深夜の市長

10話 10」は縦中横][#「10

4,476字 約9分 2010年11月15日 公開

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 目黒の薄暗い鉄橋の上で、僕は暫く夜気(やき)を湯あみした。

「ああーッ。……」

 腕をウーンと上の方へ伸ばし、強い深呼吸をくりかえした。なんだか急に、背中から自由の翼が生え伸びたような気がした。僕にはどうも人から圧迫を感ずると、直ぐに耐え切れなくなる。身勝手かもしれないが、持って生れた性分だから、どうにも仕方がない。独りがいい。独りで気儘に動いているのが一番いい。

 薄ら寒い早春の夜気が、鉄橋の下のレールの上から吹き上ってきて、ひしひしと背中に浸みだした。僕はオーヴァの襟を立てて頸を包み、それから忘れていた煙草をポケットから一本抜きだして口に銜えた。火を点けようと燐寸(マッチ)を探すと生憎どのポケットにも入っていない。そうなると、余計に煙草が喫みたくて、絶え切れなくなった。この辺で燐寸を得るには、駅の前に行き、そこの売店へ一銭銅貨を献じるより外に手がない。僕は舌打をして、忌々しい一歩を踏みだそうとしたとき、

「モシ、……」

 と、小さい声が僕を呼びとめた。それはすこし震えを帯びた優しい女性の声だった。

「えッ。……」

 と、僕は驚いて、声のする方を振りかえった。すると、そこには背のスラリと高い立派な毛皮の外套を着た素晴らしい美少女が立っていて、青白い顔の下半分を、革手袋を嵌めた手で隠しながら、オズオズとした眼つきで僕の方を見つめているのだった。

「ああ、僕のことですか。……」

「……燐寸(マッチ)をお使い遊ばせな」

 と、彼女は鶯みたいな声を出してそういうと、つと右手をのばして、革手袋の中の四角な燐寸箱を僕の前に見せた。

「ああ、これは済みません。……」

 僕は燐寸を貸してくれる少女の気持を計りかねながら、その燐寸箱をうけとった。そのとき、彼女の毛皮の外套の合わせ目のところから、プーンと香りのいい化粧料の匂いが流れてきた。僕は思わずその襟の合わせ目を覗きこんだが、温かそうな毛皮の奥に、クリームのような真白な肌がすこしばかり見えて、その下に緑色のドレスがふっくらした襞績目(ひだめ)をつくって、下に悩ましい曲線を隠していることを囁いていた。

 ――僕のいつも引張りこまれる渦巻はこれだ!

 僕は両眼をピタリと閉じて、頭を振った。

「どうも有難うございました、お嬢さん」

 そういって僕は燐寸を少女に返した。

「いいえ、……お役に立つことがあったら、何なりといたしますわ。ホホホホ」

 ――え?

 と訝る折しも、何を思ったか洋装の少女はつと僕に近づいて、腕を捉えた。そして僕の耳許に早口で囁いた。

「え、お願いですわ。暫くあたくしのいう言葉に辻褄を合わしていて下さいませネ。あたくし、生死の境に立っているんですもの……」

 不意に掛けられた怪しい歎願の言葉が終るか終らないうち、背後でガチャガチャと、警官の佩剣(はいけん)が鳴った。

「うむ。……」

 僕は呻った。背筋を氷のように冷たいものがサッと流れ過ぎた。――少女はこのとき、僕の腕を強く引張り、身体をダンサーのようにくねらせて見せ、

「ねえ、りゅうちゃん、帰りましょうよ。今から廻ると、とても遅くなってよ。あたし、またお父様に叱られるわ。お前が附いていながら、なぜ引張って帰らなかったといって……」

