深夜の市長

15話 15」は縦中横][#「15

4,825字 約10分 2010年11月15日 公開

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 僕は、日がとっぷり暮れるのを待って、役所の門を出た。僕の傍には、まるで狗ころを引張っているような塩梅式に、怪児絹坊が纏わりついていた。彼女は守衛の前をとおるとき僕のズボンを千切れんばかりにシッカリ抑えていたが、昼間よりはたしかに元気になっていた。しかし相変らず剛情に口を(つぐ)んでいて、何をされたって一言も口を開こうとはしなかった。全く妙な子供である。一体お照は誰と契ってこんな怪児を産んだのだろう。

 あの午近い、日比谷公園の花壇で、マスミからこの子供を押しつけられたときには、全く弱った。こんな子供を連れて昼日中歩いてもいられもしないので何処か預けるところはないかと考えた。その揚句、幸いにも近くの丸の内十三号館の中庭に街の科学者速見(はやみ)輪太郎の住んでいる高い塔があったので、あそこなら陽の光の差さぬところもあろうし、速水もお照の子は知っているので、彼女を預ってくれるだろうと思った。そこで通りかかった円タクを呼びとめると、地面に獅噛みついて離れようともしない絹坊を、無理やりに抱き上げて車の中に入れ、丸の内十三号館まで行ったのである。

 僕は受付に名刺を出して、速水氏に会いたいというと、受付氏は怪訝な面持をして、そんな人は知らぬと云った。僕は彼がわざと白っぱくれているのだと思ったので、先日その高塔実験室を訪問した次第を説明して、ぜひに会わせてくれ、決して迷惑はかけないからと云った。すると受付氏はいよいよ変な顔をして、それは何かの間違いにちがいないと云い張った。あまり頑固に否定するので、僕はムカムカとして来た。ではともかくも十三号館の中庭へ案内しろと云うと、僕は当惑するかと思いの外、ええようございます、どうぞよく見て下さいというのである。

 その口ぶりがいかにも自信にみちているので、僕はすこし気持がわるくなったが、なに行けば分ることだと思い、案内を頼んだ。

 その結果はと云えば、あのくらい愕いたことは近来になかった。全く狐に化かされたとは、こんなことをいうのだろう。見覚えのある廊下を通り、これも見覚えのある硝子戸を押して中庭へ案内されたが、その中庭には確かに建っていなければならぬ筈の輪太郎の高塔が、影も形もないのだった。その中庭は光沢のある緑の芝生をもって蔽われ、ところどころにさまざまの形をした花壇が出来て居り、作り物ならぬ天然の芳香を持つ春の草花が美しく咲き並んでいた。僕は言葉もなく呆然とその場に立ち尽したのだった。

 ひょっとすると、僕は戸口を間違えたのではないかと思ったので、再び廊下にとってかえし、長い廻廊をグルグル廻ってみたが、どの戸口からも先刻下り立ったイギリス風の花壇が見えるばかりで、探している塔の影さえ見当らなかった。もしやこれと同じ中庭が、他にもあるのではないかと、それも調べたが、庭はここ一個所であった。

 僕は再び中庭の花壇に立った。あのような立派な高塔が一夜のうちに、煙のように消失するわけがない。あの塔が消えてなくなれば、速水輪太郎はどうなるのだろうか。あれも遂に蜃気楼中の幻影の人物だったろうか。いやいやそんなはずはない。

 僕はこの不思議な矛盾を、矛盾でなく合理的に説明するために或る一つの大胆な仮説を立てた。その結果、僕は意を決するところがあって、足もとの芝草を一掴み引抜いた。それから僕はまた場所を変えてまた一掴みの芝草を引抜いた。そしてこの二つの芝草の(つよ)さを仔細に調べてみたのだった。僕はそれを幾度も続けていった。その結果、遂に一つの結論に達した。それは――およそこの芝草には柔剛二種のものがあること、それから中央に円形をなした部分の芝草は特に剛くなっていること――この二つの事実を発見したのだった。僕は仮りに立てた大胆な仮説が、この二つの事実からして当らずとも遠からずという程度なのを知って胸をときめかした。この上は時間の廻ってくるのを待つばかりだ。……

