19話 19」は縦中横][#「19
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外に出てみると、愕いたことに、雪がチラチラ降っていた。今夜は莫迦に冷えると思っていたが、やはり雪になる知らせだった。陽春とは名ばかりで、このくろぐろと更けた風なき夜、霏々として真直に降り下る白雪をオーヴァの上に受けて、再び真冬に逢うの想いであった。
僕は何よりも先ず、雁金検事にその夜の出来事の報告をしなければならなかった。待合紅高砂の玄関を出た途端に、あの不意打ちの狙撃事件が起り、重傷者を出すやら、病院まで付き添ってゆくやらで自分一人になる自由を持たなかった。この際のこととて他人に立聞かれるような電話をかけることはできないので、ただ徒らに移りゆく時刻を恨しく見送っていたのだった。今こそ、報告の出来る機会がやって来たのである。
腕時計の指針を探ると、もはや時刻は十二時間近だった。さあ電話をかけるのだ。心当たりの辻々を縫い歩いているうち、ようやく高架橋の畔りに、置き忘れられたようにポツンと立っている公衆電話函を見つけることができた。
電話は検事局の宿直室にすぐ通じた。雁金検事を呼んで貰って、僕は待合紅高砂に於ける三巨頭協議のオブザーヴァとしての報告と、それに続いて起った狙撃事件とを詳細に亘って報告した。
「いかがでしょうか。そちらへ参った方がよければ、すぐ駈けつけますが……」
というと、雁金検事は、
「イヤ電話で詳細分ったから、今夜は来なくてもいいよ。こっちはこっちで人手が十分だから、手配に心配はいらぬ。君はあまり身体に無理をしないで、ちと休養を摂りたまえ」と優しい言葉をかけて呉れたが、最後に不図思いだしたように言葉を付け加え「……だが、逃走した加害者の女の所在が分ったら、そいつはすぐ報告を頼むよ」
そこで電話は切れたが、雁金次席の最後の言葉は、僕の胸をギクンと衝いた。いま自分は忠実なる司法官として、加害者がお照であることを報告したのだ。それに対して上官は、加害者の逮捕を僕にも命令した。街の科学者速水輪太郎を恋人に持ち、「深夜の市長」を神のように崇めているあのお照を、僕が逮捕しなければならぬこととなった。それは決して気持のよいことではなかった。僕は苦しい立場に追いこまれてしまったのだ。――この上は、どうかお照にめぐり会いたくもないものだ。
雪は先刻にも増してドンドン降っていた。収い忘れた陽よけの上にも、軒端に近い舗道の上にも、真白に積ってきた。僕は俄かに空腹を感じた。その上に一椀の温い飲物もほしかった。どこかに蕎麦やでも起きていないかしら。
この辺一帯は物寂しい工業地帯だった。あたりには鉄が錆びたような酸っぱい空気が澱んでいた。そしてどっちを見ても、無暗に頑丈な高塀がつづき、夜空に聳え立つ工場の窓には明々と灯がうつり、それを距てた内側で夜業に熱中している職工たちの気配が感ぜられた。何の音かはしらぬが、カーンカンと金物を打つ鋭い音が冴々と聞えるかと思うと、またザザザーッと物をぶちまけるような高圧蒸気の音がするのであった。
そのとき僕は、工場の塀ぎわに、一軒の中華そば屋の灯を発見した。僕の足は、心よりも先に、その方に踏みだしていた。温い湯気の洩れる暖簾をくぐって、僕は荒くれた二、三人の先客の間に割りこんだ。釜の向うでワンタンを鉢にうつしていた白い割烹着にレースの布を捲いた娘がチラリと一瞥を送って「いらっしゃい」と声をかけた。若い職工の働いている工場街なればこそ、このような妙齢の娘が結構商売をしているのだ。
番が廻って来て、僕の受取った丼は風呂桶のように熱かった。フウフウ吹きながら箸を搬んでいるうちに、身体も魂も自分のところへ帰ってきた様な感じがした。丼を置いてハンカチーを取出そうとしてオーヴァのポケットに手を入れたとき、思いがけなくマッシヴなものが入っているのに愕いた。オヤオヤと思いながら引張りだしてみると、なんのこと、それは築地の河岸ぷちで買い求めた握り寿司の包みだった。いつの間にこんなところへ蔵ったのだろうと呆れる外なかった。
「姐さん、ここに買って来た握り寿司があるんだが、喰べても構わないかネ」
「アラ御馳走さまネ。どうぞ御遠慮なく……」
「じゃあ……」といって、僕はその紙包みを開いて、台の上に載せた。鮪も小鰭も鳥貝も、みなぺちゃんこになっていた。
「君もよかったら一つ喰べないか。温くして貰ったお礼に、無代提供するよ。……どうです皆さんも。よかったら、やって下さい」
じゃ御馳走になろうじゃねえかというので、あっちからもこっちからも手が出てきた。僕はそのとき、この店にコップ酒があるのを見つけたので、早速お燗を頼んだ。
さて、これから先どうしたものだろうか。雁金検事は僕に休養をしろといったが、今夜のような目に会っては寝てもいられなかった。あのお照をどうしよう。
それにしても、お照はよくあそこまでやって来たものだ。ピストルを貸したのは誰だったかしら。絹坊が縋りつかなかったら、弾丸はもっともっと発射されたろう。そうなると僕も今頃はこんなところで中華そばの湯気を吹いたりなど出来なかったかもしれない。
――「深夜の市長」の讐うちだ。
というような言葉を吐いていたなア。
――あたいの父ちゃんを殺しちゃ厭よ!
