16話 16」は縦中横][#「16
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深夜のT市に棲息する夥しい人々から、まるで生き神様のように敬愛されている「深夜の市長」のことを、呼びようもあろうに大悪魔と罵って悔いない人間があろうとは、全く意外中の意外であった。僕は大福餅を売る水兵服の少女町子の顔を暫くは呆然と見詰めるばかりであった。がやがて嵐のような好奇心に駈られて、町子に問いたださずにはいられなかった。
「……君みたいに、『深夜の市長』をこきおろす人間には、始めてお目に懸ったよ。君は冗談を云ってるのだろう」
「なにが冗談なものですか」と町子は彼女を鎮めようとする一夕刊売りの少女千代子を押しのけて噛みつかんばかりの顔を突きだした。「じゃ、納得のゆくように何もかも話をしたげるわよ。それには、なぜ千代子さんが夕刊を売らなけりゃならなくなったか、それから話をするわ。最近まで千代子さんは兄さんと二人で暮していたのよ。兄さんは見掛けは悪いような人だったけれど、気はそりゃ優しくって、そしてほんとに正直な人だったのよ。……」
「正直な人だった? だったというと……」
「ええ、だったのよ。だって今は居ないのですものネ。死んでしまったかも知れないの。いや、殺されちまったんだわ!」
「殺されちまった! それは穏やかでない話だネ」
「穏やかでないことが、貴方にも分る。……そう分るならそれでいいのよ。千代子さんの兄さんを殺したのは一体誰だったでしょうか。……」
水兵服の町子は、そこで傲然と胸を張り、その上によく肥った腕を組合わせた。
「…………」
「この可哀そうな千代子さんの兄さんを殺したのは一体何処の何奴だったでしょうか! 知っている? 知らない?……では教えたげましょうか。その人殺しをした奴は……『深夜の市長』なのさ!」
「ええッ。……」遉の僕も、これには一驚した。
「愕いたでしょう。そして『深夜の市長』が、大悪魔だったことが分ったでしょう。この千代子さんは……」
「話の途中だが、その殺された兄さんというのは、何という名前の人かネ」
「それは四ツ木……鶴吉ていうのよ」
「呀ッ、四ツ木鶴吉! ほんとかい、それは……」
四ツ木鶴吉といえば、モガ崩れのマスミの兄の名であった。市議の旗頭動坂三郎のところで働いているという人物だった。それでは夕刊売りの千代子は、マスミの妹なのだろう。道理で、何処かで見覚えのある顔立ちだと思っていた。とにかくその四ツ木鶴吉のところへは、近いうちに会いにゆくつもりだった。そしてマスミの心境を説明して、性格破産の妹を救ってやるよう薦めるつもりだったのである。その四ツ木鶴吉が死んだと聞いて僕はすくなからずガッカリしたが、それよりも更に愕いたことは、人もあろうに「深夜の市長」が彼を殺害したという意外な話だった。
「おじさんは、兄のことを御存知ですの」
と、夕刊売りの千代子は泪にうるんだ眼を大きく開いて僕を見詰めた。その面影! たしかにマスミの妹に違いない。僕は兄さんの名は話に聞いただけであることを説明し、そして尚も質問の矢を放った。
「でも、どんな証拠があって『深夜の市長』が殺したというのかネ。また千代子さんの兄さんは何処で殺されたのかネ」
「なぜかって、あの悪魔が殺したのに違いないのよ」
と町子は応えた。
「違いないだけじゃあ、漠然たる話だネ。証拠がないのなら殺人の嫌疑などを軽々しく口にしちゃいけない」
と、僕はつい役所で聞き覚えある言葉を云ってしまった。すると、町子はカンカンになって怒りだした。
「貴方は何も知らない癖に何を云ってんのよオ。そんなに聞きたけりゃ教えたげるわ。……そう云う話は、確かな人の口から聞いたのよ。動坂三郎先生が、これは秘密だが……といって話して下すったわ。(わしの口からはどうも云い憎いが、四ツ木君はわしを裏切って『深夜の市長』に買われていたらしい。勿論それは四ツ木君だけが悪いわけではなく、あの悪漢『深夜の市長』が莫大な金で誘惑したからそうなったのじゃ。ひどいのは『市長』で、四ツ木君を買収したのはいいが、どうも『深夜の市長』一味の秘密を知って、これを種としてまた寝返りそうに思われたので、とうとう惨酷な制裁を加えてしまったんだ。『深夜の市長』の手に落ちれば、四ツ木君の屍体なんて秘密の場所に片づけてしまうから出て来やしないよ。しかしお前たち、黙って見ていてごらん。四ツ木君は何処からも決して帰ってこないから……)とそう仰有ったわよ。どうです。ハッキリしているじゃないの?」
