4話 棺桶の花嫁(4)
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「よう、あんたァ、――」
と、お千が追いすがるようにして、後方から声をかけた。
「……」
杜はお千の声を聞いてピクンとした。しかし振り向き返りもしないで、相変らず黙々としてズンズン歩いていった。
「よう、何処まで行くのさあ。――」
それでも彼は黙って歩みつづけた。
するとお千がバタバタと追いついてきて、彼の腕をとらえた。
「こんな方へ来てどうするの。柳島を渡って千葉へでも逃げるつもりなのかネ」
でも、彼は執拗に黙っていた。お千は怒りを帯びた声で、
「チョッ」と舌打をし、彼の腕を邪険にふり解いた。
「なんだい、面白くもない。黙って見ていりゃ、いい気になってサ。いくら年が若いたって、あのざまは何だネ。あんな乳くさい女学生にゾッコン惚れこんで、手も足も出やしないじゃないか。あたしゃ横から見ていても腹が立つっちゃない。お前さんはなかなかしっかりもんだと思って、あたしゃ前から――イエ何さ、しっかりした人だと思ってたのさ。ところが今のざまですっかり嫌いになっちゃった。嫌いも嫌いも大嫌いさ。あたしゃもうお前と歩かないよ。飛んだ思いちがいさ。大河から土左衛門の女でも引張りあげて、抱いて寝てるがいいさ。意気地なしの、大甘野郎の、女たらしの……」
お千はまた興奮して、地団太を踏み、往来の砂埃をしきりと立てていた。
杜は後向きになって、じっと足を停めていた。
「じゃお前さんともお別れだよ。あたしゃ好きなところへ行っちまうよ。――ああ、あのとき横浜の崩れた屋根瓦の下で焼け死んじゃった方がどんなに気持がよかったか分りゃしない。薄情男! 女たらし!」
そのとき杜は、顔をクルリと廻して、お千の方を見た。お千は不意を喰らって狼狽し、開きかけた口を持て余し気味にただ大きな息を呑んだ。
杜はツカツカとお千の方に寄っていった。彼の勢いに呑まれたお千がタジタジとなるのを追いかけるようにして、杜はお千の手首をムズと補えた。肉づきのいい餅のように柔かな手首だった。
「――僕と一緒についてくるんだ。逃げると承知しないぞ」
「ええッ。――」
「意気地なしか大甘野郎かどうか、君に納得のゆくようにしてやるんだッ」
杜はお千の手首を色の変るほどギュッとつかんで、サッサと歩きだした。杜のこの突然の変った態度を、お千はどう理解する遑もなく引張られていった。手首は骨がポキンと折れてしまいそうに痛んだ。その痛みが、彼女の身体に、奇妙な或る満足感に似たものを与えた。お千は引摺られるようにして、でも嬉しくもなさそうに眼を細くして、杜の云いなり放題にドンドン引張られていった。杜は柳島までも行かなかった。丁度吾妻橋と被服廠跡との丁度中間ほどにある原庭町の広い焼け野原のところ――といっても町名は明かではなく、どこからどこまでも区切のない茫漠たる一面の焼け武蔵野ヶ原であったけれど――この原庭と思われる辺に来て、杜は不図足を停めた。
「この辺がよかろう」
杜は誰に云うともなくそう云った。
側らには小さな溝が、流れもしないドロンとした水を湛えている。それから太い大樹の無惨な焼け残りが、まるで陸に上った海坊主のような恰好をして突立っている。なんだか気味のわるい不吉な形だった。すこしばかりこんもりと盛り上った土塊や、水の一滴もない凹み、それから黒くくすんでいる飛石らしいのが向うへ続いて、賑かに崩れた煉瓦塀のところまで達している。どうやら此処は、誰かの邸宅の庭園だったところらしい。
杜は怪訝な顔つきをしているお千の方に振りかえった。
「――さあ、まず焼けトタンを十枚ほど拾いあつめるんだ――」
杜は手をふって、お千に命令を下した。
お千は杜の権幕に愕いて、命令に服従した。そして邸跡にトタン板を探しはじめた。
「オイ、早くしろ。腕なんか釣っているのをよせッ。両手を使ってドンドンやるんだ」
お千は目を瞠って、釣っていた左の手を下ろした。
