20話 20」は縦中横][#「20
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「おお、『深夜の市長』! ほんとに貴下は……」
と、僕は吃驚仰天して、その場に跳ね起きた。
「貴下は一体何処に居たんです。みんな心配していましたよ。僕が貴下をどうかしたんじゃないかとひどく疑ぐられて、不愉快でしたよ」
僕は「深夜の市長」の頬から頤にかけて濃い髯のある面を懐しく下から眺めた。彼の顔はなんだかいつもとは違っているようであった。顔色は血の気もない迄に蒼く、そしてたいへん疲れているようであった。でも彼は強いて快活らしく装い、髭の下に隠れた唇を開き、
「いや鳥渡した事件で、友達に頼まれて出かけたんだよ。行ったは行ったが、そのまま手が抜けなくなってネ、皆に心配をかけちまった。……だが儂のことより、お前さん自身を気をつけたがいい。さっきはアルコールの匂いをプンプンさせて、階段の下に仆れていたよ」
「あッ、そうですか」僕は赭くなった。「しかし一体貴下という仁は昼間は何処で何うして暮しているんです」
「およしよ。兄ちゃん!」突然横合からお照が口を出した。虎御前は祝い酒を聞こし召しているらしく、鼻に懸った声を出した。「余計なことを云いだすと、あたしが黙っちゃいないよ」
「おお、お照さん」僕はムカムカとしてきた。「僕は検事局の命令により君を逮捕することが出来るんだぜ」と云ってしまってから、僕は浅間しい威嚇をしたものだと恥かしくなった。
「なんだって? あたしを捕えるんだって。ヘン笑わせるじゃないか。なんだってあたしを捕えるんだい」
「知れたことさ。君は今夜、門前仲町の待合、紅高砂の前でピストルを撃ったじゃないか。撃っただけじゃない。高官に重傷を負わせた。その高官は誰だったと思っている。警視総監の黒河内さんを君は狙撃したのだぞ」
「いけすかないよ。この人は……。そんな脅しの手に誰が乗るもんかネ。あたしには警視総監なんぞ狙うわけはないんだよ」
お照は不貞腐れて天井の方に嘯いた。しかし内心大いに動揺している様子は隠せなかった。これを見ると、お照の覘ったのは総監ではなかったらしい。
「でも命中したのは、総監だった。弾丸は総監の……」
「二人とももう止せ!」と、「深夜の市長」は嗜めるように叫んだ。「とにかくそんな話は、此処ではして貰いたくない」
「いや、僕は云うだけは云います。実は今日までは、お照さんにも同情してきた。しかし今日という今日、お照さんは乱暴にも、あの尊敬すべき黒河内総監を撃ったのです。間違いにしろ撃って傷つけたのに、君は一向悔いていない」
と、僕はお照の鼻の先に人指し指をピッタリと向けた。
「なにが尊敬すべきなもんか。待合に足を踏み入れるような奴に碌な者がいるもんかネ」
「コレお照さん。黙らんかというのに!」
「深夜の市長」はジロリとお照を睨んだ。
「今夜は今も話していたように、もっと大事な仕事があるんだ。喧嘩などしているような時じゃないわ」といって、それから僕の方へ向き直り、「ところでお前さんに訊ねるがのウ」
僕は何とはなしにギクリとした。
「お前さんはこれから司法官として出世をするつもりか、それとも深夜の街をうろついていて、俺たちみたいな日蔭者に堕ちる気か、一体どっちかネ」
さあ――この単刀直入的な問いには、遉の僕もウムと呻ったまま、急に応えるべき言葉も見つからなかった。
「一体どっちの道を行こうというのかネ。司法官として出世するつもりなら、この際もう俺たちとは手を切って貰いたいネ。俺たちと交際っていれば、泥を握ることはあっても、黄金の冠を拾うようなことにはますます縁どおくなるよ」
僕はルンペン老人とばかり思っていた「深夜の市長」が、意外にも六ヶ敷いことを云いだしたので呆れるほど愕いてしまった。この唯者ではない「深夜の市長」の正体は何だろう。――
そのとき、最前から奇妙な器械の前に坐って、しきりに何かを調べていた街の科学者速水輪太郎がつと腰掛から立ち上って、こっちへ歩いて来た。
「さあ、時分は恰度よいようですが、出懸けましょうか」