「ほほう、四ツ木さんは殺されたと、動坂氏は云ったのだネ」と僕は愕きを隠し「そしてそれは何日話されたのかネ」
「あれは……兄は二十九日の夜帰って来なかったんですから、翌三十日の夕方のことでしたわ。兄さんの便りを聞くために町子さんについていって貰って、一緒に動坂さんのお邸へ伺ったとき、秘密に話をしていただいたんですわ」
「それっきり、兄さんは帰って来ないの」
「ええ、そうなの……」
といって千代子は悲しそうに目を伏せた。
「深夜の市長」が殺人をするなどとは始めて聞いた。その話によると、四ツ木鶴吉が殺されたのは、二十九日の朝、家を出ていった後のことに違いなかった。するとまず怪しいのは二十九日だ。二十九日、……三月二十九日! 指を繰ってみると、二十九日は例の不思議な事件のあった日だった。「深夜の市長」に始めて会ったり、奇妙な殺人があったり、火事があったり……。(そうだ、これは事によると……)
不図僕は、それに気がついたのだった。そんな恐ろしいことがあろうか。そんな不思議なことがあっていいだろうか。
「ねえ、千代子ちゃん。貴女の兄さんの身体を見て、これが兄さんだと分る特徴がありますか」
「ええ、顔を見れば分りますわ。それから兄はアノ……右手の拇指が無いのですから、手だけ見たって、直ぐそれと分りますよ」
「おお、それではあの四本指の手の男が……」
僕の予想は的中したのだ。しかしこの可憐なる少女にとっては、それがなんという不幸な的中だったろうか。四本指の男が二十九日の夜、どんなところを歩いて、どんな最期を遂げたか、それは大体ハッキリしている。彼は同夜午後七時五十一分ごろ、明治昼夜銀行目黒支店に突如として現われ、そこで小切手九十九円八十銭を出し、引換えに十円紙幣で九十円と、外にニッケル銅貨で二円の棒包みを四本にバラで一円八十銭也を受取っていったのだった。……それからどんな足取りをとったかは知らないが、その次に彼だと判定される男に会ったのはその夜の午前一時から二時の間――もちろん日附から云えば三月三十日だったが――、四ツ木と思われる男は、亀井戸の魔窟をすぐ前にした路地に、インバネスを着た関西弁の男二人によって屍体となって担がれていた。僕が懐中電灯の光でほんの一瞬間ではあったが観察したところでは、この男の顔はすっかり青ざめ、唇の色も変り、大きな口をダラリと開き、両眼を白く剥いていた。そして背中には短刀のようなものが相当深く肉の上に突き刺さっていた。そこまで見たときに、連れの男から石のように硬いメリケンを喰らったのであった。
次に四ツ木鶴吉らしい男の特徴ある手首は、現場から程遠からぬ横川橋四丁目の油倉庫の火災現場に於て発見された。しかしこれは発見されたというばかりで、発見者が火中から取出そうとして長い木片を探しに行った遑に、どこかへ行って見えなくなってしまった。手首だけが火中に投げこまれるというのは可笑しいことであって、前後の模様から察すると、亀井戸の魔窟の附近で殺害された四ツ木屍体は、この油倉庫の火事場に投げこまれて全身灰になってしまったのであろう。手首は火の廻りかなんかの加減で、燃え残っていたのではなかろうか。その前に、焼け落ちた棟木かなんかのために、手首だけが切断せされて、火の廻りの遅いところへポーンと飛んだということも考えられる。なんにしても、四ツ木鶴吉の殺害は、動坂三郎の推察どおり九分九厘までは事実と見るより外ない。
四ツ木を殺った者が、「深夜の市長」だったとすれば、これは一体どうなるのであろう。するとあの夜、彼に会ってからこっち、僕は完全にあの怪人の大芝居を見てすっかり欺されていたことになる。そんな大芝居を僕ごとき人間のために、なぜ打って見せねばならない程の事情があったのだろう。