トタン板が集められると、こんどは柱になるような木が集められた。溝の中に落ちていた丸太やら、焼け折れている庭木などが、それでも五、六本集められた。つづいて水びたしになっていた空虚の芋俵が引上げられ、その縄が解かれた。太い針金が出てきた。
そうした建築材料が集まると、杜はそこに穴を掘って棒を立てた。それから横木や、床張りの木を渡し、屋根には焼けトタン板を何枚も重ねあわした。――バラック建がこうして出来上った。もう正午に近かった。
二人は救護所まで出かけて、昼食の代りにふかし芋を貰ってきた。それを喰べ終ると、二間ほどある縄切れを持って、拾い物に出かけた。
欲しいものは、なるべく大きな板切れと、なるべく広い布であった。それにつづいて蓆か綿か、さもなければ濡れた畳であった。
二人は眼を光らせて、それ等のものを探して歩いた。はじめは、焼け跡に立ちかけている本物のバラック建の家や、河や溝の中を探しまわっていたが、そのうちにそんなところよりもむしろ罹災者あての配給品が集まってくるところの方に、物資が豊かであることに気がついた。それは多くは橋の袂とか、町角とかに在った。
欲しいものは、たいてい重かった。二人の力はすぐに足りなくなった。一つの俵を引きずって帰っては、また駈け足をしていって、別な一つの函を担いで帰るという有様だった。
でも人間の一心は恐ろしいもので、かなり豊富な畳建具の代用材料が集まった。そのときはもう日がすっかり傾いて、あたりはだんだん暗くなっていった。
二坪ばかりの小屋のうち、僅かに一坪ほどの床めいたものを作り、その上に俵をほぐして、筵を敷いた。その上に藁を載せた。どうやら寝床のようなものが出来た。
まだ作らなければならぬものが沢山あったけれど、もうあたりが暗くなって駄目だった。途中で貰ってきた手拭づつみの握り飯を二人で喰べると、昼間の疲れが一時に出てきた。
二人はだいたい睨み合って、無言の業をつづけていたが、疲労から睡魔の手へ、彼等はなにがなんだか分らないうちに横にたおれて前後不覚に睡ってしまった。
次の日の暁が来たのも、もちろん二人は知らなかった。どっちが先とも分らず目が覚めたが、そのときはもう太陽が高く上っていて、バラックの外には荷車がギシギシ音を立てて通ってゆくのが聞えた。
杜は目が覚めたが、何もすることがないので、そのままゴロリと寝ていた。頭と足とを逆に寝ていたお千は、藁の中に起きあがった。そして下駄をつっかけると、天井の低い土間に突立って、物珍らしそうに小屋のうちを眺めまわした。お千がなんとなく嬉しそうにニコリと微笑んだのを、杜は薄眼の中から見のがさなかった。
お千が小屋の外に出てゆくと、間もなくガヤガヤと元気な人声がした。なんだか木の箱がゴトンゴトンとかち会う音などが聞えた。なんだろうなと思っているうちに、お千がヌッと小屋のなかに入ってきた。彼女は両手に沢山の品物を抱えていた。
「あんた、こんなに貰ったのよ。みな配給品だわ。林檎もあるわ。缶詰に、ハミガキに、それから慰問袋もあんたの分とあたしの分と二つあるわよ。――さあ起きなさいよォ」
お千はすっかり機嫌を直していた。
配給品が時の氏神であった。二人はそれを並べて幾度も手にとりあげては、顔を見合わせて笑った。
「昨日のことは――あのことは、あんた忘れてネ。あたし、どうかしていたのよ。いくらでも謝るわ」
お千はいい潮時を外さず、愧ずかしそうに素直に謝った。
「うん、なァに、なんでもないさ。――」
杜はいままでに一度も懸けたことのない優しい言葉を云った。その優しい言葉は、お千に対してよりも、自分自身の侘しい心を打った。彼はなんだか熱いものが眼の奥から湧いてくるのを、グッと嚥みこんだ。
8
昨日に続いて、杜とお千とは、また連れだって拾い物に出かけた。
ちょっとした煮物の出来る竈も出来たし、ミカン函を改造して机兼チャブ台も作った。裏手には、お千のために、往来からは見えないように眼かくしをした軽便厠をこしらえた。入口には、杜の名をボール函の真に書いて表札のつもりで貼り出した。名前の横には、彼の勤め先である商会の名も入れて置くことを忘れなかった。