 警官は歩調をゆっくり落しながら、まじまじ僕たちを見守った。

「ねえ、りゅうちゃん、たら……」

ハナ子ッ。そこ離せ!」思わず妙なことを呶鳴ってしまったので、僕はプーッとふきだした。「……しょうがねえ。じゃ今夜はお前の説に服従して、素直に帰るとしよう。……」

「それがいいわ。これで、あたし、お父様に顔が立ちますわ」

 警官は行き過ぎながら、なおもこっちを振りかえって見ている。

「……じゃ、歩くのは面倒だ。円タクを(おご)ろう。オイ、円タク……。幽霊坂のところまで、三貫で行け」

 通りすがりの円タクが「旦那、三貫じゃあ」というのを抑えるようにして、

「いつも三貫に決めてあるんだ。ものの、五分間もかからないじゃないか。何だい、あまり慾張るない」

 じゃ、行きましょう――と、円タクの助手は扉をあけてくれた。僕はまず少女に先に乗れと合図し、彼女がステップに足をかけたとき、後からお尻を押してやった。そして自分も車内に飛びこんだ。――警官は棒のように突立って見送っていた。

 車内では、僕も少女も、まるで黙っていた。僕は少女の身体から発する恥かしいような、香気に()せびながらこの思いがけない連れを、これからどう取扱ったものかと思案をめぐらせた。

 幽霊坂の下で、僕たちは車をかえした。二人は人通りのない真暗な道路の上に残された。闇の中に少女は吐く息さえ停めて、ジッとしていた。

「お嬢さん、もうこの辺でお別れいたしますか」

「ええ、ありがとうございました。お蔭で助かりましたわ。……貴方(あなた)のお家、こんな淋しいところなんですの」

「いえ、飛んでもない。僕の家は、まるで方向違いですよ。もっとも昔この辺に下宿していたことがありましたのでね、咄嗟に思いついてこんなところへ車を命じたのです」

「まあ、そうなの。……どこかこの辺にホテルか何かございませんでしょうか」

「えッ、ホテルですか?」僕は、ハテナやっぱりそうかナと思った。

「……あたし、いま困っていますのよ。助けていただきたいの。簡単に取引させていただきたいのですけれど……」

「ああッ、分りました。……」

 僕はそれ以上に少女が云いだそうとする言葉を恐れた。これは一面に於て、素晴らしい幸運が転がってきたとも云える。しかしそれを幸運として受取ったものかどうか。とにかく僕は少女の腕を執って、歩きだした。苺園(いちごえん)ホテルというのが、この坂を登って向うへ下ったところにある筈だったから。

 ホテルでは万事心得て迎えてくれた。そして二階の奥まった洋室へ案内してくれた。そこには窓に二重のカーテンが掛って居り、下には幅の広いダブルベッドが置いてあった。

 少女はまず帽子を脱いだ。その下から、引き眉毛の、思いの外大人っぽい顔が現われた。十六、七歳かと思ったら、どうやら二十歳を二つ三つ越しているらしく、疲れている色はあったが、頸のあたりなどは脂ぎって円々(まるまる)していた。――女は続いて、立派な毛皮の外套の釦を外そうとした。僕はそれを見ると、慌てて停めた。

「アラ、あたし困るわ。心変りなすっては……」

「いえ、心変りなんかしませんよ。お役に立つつもりでいます」

「まあ、……あたし実は今夜が始めてなのですのよ。あまりお(いじ)めならないでネ。……」

 そういって女は、またもや外套の釦に手をかけた。

「まあ、待った……」

 女の当惑そうな顔を見ながら、僕はポケットから蟇口(がまぐち)を取出した。そしてそこに小さく折りたたんであった五円紙幣を摘み出すと、彼女の小さい掌の中に握らせた。

「取っておいて下さい。取引はそれで済みました。……」

「これでは、取引ではありません。」

「いいえ、取引になっています。僕は真夜中に、こんな素晴らしい天使を拾ったのですからねえ。だが今夜始めてだという話ですが、貴女(あなた)のような立派な風采をした方が、どうしてこんな商売を始めたんです。それを聞かして下さると、僕の方はお(あし)をさしあげるだけの材料を得たことになります」

