18話 18」は縦中横][#「18
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「それで動坂さん」と黒河内総監は、懐手をしたままで口を切った。「高屋さんの提案どおり、土地払下案をここ三日ほど市会に懸けるのを猶予してやれませんか」
なんだ、やはり土地売却問題なのか。市長が困り果てて、総監の救け舟を呼んだものと見える。しかし総監を調停者に立てるとは何事か!
「それア何度云っても同じことですよ。猶予するもせんも儂にはどうにもならぬことです」
「しかし動坂さん。聞くところによると、本案を今日上程するように計らったのは、貴下だということだが……」
「黒河内さん。それは何者かの為めにせんとするデマですよ。貴下も、その連中に乗じられているのだ。第一、あの土地払下の件は今更始まった問題ではなし、前から下相談もあり、誰も異議はないといっている。市長も数日前、賛成のような口吻を洩している。それだのに、上程がなぜいかんのか、儂には腑に落ちん」
「それは市長も説明しているように、この件について、ちょっと取調べを要することが出来たという……」
「いまさら取調べなんて迂濶千万ではありませんか。が、まあ取調べもいいでしょう。しかし市会の意思を蹂躙して上程をさせまいとするのはいかん。上程してみた上で、取調べの必要ができたからと云って、そこで延期を図ればよろしい」
「取調べる必要があれば、上程前に取調べをやらせた方が穏やかでいいと思いますよ」と総監は飽くまで協調的に出るのだった。「ねえ動坂さん。市政に責任を持つ市長の希望なんだ。貴下一つ叶えてやって下さらんか」
「いいや駄目です。取調べなどとは口実ですよ。もう取調べることなんか何にもありゃしない。そういうところを見ると市長の方には何か別の事情があるのではないか。別の事情があるのなら、儂も考慮しますよ。こんな訳だから、暫く待てと仰有れば、儂も何を好んで市長を苛めましょう」
動坂三郎は憎々しいまでに落ついている。総監はこのとき懐から右手を出して、顔のところへ持ってゆきかけたが、何を思ったのか慌てたまま懐へ引込めた。そして居ずまいを直した後で、
「じゃあ仕方がありません。云いだしたくはないが、私からその訳を云いましょう。お察しのとおり或る事情がある。……」
「ああ、黒河内さん。……」と、今まで下を俯いて黙りこんでいた市長が、ハッとした様子で声をかけた。
「いや高屋さん。やはりこれは云わにゃならんことですよ。云わないで置こうとするから、貴下は無駄な苦しみをする」
そういって総監は両手を出して、卓子の上に組んだ。
「実は市長このところ大失態をやった。それは大事にしなけれアならんT市の黄金の鍵を二、三日前失ってしまったんです」
「ナニ、T市の黄金の鍵を……。ああ、それは飛んだことだ。あれは一つしかない。T市では一番大切な品物だ。それを無くしたとは、一体全体何ごとだ! 市長! これぁ辞職や切腹だけでは、済みませぬぞ」
動坂三郎は顔の色を変え、市長の方へ太い拳固を幾度もつきつけた。市長は更に青褪めて見えた。
「そのとおり、全く高屋さんの大失態だ。しかしネ、動坂さん。いろいろ訪ねてみると、その鍵がどうして紛失したかハッキリしないのです。つまりそれは落したものか、それとも盗まれたものか分らない」
「どっちにしろ、市長の責任は遁れられぬ。T市五十年の名誉はどうなるのだ。儂の耳に早く入ったからいいようなものの、これが他の議員に知れて御覧なさい。どんな騒ぎが起ると思う……」
「ところで、動坂さん。貴方の御意見を伺いますが、もしそのT市の鍵が、落したのではなくて、誰かが盗んだのだったらどうします。その盗んだ人間を、どう処置すればいいでしょうか」
「黒河内さん。儂は警視総監じゃありませんよ。盗人の処分なんか、貴公の役目じゃありませんか」
「そうです。だから私は、自分の職務を遂行しようかと考えているのです。結局私は気の毒な検挙をしなければなりません。それでもいいでしょうか」
