夏すがた

1話 一

3,166字 約6分 2022年7月19日 公開

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 日頃懇意の仲買にすすめられて云わば義理ずくで半口(はんくち)乗った地所の売買が意外の大当り、慶三(けいぞう)はその儲(もうけ)の半分で手堅い会社の株券を買い、残る半分で馴染の芸者を引かした。

 慶三は古くから小川町辺に名を知られた唐物屋(とうぶつや)の二代目の主人、年はもう四十に近い。商業学校の出身で父の生きていた時分には家にばかり居るよりも少しは世間を見るが肝腎と一時横浜の外国商館へ月給の多寡を問わず実地の見習にと使われていた事もある。そのせいか今だに処嫌(ところきら)わず西洋料理の通を振廻し、二言目には英語の会話を鼻にかけるハイカラであるが、酒もさしては呑まず、遊びも大一座で景気よく騒ぐよりは、こっそり一人で不見転(みずてん)買いでもする方が結句物費(ものい)りが少く世間の体裁もよいと云う流義。万事甚(はなは)だ抜目のない当世風の男であった。

 されば芸者を引かして妾(めかけ)にするというのも、慶三は自分の女が見掛こそ二十一、二のハイカラ風で売っているが、実はもう二十四、五の年増で、三、四年も「分け」で稼いでいる事を知っている処から、さしたる借金があるというでもあるまい。それ故(ゆえ)遊ぶ度々の玉祝儀(ぎょくしゅうぎ)待合の席料から盆暮の物入(ものいり)までを算盤(そろばん)にかけて見て、この先何箇月間の勘定を一時に支払うと見れば、先(まず)は月幾分(いくぶ)の利金を捨てる位のもので大した損はあるまいと立派にバランスを取って見た上、さて表立っての落籍なぞは世間の聞えを憚(はばか)るからと待合の内儀(ないぎ)にも極内(ごくない)で、万事当人同志の対談に、物入なしの親元身受と話をつけたのであった。

 そこで慶三が買馴染の芸者、その名千代香(ちよか)は女学生か看護婦の引越同様、わけもなく表の車屋を呼んで来て、柳行李(やなぎごうり)に風呂敷包、それに鏡台一つを人力(じんりき)に積ませ、多年稼いでいた下谷のお化横町(ばけよこちょう)から一先(ひとまず)小石川餌差町(えさしまち)辺の親元へ立退く。直(す)ぐその足で午後の二時をば前からの約束通り、富坂下(とみざかした)春日町(かすがまち)の電車乗換場で慶三と待合せ、早速二人して妾宅をさがして歩くという運びになった。

 五月初めの晴れた日である。慶三は大島の初袷(はつあわせ)に節糸(ふしいと)の羽織を重ね、電車を待つ振(ふり)で時間通りに四辻の乗換場に彳(たたず)み三田行と書いた電車の留まる度、そこから降来(おりく)る人をば一人一人一生懸命に見張っていた。すると千代香は定めの時間よりは十分とは遅れず、軈(やが)て停車する電車の車掌台へと込合う乗客に混って、押しつ押されつしながら立現われた。これも大島の荒い絣(かすり)に繻子入(しゅすいり)お召(めし)の半ゴートを重ね、髪を女優風に真中から割っていた。千代香は車掌台の上から早くも路傍に立っている慶三の姿を見付けた様子で、此方(こなた)を見ながらにこにこ嬉しそうに笑いながら車を下りるや否(いな)や、打水(うちみず)のしてある線路の敷石をば、蹴出(けだ)しの間から白い脛(はぎ)を見せるまでにぱっと大股にまたいで、慶三の傍にスタスタと歩み寄り、腕先に金鎖(きんくさり)で結びつけた時計をば鳥渡(ちょっと)かざして見せながら、

「そんなに待ちやァしないでしょ。随分いそいだのよ」と云いながら、今更のように慶三の顔を見て「羽織の襟が折れていない事よ。あなたの内儀(おかみ)さんは実(じつ)がないね。」

「その代り何にも御存じなしさ。結句無事だ。」と慶三は自分で羽織の襟を直す。

「全くね。」と女は手にした傘をさし、「どっちへ行きましょう。きめて頂戴よ。」

「どこがよかろう。お前あてがあるか。」

「そうね、神田辺はあんまりお店に近いし、本郷の方もぞっとしないわね。」

「行先がきまらなくっちゃ電車にも乗れない。まアぶらぶら歩きながら話そうじゃないか。」

 二人は砲兵工廠(こうしょう)の赤煉瓦塀に添うて足の向くまま富坂を小石川の方へと上って行った。

「これから夏向(なつむき)にゃ山の手も悪かアあるまい。」

「そうねえ、なまじっか町よりか静かでいいかも知れないわ。」

「白山(はくさん)に芸者家が出来たって云う咄(はな)しだがあの辺はどうだ。矢張(やっぱり)芸者家のある土地の方が仕出屋(しだしや)や何かの便利がきくからね。」

「内々(ないない)で浮気も出来ますしね。」

「何を云うんだい。」

「それだって聊(いささ)か心配だわ。人情ですもの。」

 慶三はいかにも満足らしくはははと笑ったが、千代香は坂をまだ半分とは上らぬ中(うち)に突然、

「あなた。もう歩けないわ。私。」と鼻をならして、「手でも曳いて頂戴なねえ、不実よ。」と突如(いきなり)懐手(ふところで)して歩いている慶三の袖口へ手を入れた。

 慶三は真昼間(まっぴるま)の往来とて、少し面喰(めんくら)って四辺(あたり)をきょろきょろ見廻したが、坂地の道路が広いだけに、通行の人は誰も気のつくものがないらしいので大きに安心して、じっと袖の中で千代香の手を握りながら、

