17話 17」は縦中横][#「17
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僕は薄ら寒い築地の通りに立ちつくして、センチメンタルな気持に墜ちていった。
こんなところに迷い来て、千代子たちに会うようなことになったのも、非業の最期を遂げた仏が一念籠めて僕を引き寄せたわけだったかも知れない。これも人の世に珍らしくない縁の糸の力と思い、僕はポケットから一葉の名刺をぬいて仏の妹に手渡した。そして自分はこういう者だから心配しないでいいこと、それからきっとその事件は検べてあげて得心のゆくようにするから安心するようにと云った。しかし彼女の兄の屍体を見たこと等については、軽々しくいうべきことでないので、黙っていた。
役柄の肩書が物を云ってか、千代子はもちろんのこと、傲慢にさえなった大福餅売りの町子さえ俄かに態度をかえて信頼の念を面に現わして、無礼を詫びてくれた。
僕は面映くは感じながらも内心大いに得意だったが、なんという浅間しいことだろう。
町子の話によると、千代子は今、誰からも保護を受けていないそうである。その日からの生活に困って、こうして夕刊売りとなったが、夕刊売り場の縄張りを持つ「深夜の市長」一味の者のために、「動坂三郎に使われていた者の妹じゃないか」というので、よい場所に立つことを阻まれたそうだ。また動坂三郎は動坂三郎で「乾分たちへの見せしめもあることだから、気の毒ながら裏切り者の妹へ合力をするのは困る」といって婉曲に保護を断ったという。それを聞いて僕は更に義憤を覚えた。それでなにがしかの紙幣を、遠慮する千代子の手に握らせ、そこを立ち去ろうとした。
そのときだった。橋の向うから、リンリンリンと冴えた鈴の音を騒がせながら、号外売りが駈けて来た。
「うおォ、号外だ、号外だ。……新聞の号外だ。さあ大変大変、えれい事が始まったぞおォ。……うおォ、号外、号外!」
何新聞なのか、生憎新聞名がハッキリしなかったけれど、号外売りの声の上ずった呼び声は、号外を買わずにはいられないような不安の想いを抱かせるに充分だった。
「オーイオーイ、号外を呉れエ」
号外売りは喰ってかかるような恰好で、こっちへ飛んできた。「ええ、三銭、三銭! 今日のは高いよ」
いつもよりは一銭高い号外を一枚買った僕は、なんだかその記事を見るのが恐いような気がした。目の上高く差上げて巷の迷光に透してみると、これは一大事勃発だ!
――T市長高屋清人氏自殺す。――
たいへんな標題から始まって、
――T市長男爵高屋清人氏(五八)は今夕六時、市長室に於てピストル自殺を企て重傷を負った。銃声に愕いて駈付けた守衛のため極秘裡に直ちに市内某区の○○病院に搬び込まれたが危篤である。尚、市長は午後七時十五分遂に絶命したと伝えられる。自殺原因に就ては種々の噂あるも信ずべき確かな筋の報道によれば、最近高屋市長は某地所売却問題に関し醜行為あり、其の為本日の市会に於て自ら同案の上程を理由なく拒否する等の市会始まっての非行を演じた為、市議動坂三郎氏より痛烈なる指弾を受け、市長金庫の立会開扉を求められたが、傲岸なる市長は之をも拒絶した。併し市長が己が醜跡を蔽い難きを悟り、遂に最後の手段として自殺を選んだものだと。因みにT市財政は既に破綻に瀕せる重大危機にあって市長を空席にするは一日も許されざる事情にあるを以て、早くも後任市長の候補者が話題に上っているが、有力者の一部では見識手腕倶に優れた清廉の士現市議中の大立物動坂三郎氏を推さんとする説が有力である。――
僕はこの青天霹靂に等しい報道記事を貪るように読み下した。この号外を出した新聞名は「朝夕新報」という。あまりに聞かない名の新聞だったが、とにかくこの号外の内容には大いに打たれた。それは今日、高屋市長と中谷助役との間に取り交わされていた会話によっても、一概にデマとは信じ難いものだった。ただ不審に堪えないのは他の大新聞の号外がまだ発行になっていないことだった。
そのとき程遠からぬところで、喚くような声が聞えるので、何事かと振りかえってみると、一人の警官が、夕刊を売っている千代子のところへ自転車を乗りつけて、何か喚いているのが、暗い灯影にうつって見えた。
僕は何気ない風を装って引返し、警官が何を喚いているのかを聞くと、
「……そうか、まだ配達して来ないのならいいが、来ても売っちゃいけないぞ。禁止になったんだからナ」
そういうと、警官はまたあたふたと自転車に打ち乗って、向うへ遠去かっていった。
「一体どうしたの、今のお巡りさんは……」
と訊ねてみると、千代子に代って町子が、
「いえ、朝夕新報の号外が発禁になったんですって、貴方、いまお買いになったんでしょう。何でしたの」
と尋ねた。
「ああ、今のは市長が自殺したというんだよ」
「あら、『深夜の市長』が自殺したんですか」