「妙なことを云いますなア、貴下は……」動坂は大きい顔を総監の方に向けた。「なんだか、丸で儂がその鍵泥棒を知っているようなことを云う……。なにも儂に御遠慮はいらぬ。捕えると仰有るのなら捕えたらいいでしょう。しかし……」
「しかし、何というのです」
総監と動坂との視線がかち合って、火花でも見えそうな有様だった。
「しかしだ、黒河内さん。失礼ながら貴方なんぞに、その犯人が捕りますかな。犯人を誰だと思っているのです。こうなれば儂は云うが、とにかく市長はどうしていたのか知らぬが、市の鍵を持っていた人物は知っていますよ。貴方にはそれが誰か分っているのかネ。見当もついていないのじゃないか。どうして貴方なんぞに分るものか。貴方の腕前は誰でも知っている。早い話が『深夜の市長』のことだ。……」
『深夜の市長』――という言葉が、突然動坂三郎の口から飛びだしたので、僕はハッと思った。三人の巨頭は、俄然緊張の絶頂に抛りあげられた。
動坂三郎は、語を継いで、
「……あの『深夜の市長』という存在は何です。このT市にああいう奇怪な存在があることは公知なのに、なぜあの一味を黙って捨て置くのだ。貴公は彼等に対して、一指を染めることさえ出来ないではないか。なにが警視総監だ。貴公に総監たる資格などは無い。貴公を拾い上げて総監にした仁は、大きな見損いをしている。寧ろ『深夜の市長』を総監にした方が、ましなくらいだ。はッはッはッ。……とにかく先ほどから黙って聞いていれば、これは何のことはない。総監を笠に来ての脅迫じゃないですか。なんのために大失策をやった市長の肩をもって、善良なるこの動坂三郎を恐喝するのです。儂はもう、こんな不純極まる席に列しているのを好まんから、これで退席しますよ。……」
そういって動坂は悠々と立ち上った。
「いや動坂さん、御苦労でした。では高屋さんも、それから浅間君も……今夜の協議はこれで解散ということにしましょう」
黒河内総監は別に愕きも怒った様子もなく、静かに閉会を宣した。
僕たちは、そのまま階下に降りた。女中たちは不意を喰って玄関へ飛んで出た。動坂三郎を先頭に総監、市長、僕の順で履物を履いた。そして女達の艶かしい声に送られて、植込みの傍を通って表へ出ようとしたその一刹那……
「呀ッ、……」
と叫ぶ動坂の声、その声の終らぬ先に、ポンポンと、二、三発の銃声が通りの方からした。途端にシューッと音がして、僕の耳許を掠めて一発の弾丸が後へ抜け、カーンと竹を並べた垣根に当って跳ねかえった。このとき誰か庭石の上に、ドッと倒れた者があった。
全く不意の襲撃だ。何者の仕業?
反射的に、僕は表へ飛びだした。
「……母アちゃん、よしよ。撃っちゃいや」
僕は待合の向い側で、鋭く泣き叫ぶ女の子の声を聞いた。
「撃っちゃいやよ、あたいの父うちゃんじゃないか……」
と、なおも叫び続ける声!
その方を見やると、一人の女の腕に、蝗のように飛びついている小娘の姿が目に入った。
「コラッ……」女の手にキラリと光ったのはピストルだ。
「絹坊、お離し。……あの悪魔を殺してやるのだ。あいつだよ、『深夜の市長』さまを、どうかしたのは。……」
僕はその声を聞いてハッと愕いた。……絹坊、「深夜の市長」、母アちゃん、父うちゃん……。
「ああ、撃ったのはお照だナ。……」
これはどうしても取り慎めなければいけないと思って一旦立ち停った僕は、再び駈けつけようとした途端、横合から飛びだして来た四、五人の壮漢……。呀ッという間もなく僕の向う脛を掻っ払った。僕は俵のように《どう》と地上に転倒した。
「……だから、お照さん。云わないこっちゃない。……」
「さあ、愚図愚図しないで、早く逃げるんだ。刑事や巡査がやってくると面倒だ」
「自動車は向うに待っている。早く早く」
雑然と早や口に喋るその言葉から察すると、これはお照の後を追いかけてきた彼の深夜人種らしかった。一行はそのうちにもドヤドヤと一と固まりとなって、要領よく嵐のように引揚げていった。後には集ってきた近隣の人々の怒号する声ばかりが残った。
僕は痛味を怺えて、ようやく起き上った。
気になるのは、三人の巨頭の安否だった。お照の放った弾丸は確かに命中した。その弾丸に当って、待合の前でドーンと倒れてしまったのは、誰だったのか?