と絹坊は泣き叫んでいたっけ。
ピストルの弾丸は、動坂三郎と黒河内総監とに命中したがお照が本当に覘っていたのは誰だろう。結果からゆけば、黒河内総監が引きうけちまったことになるが、お照は果して総監を覘ったのであろうか。なにしろあの場には三人の巨頭が居合わせた。いずれも僕より早く、一と塊りとなって門を出た筈だった。お照の覘った相手が知りたいものだ。そしてその相手というのは、絹坊が歌ってきかせた淡海節、
この子を生んだあたしはいいがア、この子を生ませたアあなたには貸しがある。ヨイショコショ、忘れしゃんすなア。
という文句にあるとおり、お照は絹坊を生ませた男に対する貸しを、ピストルの弾丸で取ろうとしたものに違いない。すると、あの三巨頭の誰かが、絹坊の隠し父親に違いないのである。一体誰がその父親であろう。動坂三郎であろうか、黒河内総監だろうか、それとも市長高屋男爵であろうか、それが誰であろうと、この立派なる顔触れの中にあるとは、これはなんというセンセイショナル事件であろうか。
「アラお客さん、いやに沈んでいるのネ。なにか貴方の大事な彼の女がどうかしましたか」
娘はニヤニヤ笑いながら、釜の中を掻きまわしている。
「ふふふふ。彼の女がねエ。……図星だと云いたいが、ちょっと的を外れたねえ」
「まア憎らしい。そんなに恥かしがらなくてもいいわよ。オホホホホ」
僕はコップを撫でまわしながら、静かに口に持っていった。深夜の天使は天真爛漫に笑いつづけている。……
そのとき何となく外が騒々しくなってきた。
「何だ。又おっぱじまったのかナ。……」
丼を空けたあとに湯を注いで貰って呑んでいた連中がガヤガヤ云いながら、屋台を出ていった。どうやらこの塀の中の工場らしいが、呶鳴りつけるような大きな声やら、重いチェーンを引上げるらしくガラガラという音などが一しきり喧しく響いてきた。何だろう? と思い、娘に聞こうかと顔を上げてみたが、彼女は全然気にしていないらしく、平然として丼を洗っているので、こっちから問うのが恥かしくなった。
全くもって、深夜の世界には、いろいろ珍らしい出来ごとが後から後へと引切りなしに起っているのだ。ラジオ体操のアナウンサーの声とともに起き、夜の気象通報とともに睡るような多くのT市民たちには全く分らない別の世界なのだ。彼等は全く知らない。彼等が快い高鼾を掻いている間に、その枕許を起重機が軋み、刑事に追われた泥棒が走り、ゴミ箱に睡るルンペンの心臓がハタと停り、死所を求めて彷徨う家出人が大金の入った蟇口を拾い、硝子壜に白い牛乳が一杯詰められては蓋をされてゆくのだ。いやもっともっと恐ろしい事件、珍らしい事件、不思議な事件が後から後へと起っているのだ。何も知らない彼等は天使か白痴かのように、いとも穏かな顔をして睡っているのだ。
ドヤドヤと跫音がして、先刻暖簾を出ていった連中が帰ってきた。
「何だったんです」と僕が声をかけた。
「イヤいつもあるやつでさあ。なにネ、熔鉱炉の中に、誰だか飛びこんだ人間があるようだというのでちょっと騒いだんでさあ」
「えッ、熔鉱炉……」
「そうですよ。この工場の熔鉱炉と来た日にゃ、人間が好きでたまらねえと見えて、よくやるんですよ。なにしろ炉は野天に置いてあるんだし、外から持っていった屑金を直ぐ抛りこめるように、入口から近いところにあるんで、誰でも直ぐ入れまさあネ。そこへ持ってきて、高い炉口に上っている梯子は薄暗く、上にゃ職工が一人きゃいないで、こいつが小さい車を押してあっちへ行ったりこっちへ行ったりしている。だからやろうと思えば誰でも飛び込めるんです……」
「今夜も本当に飛びこんだんですか」
「どうかなア。怖じ気のついた野郎どもが、よく幽霊を見て本当の人間が飛びこんだと早合点することがあるのでネ」
「ほう、幽霊……。つまり幻影を見るんですネ」