こうして、どうやら恰好のついた一家が出来上った。拾い集めて来た材料は、むしろ余ったくらいであった。しかしそれが今の二人には堂々たる財産なのだった。
「あんた、お金持ってないの」
「うむ。――少しは持っているよ。三円なにがし……。なんだネお金のことを云って」
「あたしはもうお金がないのよ、ずっと前からネ。それであんたお金持っているんなら、蝋燭を買わない。今夜から、ちっと用のあるときにつけてみたいわ」
「なァんだ、蝋燭か。君は暗いのが、こわいのだな」
「こわいって訳じゃないけれど、蝋燭があった方がいいわ」
「よし、とにかく買おう。じゃこれから浅草まで買いにゆこうよ」
もう日暮れ時だった。
二人は吾妻橋を渡って、浅草公園の中に入っていった。仲見世はすっかり焼け落ちて、灰かきもまだ進まず、殆んど全部がそのままになっていた。ただ道傍や空地には、カンテラや小暗い蝋燭を点して露店が出ていた。芋を売る店、焼けた缶詰を山のように積んでいる店、西瓜を十個ほど並べて、それを輪切りに赤いところを見せている店、小さい梨を売る店――などと、食い物店が多かった。
蝋燭は、仁王門を入ったところの店に売っていた。杜はお千と相談して、五銭の蝋燭を四本と、その外に東北地方から来たらしい大きな提灯一個八銭とを買った。
「おお、生ビールがあるじゃないか。こいつはいい。一杯やろう」
杜は思いがけない生ビールの店を見つけて舌なめずりをした。彼はお千を手招きして、二つのコップの一つを彼女に与えた。杜の腸に、久しぶりのアルコールがキューッと浸みわたった。なんとも譬えようのない爽快さだった。
彼は更にもう一杯をお代りした。
お千はコップを台の上に置いて、口をつけそうになかった。
「お呑みよ。いい味だ。それに元気がつく」
そういって杜はお千にビールを薦めた。お千は恐る恐るコップに口をつけたが、やはりうまかったものと見え、いつの間にかすっかり空けてしまった。しかしもう一杯呑もうとは云わなかった。
三ばいの生ビールが、杜をこの上なく楽しませた。思わない御馳走だった。震災以来の桁ちがいの味覚であった。彼はお千に、では帰ろうと云った。お千は、ちょっと待ってと云いながら、ビールを売る店のお内儀にコソコソ耳うちしてそのうしろの御不浄に出かけた。
やがて二人は、小暗い道を、ソロソロ元来た方に引返していった。
雷門を離れると、もう真暗だった。そこで買って来た提灯をつけたお千は吾妻橋の脇の共同便所の前で、杜を待たせて置いて、また用を達しに入った。
吾妻橋は直したと見えて、昨日よりも遥かに安全に通りやすくなっていたが、それでも提灯の灯があればこそ僅かに通れるのであった。しかし夜のこととて、壊れた橋の態やら、にごった水の面などが見えなくて、かえってよかった。
橋を渡りきって、石原の大通りを二人が肩を並べて歩いているときのことだった。
「ねえ、あんたァ。あたしどうも辺なのよ。またおしもに行きたくなった」
「フフン、それはビールのせいだろう」
「いいえ、けさからそうなのよ。とてもたまらないの。また膀胱カタルになったと思うのよ。――」
とまで云ったお千は、急に身体をブルブルッと慄わせた。そして彼に急を訴えると、その場にハタとしゃがんで、堤を切ったような音をたてて用を達した。杜は提灯片手に、その激しい音を聞きながら、あたりに注意を払っていた。――お千は絶対無我の境地にあるような姿勢をしていた。
杜はその夜、小屋にかえってから、遂にお千の身体を知った。
志操堅固な杜だったけれど、どういうものかその夜の尿の音を思いだすごとに、彼はどうにも仕方のない興奮状態に陥ってしまい、その後もその度に、彼は哀れな敗残者となることを繰りかえした。
十七日から、彼は丸の内へ出勤することになった。商会は焼け跡に、仮事務所を作り、再び商売に打って出ることになったからである。
「ね、早く帰って来てネ。後生だから……」
とお千は杜の出勤の前に五度も六度も同じことを繰返し云った。
「うん、大丈夫だ。早く帰ってくる。――」
そういって出かけたが、彼の帰りは、いつも日暮時になった。
