治さんがほんとに冬子さんを愛していたものとは思われませんね。少し思いやりがなさ過ぎる、自分の思うままにしようとするような男を、女は愛すでしょうか」と洋子はちょっと首を傾げた。尾越も同意するように微笑した。
「とにかく、譲治は自分の禁じていた三味線を弾いているという事からして腹が立った。しばらくすると、冬子は澄んでいい声で唄い出しました。
『さるほどに遠藤武者盛遠は、春も弥生の始めつかた霞がくれの花よりも、床しき君の面影を、見初めし緑のはし供養、あけくれ絶えぬおもい川、恋わたる身はうつつなや――』
そこまで進むと、突然、仙ちゃんが感傷的な声で、僕ね、明日また航海に出るんだ、冬ちゃんの鳥羽の恋塚を吹き込んでもらおうと思ってレコードを持ってきたよ。君の声が聞きたかったらこのレコードをききます。と云いました。冬子の声は低くてよく聞えなかったが、譲治は何となく息苦しくなり、生汗がじとじと渉んできました。が、親友がしっかりと手を押えているので、戸棚から出ることも出来ません。隙見しているのではっきりとは見えませんが、どうやら仙ちゃんと冬子の手が時々触れ合ったりするような気がして、彼はもうじっとしてはいられなくなったんです」と云って、尾越は自分の事ででもあるように、大きな溜息を吐いて、
「やがて、隣の部屋にレコード吹込みの仕度が出来、女の子はその方へ行きました。三味線を弾いている冬子の半身が見えているぎりで、仙ちゃんの姿は見えない。親友は譲治の体をちょいちょい突いて、ソラ、見ろ、どうだ? なんてささやきます、が、譲治には何も見えません。親友は彼以上に夢中になっているようでした」ちょっと言葉を断り、軽い咳をしていたが、また話しだした。
「ところが、仙ちゃんが起ち上ったらしい気配がしたと思うと、同時に妻の肩へ彼の手がかかったのを見たのです。譲治はくらくらと眩暈を感じました。彼の熱い血はぐんぐん頭へ昇り、すっかり思慮を失って、親友の止めるのを振り切って、ふらふらと戸棚から出たものです。余り唐突に姿を現わしたので、冬子は愕き、あれッ! と叫んで仙ちゃんに縋りついた。もう駄目です。譲治は前後を忘れて飛びかかった。すると、どういうわけか、パッと電燈が消え、室内は真暗になりました。その途端に刃物が彼の手に渡された――、と感じました。あるいは偶然そこに置いてあった刃物を掴んだのかも知れませんが――、とにかく、刃物を握ると同時に逆上した」話している尾越の眼も、何となく殺気を帯びて来た。
「譲治は短刀を振り廻わして、無茶苦茶に暴れ廻ったが、さっぱり手答えがない、血迷っているので、柱に打つかったり、襖を突破ったりしているうちに突然、妻が悲鳴を上げたので、一層物狂おしくなりました。アッ。あなた、助けて――、あれッ、と叫ぶ冬子の声に混って、やったな! と恐しい声、それと共にどたりと倒れる重そうな響きを聞きました。譲治は気狂いのようになって、やたらに短刀を振り廻した。助けて――あなた、武さんを押えてよ――。と声を限りに救いを求める妻の声も、混乱している譲治には何も分らなかったのです。やがて彼はへとへとに疲れて、その場に倒れてしまいました。誰が急報したものか、ドカドカと警官が入って来て、難なく譲治は捕えられたのです。仙ちゃんも冬子も、もうその時には息が絶えていました」
「女の子は助かったのですね?」
「女の子は夢中で――、大切なものと思ってそのレコードを抱え、奥へ逃げてしまったのです」