蛇性の執念

3話

3,846字 約8分 2012年12月19日 公開

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 私が綾子さんを訪問したのは、お梶さんに会った翌日の午後でした。

 その日武雄さんは不在でした。御木井合名会社の重役会議に出かけたとやらで、思いがけず綾子さんと二人ぎりで話せる機会が出来たのを、大変嬉しく思いました。綾子さんも同じ心持だったのでしょうか、応接室(おうせつま)へは通さず、見馴れた懐しい彼女の居間に案内させてくれたのがまた私には嬉しゅうございました。

 半年ばかり会わなかった間に、綾子さんは見違えるほど面瘻(おもやつ)れして、大きな眼がますます大きく、ふっくりしていた頬の肉もすっかり落ちて、何となく老けました。美しい人の疲れたのはまた風情のあるものですが、ダリヤのように濃艶だった綾子さんが、まるで夕闇に浅黄桜を仰ぎ見るような物寂しさに変っては、風情があるなどと云ってはいられません。最初病気かなと思いましたが、そうでもなさそうです。しかしどうにも新婚の人らしくは見えません、晴れやかさもなければ、元気もない。ただ淋しい陰に全身を包まれ、浮き立たない頬に強いてほほ笑みを見せているのを見ると、私までが引き入れられて、気が滅入ってしまうような感じがいたします。陰気な花嫁さんだと思わず心でつぶやきました。

 綾子さんは口数も少なく、島田に結った小間使がお茶を運んだり、お菓子を持って来たりするのを眺めていましたが、

『ベルを押すまで、誰も来ないでおくれ』

 と云って小間使を退けてしまいました。さて二人ぎりになると急に態度が変って、綾子さんは自分の感情を率直にあらわして、やる瀬ない悲しさを訴えはじめるのでした。私はお祝いを述べるより先に、慰めの言葉を探すのに、骨を折らなければなりませんでした。

『実は綾子さん、昨日偶然に電車の中でお梶さんに会いましてね、あなたのお噂もお聞きしたんですの、ほんとにお察しいたして居ますわ』

 それだけの言葉を聞いてさえ、綾子さんの目はもう涙に湿っていました、お目出度うございますと祝ってくれる人はあっても、お気の毒だと慰めてくれる人のない、綾子さんの境遇に、心から同情せずにはいられませんでした。

 綾子さんは私の手を握って、出しぬけにこんな事をいい出すのでした。

『先生、私の家へお引越して入らして下さらない?』

『?』

『御一緒に私と暮らして下さいません? 昔のように――。私の傍にいて下さらない? もう寂しくって、寂しくって――』

 私は返辞が出来ませんでした。

『先生はアパートお好きじゃないでしょう? 殺風景だけれど仕方がないと仰しゃったのよく覚えて居ますわ。どの部屋でも、先生のお好きな部屋お使い下すって、私の家から事務所へお通いになったらいいわ。ねえ先生そうして下さらない?』

『ええ、有難うございますが――。でも、もう直きにお梶さんが戻って来るでしょうから』

『ねえ先生、あなたは何もかもようく御存じですから申上げますが、何故武雄なんかと結婚したのかと迚も後悔しているんですのよ、あんな嫌いな人と――。あんな厭な武雄と――』

『分ってますよ。でも今更そんな事は仰しゃらない方がようございますよ』

『政略結婚! 親の犠牲になったのですわ。でも一番悪いのは私です。私の意志が弱かったからこそ、こんな悲しいことになってしまったんです。意気地なしだからです。馬鹿だからです』

 綾子さんはハンケチを歯で破きながらいい続けます。

『ああそれにつけても文夫さえ自殺してくれなかったら――。何故文夫は死んだんでしょう? 先生、私はその原因が知りたいんです。真実(ほんと)のことがね、死ななければならない事情があるなら、私にだけは話してくれてもよかったと思いますわ。黙って独りで死ぬなんて――。それをどんなに口惜しく思っているか、先生、私の気持お分りになりますでしょう?』

 綾子さんは段々興奮して声が大きくなるので、それを押し静めようとして、

『誰か来ましたよ。綾子さん、人に聞えるといけないから』

 私はとっさに思いついて、そんなでたらめを云い、耳を(そばだ)てたんです。すると綾子さんは涙を拭きながら立ち上って、

『武雄が帰ったのかも知れません。あの人ほんとに猜疑心が強いのよ』

 綾子さんは襖を開けて廊下を見ましたが、誰もいないのでまたもとの席に戻ってまいりました。

『そんなにお厭だったんなら、武雄さんと御結婚なさらなけりゃよかったんですわね。文夫さんの未亡人でお通しになればよかったのに――』

『それが出来る位なら何も――』

 綾子さんは半分口の中で云いながら、急にすすり上げて泣きはじめました。うっかりと云った私の言葉は、綾子さんの最も痛い処を突いたんです。飛んだことを云ったと思って後悔いたしました。