「そうか。では出発としよう」
「深夜の市長」は立ち上ったが、急に眩暈でもしたらしく、フラフラと蹣跚いた。
「呀ッ、どうしましたッ」「もし、しっかりしてエ」
倒れようとする「深夜の市長」を、駆けよった速水とお照が、背後から危く支えた。
「うっ、痛……」
「深夜の市長」は真青になって、歯をギリギリと噛み合わせた。何か激しい疼痛が、彼を襲っているものらしかった。彼は左手でもって、右の腕を握り潰しそうに掴んでいた。そのとき僕はハッと胸を衝かれたように思った。そんなことがあるだろうか。それは暗合だろうか。もしや、もしや……。イヤそんな不思議なことがあってたまるものか。
「俺は駄目だ。俺に構わず、行ってくれ。機会を逸しては、折角の……」と「市長」は叫んだ。
「でも私だけでは、到底目的を達せそうもありませぬ」
「ウン、そうでもあろうが……」
「仲間のなかから、至急信用の置けるのを選びましては……」
「いかんよ、それは……。極秘が破れる。友人の名誉のために、T市の光輝ある歴史のために、それからまた……」
「なんだか知らないが、僕に手伝わせて下さい。僕はきっと秘密を守ります」
と、僕は立って、床に倒れた市長のところへ、近づいた。
「……」市長は髭の間から唇をブルブル慄わせながら、僕の方を見ていたが「おお、浅間君、では速水を助けて……T市の鍵を……秘密を守って……。明朝までに、市長に渡さぬと彼は……」
そこまでいうと、「深夜の市長」はまだ歯をギリギリと噛んで、ブルブルと慄えだした。――T市の鍵! 高屋市長!
「深夜の市長」が自らこの言葉を口にした! このルンペン老人の綽名は、やはり無意味ではなかったのだ。事情はよく分らないながら、彼と本物の市長との間には、とにかく一脈の縁の水路が続いていたのだった。――僕は跪いて「市長」の手を取ろうとすると、
「さあ行こう」
と、速水は僕の腕を抑えて引張った。
「でも、これじゃ『深夜の市長』を見殺しにするようじゃないかネ」
「仕方がない、後はお照に委せるんだ。躊躇している場合ではない」
後髪を引かれるような想いで、僕は速水と連れ立って、高塔を下りていった。階段を一つ下りるごとに、ズキンズキンと腰に痛みが響いた。しかし足を停めることは出来なかった。
「深夜の市長」が生命を賭けたT市の黄金の鍵のことを思えば……。
事務机の下を抜け、丸の内十三号館の窓を明けて、外へ出ようとすると、いきなり鼻先へパッと眩しい光線が爆発した。ハッと思って呼吸を停めたところへ、窓下から、
「試補さん、さあ私の手にお掴りなさい」
という声、よく見ると何のことだ。先刻この窓を攀じのぼるとき、お尻を持ち上げてもらった巡邏の警官だった。彼は今まで辛棒づよく、この窓下に待っていたものらしい。――同じように逡いだ街の科学者速水に、素早く耳うちをして愕く必要のないことを教えた。忠実なる警官は速水にも手を貸した上、尚も僕たちに附いて用をしたがる様子なので、これからの秘密行動に邪魔になって仕方がなかった。そこで、この館内には病人を看病している女が居るから、もし窓のところへ現われたら手を貸してやってくれと頼んで、ようやくのことで彼を窓下にピン附けにすることができた。そして僕と速水はそのまま薄く雪の積った深夜の舗道を走りだした。
「速水さん、一体これから、どうしようというのかネ」
僕は雪に足をとられそうなのを心配しながら、先刻から聞きたいと思っていたことを訊いた。
「T市の黄金の鍵を奪還するんだ」
「奪還? やっぱりねえ。……その黄金の鍵は何処にあるのかネ」
「市会の巨頭動坂三郎が持っている。これから彼の邸を襲って、奪還するのだ」
「失礼だが、君のような科学者に、泥棒のような忍び込みができるのかネ」
「心配無用!」
そう云い放って、街の科学者は腰のあたりをポンポンと鳴らした。何だろうと音のする方を見ると彼は何時持ちだしたのか、望遠鏡でも入っていそうな長い革袋を肩から斜めに懸けていて、それをポンポンと叩いてみせたのだった。その革袋の中には、いかなる品物が潜んでいるのだろう。