「……あたしは性格破産者なのです。兄の家にいましたが、兄は馬鹿正直なくらい昔風な一徹な性質で、新しい生活様式に憧れる妹とは何ごとにつけても合うはずがありません。だからあたくしが兄の家を飛びだしたのは当り前でした」といって女は俄かに昂奮の色を示し、「……始めは自分の腕で、立派に独立してゆけるつもりでした。少くとも最初のうちはあたくしの思ったとおりでした。あたしは外国人の商館で、タイピストになって働きました。家出をしたことを知ったお友達――女友達も男友達も――みな万歳を云ってくれましたの。あたくしはたいへんな人気者だったのです。その素晴らしい人気が、あたくしをウンと幸福の雲の峰へ担ぎあげてくれると信じていたのです。しかしそれは大変な思い違いでした。あたくしは全く反対の夢を見ていたのです。兄と喧嘩をして出たあたくしですが、貞操のことについては、伝統といえるでしょうが堅い観念をもっていたあたくしでした。それがいけなかったのです。男のお友達にも、それから女のお友達にも、だんだん軽蔑されてきました。そして遂にあたくしは分らず屋で異端者のように嘲笑されて来たのです。あたくしはとうとう職業まで失ってしまいました。別の職業につこうとしましたが、如何にも給料が安いので、昔、商館にいて貰っていた給料が、或る約束をも籠めてある法外なものだとは、やっと後になって気がついたのです。そういう豪奢な生活に慣れ切ってしまった(わたし)ですもの、一ヶ月働いて三十円や四十円の給料を得る安い職業なんかに、どうして就けるものですか。だがどうかして食べるだけのお金を得なければならない。そうかといってこの高価な毛皮の外套に別れることなんか、どうして出来ましょう。この外套は現在あたくし自身を価値づけている最大の恩人なんです。蒸暑い夏が来たって、あたくしはこの毛皮の外套を脱ぎはしないでしょう」

 女はそういって、肩をふるわせて泣きじゃくった。

「兄さんのところへ帰ったらどうです。兄さんはきっといい人ですよ」と僕はソッと言葉をんだ。

「兄ですって?」女は涙に濡らした凄艶な顔を起して叫んだ。

「兄がどうしてあたくしを迎えてくれるものですか。それが出来るくらいなら、あたくしは……あたくしは……なにも淫売女になんか成り下ることはなかったのです」

 女はもう前後を忘れて、激しい嗚咽と共に、ダブルベッドの上に獅噛みついた。僕はつい誘われて悲嘆する女を抱きしめたい衝動に駆られてくるのを、努めて払いながら、

「……じゃ僕にお委せなさい。僕が兄さんに会って、よく相談してみましょう。きっとうまくやりますよ。ね、ハナ子さん……でしたかネ」

 僕が不用意に放った失言が、女にとって時の氏神のユーモアであったのだろうか、彼女は泣くのをピタリと停めた。

「あたくしの名はマスミでございます」

「ああ、マスミさん。たいへんいいお名前ですね。ところで、兄さんのお名前と住所とを教えて下さい」

 マスミはやっと泣くのをやめて、こっちへ顔を向けた。

貴方(あなた)、ほんとうにそうして下さる。あたくし心からお願いするわ。兄の名は、四ツ木鶴吉というのです。住所はどこへ越していったのか、もう分らないのですけど、兄が勤めているところが分っていますから、そこへ行って尋ねて下さいな」

「勤め先というと……?」

「兄は動坂三郎という市会議員のところで働いているのです。ずいぶん古くから、動坂さんのために粉骨砕身して仕えています。……」

「ナニ動坂三郎?」

「アラ、動坂さんを御存知なんですの」

「知っているというほどではありませんがネ……」

 といったが、このとき僕はいまT市会に断然勢力を有する議長候補の動坂三郎の名が、図らずも、怪しいホテルに同室する闇の女の口から出たので驚いた。そして今宵「深夜の市長」の土窟の近くで見た達磨のようにでっぷり肥ったその立派な風采を思い出した。

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