2話 空襲警報(2)
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高田の歩兵第三十連隊の本隊は、日本海を越えて其方面に出征していた。あとには留守部隊がのこっていたが、これには臨時に、三箇中隊の高射砲隊が配属されていた。
川村国彦中尉は、その第三中隊長だった。敵機をうち落す高射砲、プロペラの音によって、敵機の位置をさがす聴音機、空を昼間のようにあかるくパッと照らす照空灯などが、この中隊に附属していた。それらは川村中尉の自慢のたねだった。兵員と機械とがまるで一人の人間の手足のように、うまく動くのであったから。
営門をくぐるのも遅しとばかり、中尉はサイド・カーから下りた。そして、いそぎ足で、連隊長の室に入った。
「おお、川村中尉か」
留守連隊長の牧山大佐は椅子から立ちあがった。
「せっかくの休暇が台なしになったのう。……さあ、そこで連隊命令を伝える」
川村中尉は不動の姿勢で、連隊長の命令書を読むのをまった。
「第○野戦高射砲隊ハ、既定計画ニ基キ陣地ヲ占領シ主トシテ高田市附近ノ防空ニ任ゼントス。各中隊は速カニ出発シ、第一中隊ハ鴨島ニ、第二中隊ハ柳島ニ、第三中隊ハ板倉橋附近ニ、陣地ヲ占領スベシ。終」
いよいよ出動命令が発せられたのである。川村中尉は、固い決心を太い眉にあらわして、おごそかに挙手の敬礼をした。そして廻れ右をすると、活発な足どりで連隊長の室を出ていった。
「高射砲第三中隊あつまれ!」
中尉の号令を待ちかねていたかのように、部隊はサッと小暗い営庭に整列した。点呼もすんだ。すべてよろしい。そこで直ちに部隊は隊伍をととのえて、しゅくしゅくと行進をはじめた。
市街を南へぬけて左へ曲ると、そこは板倉橋だった。――中隊は橋を中心として左右に散って陣地をつくった。――聴音機の大ラッパは暗黒の空に向けられ、ユラリユラリと重そうな頭をふった。敵機の来る方向はいずこだろう?
不気味な夜は、音もなく更けていった。
午後九時になると、とうとう非常管制が布かれた。サイレンの唸、ラジオの拡声器から流れてくるアナウンサーの声。「空襲、空襲!」と叫びながら走ってゆく防護団の少年。「灯火をかくして下さァい!」と消し忘れた家の戸を叩くけたたましい音。……そんなものがゴッチャになって、町や村は必死の非常管制ぶりだ。
午後九時半、○○海に出動していた第四艦隊から報告が来た。
「艦隊ハ午後九時二十分北緯四十度東経百三十七度ノ洋上ニ於テ、高度約二千米ヲ保チ、南東ニ飛行中ノ敵超重爆撃機四機ヲ発見セリ、直チニ艦上機ヲ以テ急追攻撃セシメタルモ、天暗ク敵影ヲ逸スルオソレアリ」
これで敵機の強さがわかった。やはりS国が世界に誇る超重爆撃機をもって攻めてきたのだ。それは、一台にすくなくとも五トンの爆弾を積んでいるはずだ。爆弾にもいろいろあるが一トンの破甲弾なら、十階の鉄筋コンクリートのビルディングも、屋上から一階まで抜けてメチャメチャになる。しかし敵機の持ってくるのは大部分が焼夷弾であろう。これには一キロ以下のや二十キロ位のやいろいろある。落ちて来るとたちまち三千度の熱を出し、鉄でもなんでもトロトロに焼き熔かしてしまうのだ。この焼夷弾をドンドン落して、日本の燃えやすい市街を焼きはらってやろうというのが、敵の作戦なのだ。
また、なかには恐ろしい毒瓦斯弾も交っているかも知れない。その毒瓦斯にもいろいろある。
それをまかれると、やたらにクシャミがでて、しまいには頭痛嘔吐になやむジフェニール、クロールアルシンなど、また涙がポロポロ出てきて、眼があけられず、胸が痛みだすというピクリン瓦斯。また嗅げば肺臓がはれだし、息がとまって死ぬようなことになるホスゲン瓦斯、もっとひどいのはイペリット瓦斯で、身体に触れるとひどくただれ、大きな水ぶくれができ、だんだん目や肺や胃腸をわるくしてゆくという恐ろしいものだ。その外にもまだ秘密にしている新毒瓦斯があるというから、それも持ってきて撒くにちがいない。――ああ、地獄の世界は、見まいとしても、もう一時間か二時間のうちに、見られるのではないか。われらの準備はできているかしら。……
突如、高射砲陣地に、連隊からの警報電話が入ってきた。
「第四艦隊発警報。――敵ノ超重爆撃機二機ヲ、遂ニ南方ニ見失エリ。他ノ一機ハ高角砲ニヨリ粉砕シ、他ノ一機ハ海中ニ墜落セシメタリ。本艦隊モ駆逐艦一隻損傷ヲ受ケタリ」
「超重爆撃機二機ヲ南方ニ見失エリ」――ああ、それではいよいよやって来るぞ。
おお、憎むべき空魔!