お千は門口に彼の帰ってきた気配がすると、子供のように小屋の中から飛んで出て来た。そして半泣きの顔にニッと悦びの笑みを浮べ、そしてその後で決ったように大きな溜息をつくのであった。いつもきまってそのようであった。
「きょうネ」とお千は或るとき彼を迎えて夕炊の膳を囲みながらいった。
「ホラこの前吾妻橋の上で行き会ったあんたのいいひとネ。あの女学生みたいな娘がサ、向うの道を歩いていたわよ。あんた嬉しいでしょう。――まあ憎らしい」
などといって、はてはキャアキャアふざけるのであった。
またその後の或る日の出来ごとだったが(後で考えるとそれは二十三日のことだったが)彼が会社から帰ってみるといつもは子供のように胸にとびついてくる筈のお千が、迎えに出もせず、小屋のなかに蒼い顔をしてジッと座っているのを発見した。彼は、留守中なにごとかあったのだなと、すぐ悟った。
「いやに元気がないじゃないか。どうしたんだ」
と問えば、
「いえ、なんでもないの」
と、お千は蒼い顔を一層蒼くして、強くかぶりを振った。
「変だな。何かあるんだろう。云ってみたまえ」
彼女は、もう口を堅く閉じて首を左右に振った。
杜はどうしてお千に真実を云わせたものだろうかと、首をひねって考えていた。
「ごめんなさいまし。――」
そのとき門口に、男の声で、誰か訪う者があった。
「あッ、――」
とお千は、電気に懸ったように飛び上り、すぐさま門口に両手を拡げて立ちふさがった。
「あんたは出ちゃいけない。なんでもよいの。あたしが話をつけるから……」
そういっているとき、入口の幕をおし分けて、五十がらみの大きな男の顔がヌッと現われた。彼の顔は、渋柿のように真紅であった。
「いやあ、これはお安くないところをお邪魔仕りまして、なんとも相済みません、ねえ、こちらの御主人さんへ――」
五十男は、不貞不貞しい面つきで、ノッソリ中へ入ってきた。
「き、君は何者だ。ここは僕の住居だ。無断で入ってくるなんて、君は――」
「はッはッはッ、無断で無断でと仰有りますが、実はこのことについて貴公に伺いたいのだ」
「なんだとォ――」
と、杜も強く云いかえした。
「フン、お千がたいへんお世話になっていまして、お礼を申上げますよ。貴公は、人の女房にたいへんに親切ですネ」
「なにッ――では君は」
「もちろんお察しのとおり、私はお千の亭主でさあ。区役所の戸籍係へ行って調べてきたらいいだろう。よくも貴公は、――」
「ああ、そうだったか。貴方は、死んだことと思っていたが――」
「ちゃんと生きていらあ。貴公にもそれがよく見えるだろうが。さあどうしてくれる」
「さあ――」
といっているところへ、表の方で、なんだか意味はわからないが、呼んでいるような声がした。すると五十男は、急に慌てだし、
「ちえッ。――まあそのうち、改めて来るから、そのときは性根を据えて返答をしろ、いいかッ」
と云い捨てて、裏の便所の方から、大狼狽の態で出ていった。杜はホッと溜息をついた。
お千も同じように、ホッと吐息をついた。そして彼の方に媚びるような視線を送って、
「――あいつは悪い奴なのよ。あたしの本当の亭主じゃなくて、その前にちょっと世話になっていた麹町の殿様半次という男なのよ。明るいところへ出られる身体じゃないんだけれど、どういうものか今は飛びあるいていて、きょう昼間、運わるくあたしを見かけて因縁をつけに来たのよ。あなた心配しないでネ」
「でも、こうなっては僕も――」
「心配いらないのよ。あたしに委せて置いてちょうだいよ」
「そうだ、丁度会社の方も仕事を始めて、給料をくれることになったから、どこか焼けていない牛込か芝の方に家を見つけて移ろうか。それともここで君と――」
「いやいやいや」とお千は大きくかぶりを振って、その先を云わせなかった。
「引越した方がいいと思うわ。あたし、どこへでもついてゆくわ」
そういったお千は、そこでまた身体をブルブルと慄わせると、慌てて座を立って、奥へ駈けこんだ。
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