「真直(まっすぐ)に行けば伝通院前だが、あの辺じゃ家をさがしたって仕様がないから、電車に乗って江戸川か牛込辺まで出て見よう。」

 二人は大曲(おおまがり)で下りた後江戸川端から足の向く方の横町へとぶらぶら曲って行ったが、する中にいつか築土(つくど)明神下の広い通へ出た。鳥居前の電車道を横ぎると向うの細い横町の角に待合の燈(あかり)が三ツも四ツも一束になって立っているのが見えて、その辺に立並んだ新しい二階家の様子なぞ、どうやら頃合な妾宅向(むき)の貸家がありそうに思われた。土地の芸者が浴衣(ゆかた)を重ねた素肌の袷に袢纏(はんてん)を引掛けてぶらぶら歩いている。中には島田をがっくりさせ細帯のままで小走(こばしり)にお湯へ行くものもあった。箱屋らしい男も通る。稽古三味線も聞える。互に手を引合った二人は自然と広い表通よりもこの横町の方へ歩みを移したが、すると別に相談をきめたわけでもないのに、二人とも、今は熱心にこの土地の貸家札(かしやふだ)に目をつけ始めた。

 神楽坂(かぐらざか)の大通を挟んでその左右に幾筋となく入乱(いりみだ)れている横町という横町、露路という露路をば大方歩き廻ってしまったので、二人は足の痛むほどすっかり疲れてしまったが、しかしそのかいあって、二人は毘沙門(びしゃもん)様の裏門前から奥深く曲って行く横町の唯(と)ある片側に当って、その入口は左右から建込む待合の竹垣にかくされた極く静な人目にかからぬ露地の突当りに、またとない誂向(あつらえむき)の二階家をさがし当てた。表の戸袋へ斜(ななめ)に張った貸家札の書出しで差配はすぐ筋向(すじむこう)の待合松風と知れている処から、その家の小女を案内に一応内(うち)の間取を一覧し、早速手付金を置いて契約を済ました。その時千代香が便所(はばかり)を借りにと松風の座敷へ上ったが、すると二人は何しろ疲れきっているので、もう何処(どこ)へも行く元気がなくその儘(まま)この松風の奥二階へ蒲団を敷いて貰うことにした。

 裏窓を閉めた雨戸一枚に時ならぬ宵闇(よいやみ)をつくった四畳半の一間、二人が昼寝の枕元にぱっと夕方の電燈がつく時、女中がお風呂はいかがで御座いますと知らせに来る。二人は共々に帯もしめぬ貸浴衣の寝衣(ねまき)のまま、勝手の庭先へと後から建増したらしい狭い湯殿へ下り、一人やっと入れる程な小さな浴槽(ゆぶね)の中へと無理やりに、二人一緒に裸身(はだみ)を抱合せるように押入れた。慶三は箱根に行こうが塩原に行こうが到底(とても)こんな好(い)い心持のお湯へは入れまいと思った。何(な)にしろ半日ほど歩いて能(よ)く運動した後、女と一緒にぐっすり一寝入してその汗ばんだ身体(からだ)を湯の中へつけた時には、五体の節々のみか生命(いのち)も共に延び延びしたようで、慶三は幸福と云おうか愉快と云おうか、ただもう夢のような気がした。それから二階へ上って来るとぐうぐういう程腹のすいた処へ晩餐の熱燗。これがまた何(ど)うも云いようのない味を覚えさせるので、彼は女房や子供の事また店の事までその瞬間は全く忘れてしまって、心の中にはこれから先毎晩こういう風に千代香を囲者(かこいもの)にしてからの楽しさのみが、却(かえっ)て切ないほど果てしもなく想像されるのであった。慶三は二、三杯熱いのを続けざまに引掛けると、既に恍惚たる精神は更に淘々然(とうとうぜん)とし、入湯して柔かくなった身体は足の指手の指の先まで何処ということなく一体にむず痒(がゆ)いように慾情の震動を伝え出すので、到底(とても)慶三は妾宅へ引移(ひきこし)の準備が出来るまで、このままぼんやり待っては居られないような気がした。彼は待合の内儀を呼上げ妾宅で使う女中の周旋を頼むのみか、万事新世帯に入用な品物を買入れる事まで何くれとなく依頼したのであった。

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