 ながい間泣き続けていた綾子さんは何か心に決しでもしたように、軈てきっと顔を上げて申しました。

『先生も私が武雄と結婚したのを不愉快に思ってらっしゃるんでしょうね。私自身でさえこんなに不愉快に思う位なんですから』

『でも仕方のない事なんでしょう。そうなさるより途がなかったとしたら、それに武雄さんは昔から貴女がお好きだったのね、ほんとは文夫さんから奪っても、御自分のものになさりたかったんでしょう?』

 綾子さんはそれには答えないで、じいっと何か考え込んでいましたが、

『私、先生にどうしても聞いて頂きたいことがございますの、でもそれは他人の耳に入ると、ちょっと困ることなんですし、どうぞ、どなたにも仰しゃらないで下さいませ』

 綾子さんはしきりに他言しないでくれと繰り返し繰り返し云ってから話しました。

『どうしても信じられない事なんですが、文夫を自殺させた罪は私と武雄にあるということを聞いたんですの』

『誰がそんな事を申しました? 武雄さんじゃありませんか?』

『そうですの、武雄が申しました。文夫は私と武雄との間に恋愛関係があるものと思い込み、それを訊きただしもしないで、独りで煩悶していたんですって、それこそ全くの誤解でしたが、ああいう善良な人だったものですから、自分独りの胸に秘めてただ苦しみぬいた揚句、私や武雄を幸福にさせるために自殺したんだと申しますの、そんな馬鹿々々しい事と最初は気にもかけなかったんですけれど、段々考えてみますと、満更武雄のでたらめばかりでもなさそうな節もございますの。文夫の日記を見ても、何か煩悶があったのは事実でございます。それが私の事に関してだかどうかは分りませんけれども、また武雄はこんな事も申しましたの。私と武雄は深い関係があるのだと、結婚直後に何人(なんぴと)かが文夫に密告したそうですの、私も見ましたが、文夫の本箱から出たという差出人無名の手紙にもそんな事が書いてございました。死ぬ前日文夫が武雄に申したそうです、僕に万一の事があった場合、綾子の事は君に頼むよ、と冗談のように云ったのが、今になると遺言のような気がして責任を感じると申しました。でも先生はどうお考えになりまして? それが事実だとしますと、一言も云わずに死んで行った文夫の心持も分るような気もしますけれど――』

『それで武雄さんはお兄様からあなたの将来を頼まれたから、あなたを保護するためにも結婚しなければならないと仰しゃるんでしょう?』

『ええ、兄の遺志でもあるから、と申して度々私に迫りましたの、その度毎に私はこの家を逃げ出してしまうかと思いましたんですけれど、御存じの通り行く処もないし、それにもう一つこの家をどうしても離れられなかった理由がありましたの』

『このお家を離れては文夫さんにすまないとお思いになったの?』

『いいえ、全然違います』

『ではどんな理由?』

『先生はどうお思いになりまして? 文夫と武雄と似て居ますか?』

『さあ、私はちっとも似ていらっしゃらない、御兄弟のようじゃないと思いますけれども――。御性質だって、御風采だってまるで反対じゃありませんか』

『そうでしょう、皆様が兄弟とは思えないと仰しゃいます。処がね、不思議なことには一時私の目にはとても似ているように見えましたのよ。ちょいとした表情や動作などに懐しい文夫の面影を見ることがあったんでございますの。またよく見直しますとちっとも似た処のない、醜い武雄の顔になってしまいます、文夫は死にはしないんだと、ふと私は思いました。この家のどこかにいて私を守っててくれるんだ、という気がしたんですの、それでこの家を離れることも、武雄の傍を離れることも出来なかったんです。淋しかったんですわ。それが私と武雄と結婚させてしまうような原因となったんですの、でも妙じゃございませんか。ほんとに妙なお話ですが、結婚して後は、今までただ嫌いだった武雄が、今度は憎くさえなってきましたの、嫌いな人でも結婚すれば、そこにまた新らしい愛情が湧くように申す人もありますが、あれは嘘でございますわ、私のような場合から考えますとね、いまでは武雄を敵のように憎みます、憎くって、憎くってたまりませんの。その反対に文夫に対する愛情は益々深くなって、恋しくてたまりません。でも悲しいことにはこの頃は、もう武雄のどこからも、文夫の面影を見出すことは出来なくなりました。まぼろしは結婚と同時に消えてしまったんでございます。きっと文夫も私に対して快からず思っているのじゃないかと思います。たとえ武雄の計略にのったのだといっても私はまあ何という軽卒な真似をしてしまったんでしょう、今更取り返しはつきませんが、考えると口惜しいやら、情ないやら、自分で自分に愛想がつきてしまいます』

 綾子さんはさめざめと泣くのでした。

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