「『深夜の市長』が……。違うよ。本物の高屋市長がやったというんだ」
そうは云ったが、このとき妙な気がしないでもなかった。深夜の市長は昨日から行方不明を伝えられている。彼こそは本当の市長の化けたのであって、とうとう自殺してしまったのじゃないか――などと考えた。しかしそんな莫迦な筈があってたまるものではない。
市長自殺の号外は、なぜ発禁になったのか知らないが、これはまた一と騒動あるのではないかと思った僕は、不図気づき、公衆電話箱に飛びこんで、検事局の宿直室を呼んでみた。話中で暫く待たされたけれど、やがて向うの電話口に現われたのは、思いがけなく次席検事の雁金浩三氏だった。
「……おお、君は試補の浅間君か。それは恰度いいところへ電話して呉れたネ。ちょっと至急頼みたいことがある。直ぐこっちへ来て呉れたまえ。何処にいるの。……ナニ築地? それは幸いだ。円タクで駈けつけ給え」
雁金次席検事は、局内で僕の最も敬服する人物だった。その人から直々言葉を懸けられ、「直ぐ駈けつけろ」というのである。僕は全身が俄かに緊張に鳴り亘るように感じながら、電話函を出ると、通りがかりの円タクを大声で呼びとめた。
通用門を明けさせ、長い廊下にいらいらしながら、僕は宿直室に辿りついた。室内に居合わせたのは、思いの外の少人数だった。雁金検事は、書記を督励して、何か書類を繰らせていたが、僕の入ってきたのを見ると、つと室の隅に立って僕を手招きした。
「君は辰巳芸者のいる深川門前仲町の待合街を知っているかネ。ところでそこに紅高砂家という待合がある。そこへ直ぐ行って貰いたい」
「はア、待合で何をいたしますか」
「金曜会という会合がある。そこに川田さんという変名で、黒河内警視総監が居られるから、この手紙を持っていって貰いたい」
「えッ、警視総監が待合に……」
「誤解や早合点は慎しむがいいぞ。職務のために行って居られるのだ。手紙を渡したら何か挨拶があろう。後は総監の命令を遵奉して行動すること。分ったかネ。余り役人風を吹かせるんじゃないよ」
深夜の待合行き、――しかも向うには警視総監が列席しているという。なんという変った使命だ。事件らしいが、一体どんなことが起ったのであろう。今夜の号外となにか関係があるのかしら。僕は胸を躍らせて、また夜の町へ飛びだした。時刻は正に午後九時。
門前仲町――とネオン・サインが出ている横丁、酸漿電灯の下をくぐり、そこにポツンポツンと三味を弾いて、これから商売にかかろうとする新内流しの二人連れに訊ねると、待合の紅高砂家はすぐ分った。ゴタゴタした植込みを抜けて、玄関の格子をガラガラと明けると、奥からバネ仕掛のように垢ぬけのした年増の女中がでてきたが、中腰になるより早く、
「……アノお気の毒さまでございますが、今夜はちょっと取込んで居りまして……」
と断られてしまった。それが癪の虫に響いたので、思わず「僕は検……」と云いかけて、わが声にハッと気がつき「金曜会の川田さんに取次いで呉れたまえ」
「ああカーさんの……オヤオヤ飛んでもない失礼を申上げて……まあ妾どうしましょう。穴があれば入りとうござんすワ……」
それで関所は無事通行を許された。
そこは十二畳位の大広間だった。紫檀の大卓子を囲んで、和服に羽織袴の立派なる人物が三人、いずれも年の頃は五十を過ぎている。しかしこのとき位、僕が愕いたことはない。総監は予期したことながら他の二人の人物は誰だったろうか。奥に反りかえっているデップリ太った赧ら顔の人物は、これぞ市会の大立者、動坂三郎氏だった。それはまあいいとして、床の間を背に、すこし青褪めている格幅のいい無髯無髭の人物は誰だったろうか。それこそ先刻の号外で重傷或いは既に死亡を伝えられたT市長男爵高屋清人氏ではあったではないか。僕は自分の眼を疑った。こんな愕きがあるだろうか。ピストルで自殺をした筈の市長は、見たところ何処に繃帯をしているわけでもなく、負傷に痛みを怺えている様子もなかった。――このとき、有名な黒い鉄縁の眼鏡をかけた黒河内総監が腰を上げて僕の前まで出てきてくれなければ、僕はもっともっとT市長の顔を見詰めていたろう。
「はッ、これは総監閣下でいらっしゃいますネ。これをお届けいたします」
「いや御苦労……」
総監は封を切って、中から毛筆で細かく書き込まれた罫紙綴をペラペラとくって読んでいたが、やがてそれを元のように封筒に収めて袖に入れた。それから僕を市長と動坂氏とに紹介した後、
「では君、オブザーヴァとしてこっちへ来て、僕たちの会談を聞いていて呉れ給え。場所柄、野暮くさいのは禁物だよ。いいかネ、はッはッはッ」
僕がなんでこのエラ方の会談にオブザーヴァとして選ばれたのか分らなかったが、恐らくそれは何かオブザーヴァの必要があり、そしてオブザーヴァするにはあまり圧迫的な人物でないのがいいためだったのであろう。――とにかく僕は如何なる会話が始められるか、大いに興味を持った。