その空魔は、いまや刻一刻、わが海岸に近づきつつある。……
深夜の空襲
ピカリ――
と、暗黒の空に、真青な太い柱がとびあがった。
照空灯だ!
太い光の柱は、生物のようにぐうっと動きながら、夜の空をかきまわした。それにぶっちがいに、また地上から別の照空灯の光がサーッと閃いた。どっちも、同じような場所を探している。――とたんに、いいあわしたように、光の柱はパーッと消えた。あたりは再び闇となった。しかし照空灯の強い光の帯だけが、いつまでもアリアリと眼の中に残っていた。どっちもかなり遠方で、方角からいうと、直江津よりもだいぶん東の方だ。海岸に陣地をしいている部隊が敵機を探しているのらしい。
川村中尉は、聴音機の上にとびのって、聴音手のそばにピッタリ身体をよせていた。さっきまで首をふっていた大きな聴音ラッパは、今は天の一角をさしてすこしも動かない。――ついに敵機の爆音をとらえたらしい。
ヒラリと中尉は地上にとび下りる。
ピリピリピリピリ。
注意せよ?――というしらせだ。
「……各個に対空射撃用意ッ!」
だが、高射砲はまだ沈黙して、ウンともスンともいわない。
そのときゴウゴウゴウと、天の一角から、底ぢからのある聞きなれない怪音がひびいてきた。――すわッ! 敵機近づく!
その刹那だった。
サーッと、白竜のように、天に沖した光の大柱! それが、やや北寄りの空に三、四条、サーッと交叉した。
とたんに、空中に白墨でかいたようにまっ白に塗られた怪影があらわれたのだった。――兵はブルンと慄えた。恐ろしいからではない。待ちに待った敵機をついにとらえたからだ。なんとも奇怪なS国超重爆撃機の形!
ドドドドーン。
ダダダダーン。グワーン、グワーン。
照準手が合図を送ると、砲手が一イ二ウ三イと数えて満身の力をこめて引金を引いたのだった。
ズズーン。
グワーン、バラバラバラバラ。
天空高く、一千メートルとおぼしき高度のところに、ピカピカピカピカと、砲弾が炸裂して、まるで花火のようだ。
だが敵機は、照空灯を全身に浴びたまま、ゆうゆうと砲弾の間を飛んでいる。
「ウヌ、ちょこ才な……」
高射砲にはすぐに新しい七十ミリの砲弾がつめかえられ、砲手はすばやく引金を引いた。砲弾は、ポンポンと矢つぎばやに高空で炸裂する。しかし敵機は憎らしいほど落ちついている。――そればかりか、機体の腹のところについていた縞が崩れて、なにか白いものがスーッと落ちてきた。
「あッ、やったぞ、爆弾投下だッ……」
誰かが大声で叫んだ。
白い爆弾の群は、斜に大きな曲線をえがいて落ちてくる。……一秒、二秒、三秒……。
ヒューッ、ウウーンという不気味な唸音をきいたかと思ったその瞬間、
グワ、グワ、グワーン。
ドドドドーン。
ガン、ガン、ガン、ガン。
目がくらむような大閃光とともに、大地が海のようにゆらいだ。ものすごい大爆発! まぢかもまぢか、聴音機の大ラッパがたちまちもげて火柱の間を縫うように吹きとんでゆく。それをチラリと見たが……。
「ウウーン。ば、万歳!」
悲痛なさけびごえ。
それにしても、ものすごい狙だ。わが部隊をぶっつぶそうとてか、破甲弾をなげおとしたのだった。
「……照準第一、あわてるなッ」
どこからか、川村中隊長のさけぶ声が響いてきた。
「中隊長どの、平気の平左であります……」
タダダダーン。シューッ。ダダダダーン。
勇猛なる兵は、手足をもがれても、部署から離れぬ。砲弾は、照空灯の光の柱をおいつづける。もう一弾!
それ、もう一弾!
ピカピカピカと、空中に奇妙な閃光が起ると見る間に、ぶるンぶるンと異様な空気の震動――とたんにパッと咲いた真赤な炎! あッという間もなくメラメラと燃えひろがり、クルクルクルとまわりだした。
「うん、命中だ。敵機は墜落するぞう!」
「バ、バンザーイ」
敵機は、すっかり炎につつまれて、舞いおちる。……
「……さあ、残るはもう一機だッ。もう一がんばりだ。はやく探しあてるんだ」
伸びくる毒の爪
それまで直江津の町は、幸いにも、夜襲機の爆撃からまぬかれていた。
旗男は、不安な面持で、高田市方面と思われる方角の空と地上との闘いをみつめていた。空中に乱舞する照空灯、その間に交って破裂する投下爆弾、メラメラと燃えあがる火の手、遠くからながめても恐ろしい焼夷弾の力!