真先に目に入ったのは、動坂三郎だった。彼は門の脇にウロウロしていた。その向うに、長々と地上に倒れている人間が見えた。近寄ると、高屋市長の声で、
「おお、浅間君。黒河内さんがやられたッ」
「ええッ、総監がですか。……」
駈けよってみると、何と痛わしいことではないか。黒河内総監が、肩を抑えて呻っていたではないか。
「黒河内さん、どうしました。しっかりして下さい」
「ああ、浅間君。もう何でもないよ」総監は寝たままで云った。「それでネ、浅間君。私は病院に行きたいのだ。君に頼むから、どこかその辺の病院へ連れてってくれ給え。君と二人だけで行きたい。私がいうまで、警視庁へ電話をかけるのも控えてくれ給え。さあ、警官たちの来ぬ間に、早く早く、早くやってくれ」
「ええ、分りました。しっかりしていて下さい。それでは僕が起してあげますから……」
するとその側へ、動坂三郎がヌッと顔を出して、傷ついた総監を覗きこんだ。
「やれやれ、案外君たちは不用意なんだネ。僕を見給え、僕を。ちゃんと防弾チョッキを着込んでいるんだ。ホラ、此処に弾丸が当って穴が明いているが、蚤に喰われたほども感じないさ。うわッはッはッ」
と、高らかに笑って、ポンポンと懐の上を叩いた。
高屋市長はと見ると、今し方総監を介抱していたと思ったのに、いつの間にどこへ行ったのか、姿が消えていた。こんなところに愚図愚図していてこの上変な噂をたてられるのを嫌い、要領よく立ち去ったのかと思った。しかしそれは思い違いで、このとき市長はもっと重大な決意の下に行動していたのだったことは、後にいたって思い合わされた。
総監はウーンウーンと重傷に苦悶していた。この上猶予はならないので、僕は通りがかった円タクを呼び留めて、総監の身体を抱え入れた。何処の病院がいいだろうか。総監は大袈裟に騒がれることを恐れている様子である。そのとき僕は、先年、本所の工場で働いていた友人がクレーンに跳ねとばされて重傷を負ったとき入院した江東外科病院を思いだした。近くはないが自動車のことだから、物の五分も違わないと思ったので、運転手に命じて、江東外科病院の方へ走らせた。
「川田」という仮名をそのまま、病院の受付に登録して、総監の身体は即刻、手術台の上に載せられた。宿直の医師はキビキビした調子で看護婦を督励し、総監の身体を裸にした。右の腋の下を中心に出血はかなり夥しく、消毒した脱脂綿で拭っても、上膊にパクリと明いた傷口から、鮮明な血潮がジクリジクリと、噴きだしてきた。医師は直ちに、総監の右腕の付け根を肩の上から緊縛させた。そしてピカピカ光る手術具をガチャリガチャリと音をさせながら、傷の手当に取懸った。
「……ああ、川田さん……でしたネ。傷は勿論貫通銃創で、弾丸は外へ抜けています。川田さんは天下一の幸運児ですよ。ピストルの弾丸は、長頭膊筋を撃ち抜いていますが、その中には動脈だの上膊骨だのがあるんです。どっちに当っても大変なことになりますが、貴下の傷は幸運にも上膊動脈と上膊骨との中間をうまく貫いています。化膿さえしなければ、ズンズンよくなりますよ」
総監は口を緘したまま、首を振って悦びの色を示した。
僕はそれから小一時間も付き添っていたであろうか。傷も案外急所を外れたことだし、総監もウツラウツラと睡りかけたので、僕は病室を辞去することにした。すると睡っていたとばかり思った黒河内氏は、パッと眼を見開いて、
「……帰るのか、浅間君。今度はたいへん世話になったネ。いずれよくなったら御礼をするよ。……それから雁金検事に伝えて下さい。例の問題につき協調は成らなかった。私はすぐ適宜の処置を講ずるから……とネ。では……」
といって、白い毛布の間から健全な左手を出すと、僕の手を堅く握った。