幻にしろ本物の人間にしろ、溶鉱炉に飛びこんだと聞いてはいい気持はしなかった。それをきっかけに、僕は勘定を台の上に並べて外に出た。街は雪に睡っている。……
僅かのアルコールに僕の元気はすっかり恢復した。さあ何でも向って来い、だ。しかし困ったことに、司法官試補浅間新十郎と探偵作家黄谷青二との両人格がすっかりごっちゃになってしまって、なんだか妙な気持だ。
間もなく僕は、円タクの中に自分自身を発見した。オヤオヤと思ううちに、「へえ参りました」という運転手の声と共に下されてしまった。一体ここは何処だろうと見廻すと、煉瓦造りの建物が立ち並んでいるあたりにどうやら見覚えがある。
「ほほう。してみると、これは丸の内十三号館の近所に違いない」
僕の潜在意識が、円タクをここへ命じたのであろう。丸の内の十三号館、大いによろしい。今夜こそ、あの街の科学者速水輪太郎をとっちめて呉れるぞオ。
少し酔ってはいるが、記憶は確かだった。十三号館はこれだ。こっちに横丁もある。空気抜きの窓もあった。手をさしこんでみると、なんだか位置が違っているように思ったけれど押し釦もあった。押せば窓もスルスルと明いた。それを攀じのぼろうとしたが――ドッコイ、これア骨だ。……
これを上らなければ職務を遂行するわけにはゆかぬ。僕は二百三高地を攻撃するときのように、飛びついては墜ち、立ち上ってはまた飛びついた。
そのとき誰だか、僕の肩を掴んで、大声に話しかける者があった。やあ天の助けとはこの事だ。僕に力を貸そうという人間が降って湧いたのだった。ひょっとすると僕は、お伽噺に出てくる魔法ランプの持ち主アラジンではないかしら。
「おう、恰度いい。済まんが僕のお尻を持ち上げて呉れ給え」
「こーらッ。貴様は太いやつだ。警官の見ている前で、泥棒に入るとは何だ。俺は警官だぞ」
「ナニ警官だ。そりゃ都合がいい。……」
「なんだとオ。……服装はしっかりしているが……。貴様の住所が何処だ。商売はあるのかア。……」
「住所だ、商売だアというのかア。それなら名刺を呉れといえば話が早いじゃないか。さあ手を出せ一枚二枚三枚……もっと欲しいかア」
警官は名刺を見ると、打って変ったように温和しくなった。
「これは失礼しました。……」
「住所と商売が分ったら、早く僕のお尻をもちあげて呉れ」
「ハッ承知いたしました」
僕はやっと思い通りに、窓の内部へ転げこむことが出来た。警官も続いて入って来ようとするから僕はそれを止めて、これは極秘の事件だから手を出すな、云うことを聞かんで手を出すと、次席検事の雁金さんに叱られるかもしらんぞと呶鳴りつけ、硝子戸をバタンと降してしまった。僕は至極痛快であった。
勝手知ったる廊下を抜けて、ズンズンゆくと、中庭へ出る扉があった。それを押し開くと、庭が見える。石の階段を踏み外したと思ったら、もう中庭に出た。さあ、輪太郎の怪塔は有りや無しやと仰いで見れば、あったぞ、あったぞ、夜目にも屹然と聳える見覚えある高塔――窓についた灯も、この前見たとおりだった。
僕は塔の根元にある入口の扉に向って歩きだした。気がつくと白く積った雪の上に、誰か歩いた足跡がついていた。誰? 輪太郎が帰って来たのかしら。
僕は苦しい息をつぎつぎ、骨の折れる階段を一歩一歩登っていった。それはジャックが豆の木に攀じのぼるように、長い長い遥かな旅程だった。睡くなって来た。……
気がついてみると、僕はなんだか温いものの上に寝ていた。ヒヤリと冷いものが、額から首筋へ流れた。一体どうしたというんだろう。
「ああ、気がついたようです。……」
「ウン、もう大丈夫じゃ」
なんだか聞き覚えのある声に、僕はその方を振り向いた。そこに並んだ三つの顔。おお、その三つの顔!
速水輪太郎と呑んだくれのお照の顔は、別になんでもないからよろしい。しかしもう一つの顔は、僕の心臓を停まらせるほど愕かせた。
「おお『深夜の市長』! 貴方は生きていたのですか?」