「あれが、この町の上に降ってきたんだったら、今ごろは冷たい屍になっているかもしれない……」
町いったいは、申分のない非常管制ぶりだった。直江津の全町は、まったく闇の中に沈んでいた。旗男は、この町の防空訓練のゆきとどいていることに感心していた。
そのとき、けたたましく半鐘が鳴りだした。
「オヤッ……」
と思って、ふりかえってみると、火事だ。近くの国分寺の方角だ。
「オヤオヤ、変だぞ」
火事は一箇所と思いのほか、町の南にあたる安国寺の方角にも起っている。そこへもう一つ、東の方に現れた――黒井の窒素会社の方角だ。――爆弾もなにも降ってこないのに、一時に三箇所の火事だなんて、どうもおかしい! と、思っていると、少年が二人ほど自転車にのって通りかかった。彼等は声を合わせてどなってゆく……。
「火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい。一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう」
「ナニ、S国のスパイ」
スパイは、だにのようにしつこく、この直江津の町に食いついているのだった。なぜ、この小さい港町が、スパイにねらわれるのだろう。同時に三箇所から起った火事というのも不思議だったが、やがて町の人には、そのわけがわかるときが来た。それは突然、音もなく町の上に落下してきた爆弾の雨!
「焼夷弾だッ……」
と気がついたときには、既に遅かった。
いわゆる爆弾とよばれる破甲弾や地雷弾とちがって、あまり大きな破裂音をたてない。だが投下弾は、民家の屋根を貫き、天井をうちぬいて畳の上や机の横に転がり、そこではじめてシュウシュウと、目もくらむような眩しい光をあげて燃えだすのだ。
そしてアレヨアレヨという間に畳も柱もボーッと燃えだした。たちまち室内は一面の火の海となり、なおも隣家の方へ燃えひろがっていった。
まったく手の下しようもない。みるみる火勢はものすごさを加えていって、往来へとびだしてみると、もう屋根の上へ真赤な炎が、メラメラと顔をだしていた。早く逃げなければならないが、この強い火の海にとりまかれてはどちらへ逃げてよいかわからない。まったく気のつきようが遅かった。三十秒以内に、落ちた焼夷弾のまわりの畳や襖や蒲団などの燃えやすい家具に、ドンドン水をかけてビショビショに濡らせばよかった。すると焼夷弾がクラクラに燃えさかり、はげしい火の子を吹きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。
焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった。
行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた。
「姉さん、逃げましょう――」
旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた。
「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければね。もう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん。早くこれをかぶんなさい」
さすがに軍人の家庭は用意がよかった。
旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった。
「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」
「ええ……」
旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ。早く帰らないと申分ない。
そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。
「さァ、姉さん、はやく……」
姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりた。そのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。
廂からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が濛々と渦をまいて追ってくる。……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。
「おお……」
旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した。――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった。姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。
真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていた。すさまじい火勢が、家ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ。
「あッ、姉さん、あぶないッ!」
と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の上に崩れおちてきた。――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。
避難民
どこをどう逃げてきたか、よくわからなかった。とにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道をまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出した。
(なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう?)
そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを掠めたとき、彼はとつぜん気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていた。それから先、どうして逃げたかわからない。
どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい。
(ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかったせいだ。敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?)
旗男は心配と口惜しさで、腸がちぎれるように感じた。
あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない。僅かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしい。だが非常管制はそのまま続けられているらしい。
「元気を出さなきゃあ……」
と、旗男は自分自身にいいきかせた。そして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。
畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた。
(これでやっと歩きよくなる――)
と思って、彼は悦びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。
(オヤ、どうしたんだろう?)
旗男はこわごわ傍へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった。誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で咽喉のあたりを掴んでいた。
「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を撒きちらしていったんだ」
旗男も、姉から防毒面を貰わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう。
それにしても、なんという憎むべき敵!
ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん夥しい避難者の列にぶつかってしまった。狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から挟みつけられて、キュウキュウいっていた。それも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった。
「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」
「さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……」
「うわーッ」
蜂の巣をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない。群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。
「あわてちゃいかん」
「流言にまどうな。落着けッ!」
声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを鎮める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していった。ああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか?
旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった。
「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩いて下さい。この方角は駅の前へ出ます。……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」
群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っている。それだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた。
旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは春日山駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だった。ちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた。
旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。
――東京はどうだろう? 病身の両親や、幼い弟妹などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。
疾走する暗黒列車