 僕は丸の内十三号館を辞して、そこに待たせてあった円タクに乗った。変り者の絹坊は座席を滑り落ちて、靴の載るところにあいかわらず石亀のように小さくなって伏臥(うっぷ)していた。僕は頼みに思う速水輪太郎にも会えなかったので、とうとう心を定めて、絹坊を役所へ伴っていった。そして彼女を地下室にある留置場に抛りこんだ。留置場は白昼であっても陽の目が見えなかった。こうして彼女を陽の光から隠すことが、彼女に安全感を与えるだろうと思ったからだった。果して彼女はあたりを見廻しながらイソイソと這入りこんだ。太陽に反いた児! 絹坊はなぜそんなに陽の光を嫌うようになったのだろうか。この子供はいつも母親に連れられて夜毎夜毎を遅くまで酒場などに暮していた。自然睡りにつくのもかなり遅くなり、結局太陽が顔を出している間は、酔いの勢いで前後の正体もない母親とともに寝床の中で抱き合って睡っているか、さもなくば雨戸を深く閉ざした真暗な家の中で、ただ独りままごとなどをして遊んでいるのだろう。そんなことがこの子を太陽の光から背かせることになり、随って陽の光を受けた街上で元気に遊んでいる世の子供たちに馴染まなくなってしまったのだろう。太陽の嫌いな絹坊! そういえば母親のお照が、この子供を縁の下に入れて置いたからといって、絹坊の場合それは虐待を意味するわけではなく、むしろ母親として我が子に対する情け厚い心遣いがそうさせたのだろう。

 僕は絹坊を伴って灯の入ったばかりの銀座裏へ歩いていった。彼女の足どりはだんだんと活発になり、果てはなんだか口の中で歌っているようであった。

「絹坊、お前は唱歌が上手だネ」

 と、僕は手をとっている女の子を顧みていった。

「……唱歌じゃないわよ」と突然無口かと思った子供が物をいった。「これ、淡海節ヨ」

「ええッ。――」僕は彼女が物を云ったことにも、その鮮やかな答にも、両方に度肝を奪われた形だった。「淡海節って、そりゃどんな唄だい。おじさんに唄って聞かせろよ」

「ああ、唄ってやろうか。……」そういって絹坊はませた声で唄いだした。「この子を生んだあたしはいいがア、この子を生ませたアあなたには、貸しがある、ヨイショコショ、忘れしゃんすなア……」

「ほほう、そいつは意味深な唄だネ。もっと子供らしいのはないのかなア」

「こんなのはどう?……鼻をつまんでニヤリと笑うウ、お前は深夜のオ市長さん、夜が明けるヨイショコショ、もうお帰りかア……」

「うん、それもおじさんにゃ深刻に響くよ。……ねえ、絹坊一体お前の、お父ちゃんは無いのかい」

「お父ちゃんは一人いるんだってよ。でもあたいはお父ちゃんの名前は知らないの。だって母アちゃんが教えて呉れないんだもの」

「お前はそのお父ちゃんという人を見たことがあるのかい」

「一度ちょっとだけ見たことがあるわ。お料理店の黒い門から出て来て自動車に乗っていっちまったの」

「どんな顔をしていたい」

「どんな顔?……あたし覚えてないわ」

「それっきりで見たことがないのかい。会いに行ったことなんかないのかネ」

「それはねエ、お母ちゃんが一緒に会いにゆこうといってあたいを引張ってゆくことはあるんだけれど、いつも途中までいって停めにしちゃうのよ。だからあたしつまらないわ。そして帰りにお母ちゃんはいつもあの唄を歌うのよ。この子を生んだア……って」

「ああ、あの唄をネ。……」僕はなんだか恐ろしくなった。

「おじちゃんは、あたいのお父さんがいい人だと思う。それとも悪い人だと思う」

「さあ――どっちだろうね」

「鬼みたいな人だっていうのよ、母アちゃんは。鬼は人間を喰べちゃうのだってよ。あたいたちも見つかると喰べられちゃうかもしれないから、喰べられそうになったら、早く鬼を殺してしまわないといけないんだって……」

「ああ、もうそんな話はよそう。……さあ、酒場ブレーキはもうすぐそこだ。母アちゃんが来ているといいネ……」

 ブレーキの前まで来ると、絹坊はうわーッとわが家の門へ辿りついたように、歓声をあげて、中へ飛びこんだ。でも彼女の母親お照はまだ来ていなかった。しかし絹坊はもうすっかり家へ帰って来たつもりで、例の白い瀬戸物の痰壺のところへとんで行くと、ちょこんと腰をかけ、顔馴染の誰彼の方を見てニヤニヤと歪んだ顔で微笑むのだった。――これで僕の役目は済んだようなものだった。だからそのまま僕はブレーキの前を立ち去ったのだった。

 その足で、僕は築地よりの河岸ぶちに出て、そこに屋台を出している「錦斗寿司」の暖簾(のれん)をくぐった。僕は寿司に眼がなかった。食慾がない今夜のようなとき、うまく腹を膨らませてくれるのは、この立ち喰いの屋台寿司に限るのだった。僕は、鼻から眼へ抜けるほど山葵(わさび)の利いたやつを十五、六も喰べたであろうか。それから別にお土産を二人前ほど包んで貰ってこれを片手にぶら下げた。

 外へ出ると、夕刊を買うことを忘れていたことを思いだした。どこかに、夕刊売りは出ていないかと四囲(あたり)を見廻すと、小暗い河岸ぷちの向うから、リンリンと微かな鈴の音が聞えてきた。音のしている方向には、灯が一つポツンとついていた。変なところに夕刊売りが出ているものだなと思いながらその方へ近づいていった。すると、近づくに従って、鈴の音は勢いよく盛んにリンリンと鳴り始めたのだった。

「ああ、夕刊を呉れたまえ、――」

「ハイ、いらっしゃい。何をあげます?」と和服を着た年端もゆかぬ夕刊売りの少女が丁寧なお辞儀と共に云った。

 僕は驚きの色を隠して、五銭玉を出した。四枚の夕刊をうけとりながらつくづくその場の異風景を観察したが、その淋しい場所にいたのは夕刊売りだけではなく、その傍には実にささやかな店を構えた焼き大福餅店があった。店の主人というのは、なんと十五、六になった水兵服の少女だった。二人は一つのアセチレン灯で、商売をしているのだった。

 僕はその灯の明りを借りて、買った夕刊にザッと眼をとおした。そこには何か「深夜の市長」の失踪に関する記事がありはしないかと思ったからだ。だがその期待は美事に外れて彼の老人と関係のある記事は一行半句見当らなかった。

「出てないかなア」

 というと、夕刊売りの少女の顔が、泣き出しそうにゆがんだ。彼女は何か勘違いをしたのだろう。

「イヤ君、君から買った夕刊が悪いというせいじゃないよ。……別のことだから……」

 すると焼き大福売りの水兵服嬢がエヘンと変な咳払いをした。僕は彼女の眼の中に或る敵意をさえ認めた。仲間の夕刊売りを苛めているとでも誤解しているのだろう。

「……僕は『深夜の市長』を探している者なのだ。どうだネ、君達、『深夜の市長』の噂を知らないかネ」

 深夜の河岸ぷちでささやかな商売をしている彼女たちも、「深夜の市長」の袖にすがっていることと思い、それを云ってみたのだった。すると、水兵服嬢は意外にも突然眼鼻を一つにして白い歯を()きだした。

「――『深夜の市長』? ああ、誰があんな悪魔の行先なんか知るもんですか」

「ナニ、『深夜の市長』が悪魔だって?」

 僕はわが耳を疑った。『深夜の市長』といえば、深夜のT市に(うごめ)いている人たちから、生き神さまのように尊敬されている徳望の主ではないか。それが事もあろうに悪魔とは……。

「そうですわ。あんな悪魔がのさばっている間は、このT市は救われませんわ」

「なぜそんな事を云うのだい君は……」

「早い話がこの千代子さんをごらんなさい」と連れの夕刊売り少女を指し、「こんな売れない場所に立って夕刊を売らなきゃならないのも、あの大悪魔のためです!」

「もう、よしてよ、町子さん!」

 連れの夕刊売りの少女はオロオロ声で、町子と呼ばれた水兵服の娘に縋りついた。

 実は僕はこれから丸の内十三号館に輪太郎の幻の高塔を探検に行こうと思い先を急いでいたのだが、これはまたひょんなことになった。この町子という大福売りの娘は「深夜の市長」を何故悪魔と呼ぶのだろう?

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