6話 第一、南球往航日記(ホンコン、カントン、マニラ紀行) 六、マニラ行およびその風俗
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十五日、晴れ。暁来、暑気大いに加わる。風静かに波穏やかなるも、シナ海のひろき、終日一物の目に触るるなし。
茫茫支那海、唯見水連空、赤道将非遠、満帆三伏風、
日沈暑威減、風転晩涼従、月下船南進、雲涯是呂宋。
(ひろびろと果てしない支那海は、ただ水と空と連なっているのをみるのみである。赤道もそれほど遠くではなく、帆は夏三伏のような暑気の風をはらむ。日落ちて暑さの猛威もようやくおとろえ、風は一転して夕暮れの涼をともなう。月のもと船は南に進み、雲の果てこそが呂宋である。)
当夕より晩食にアイスクリームを出だし、夜中電扇を動かす。
電扇送風使夢醒、深更何響枕頭聴、或疑隔壁群蜂叫、又訝衆僧遠誦経。
(扇風器が風を送り夢より見覚めさせ、夜もふけて何の響きか枕元にきこえてくる。その響きはあるいは壁のむこうで蜂の群れが飛ぶ音かと思い、また多くの僧侶が遠くで経を誦しているかとあやしむのであった。)
四月十六日(日曜)、晴れ。ヤソ昇天日なれども、日本船なれば、船中にて礼拝式を行わず。早朝よりフィリピン群島を望見して進航す。
晴波涼月汽声閑、船向南辰星下攀、暁入玻窓何処影、摩尼拉海呂宋山。
(はれやかな波と涼しげな月、汽笛の音ものどかに、船は南方の星の下をよじのぼるように行く。あかつきにはガラス窓にいずこかの陸影がみえた。それは摩尼拉湾の呂宋の山である。)
午時、マニラ湾に入港。三時より八木船長とともに上陸し、馬車を駆りて領事館に至る。当所は昨今酷熱の候にして、わが八月の暑気以上なり。昼間の温度は九十度に上るも、日没後は大いに清涼を覚ゆ。副領事杉村恒造氏とともに電車に駕して市内を巡見し、公園に佇立して楽隊の奏楽を聞く。当日はイースターの大祭日なれば、園内の群集一方ならず、その人数、万余に及ぶ。これより杉村氏の好意により、メトロポリタンホテルにて晩餐をともにす。料理はスペイン式にして、多少趣を異にするところあり。しかして建築はフィリピン式なり。夜九時、杉村、八木両氏と相伴って帰船す。
マニラ市はフィリピン群島三千七百州の首府にして、その中の最大島たるルソン島にあり。ホンコンよりここに至る海路、六百六十マイルとす。市中の人口二十二万ありて、そのうち一万人は外国人なり。周囲は平原にして、山岳望中に入る。樹木の日光を遮るなく、汚水の諸方に滞留するあり。人家は多く二階建てなり。室内は土間のままにて床を張らず。別にシナ街あり、日本街あり、四百人前後の日本人、なおここに住すという。当地の風俗として第一に旅人の目に映ずるものは、婦人の服装なり。その両袖の張りたるありさまは、蝉または蝶の羽を開きたる形に似たり。わが昔時のカミシモは、この服装より起こりしならんとの説あり。また、わが昔話の三保の松原の天の羽衣は、フィリピン人の服を見て想像をえがきたるものならんとの説あり。物を運ぶに、女子のみならず、男子まで頭戴をなす。炎天に道を行くに、すべて傘を用いず。また、土人は手に入れ墨をするを常とす。村落に入れば顔にも入れ墨すという。西洋人にしてここに住するものの多数は、手に入れ墨をなせるを見る。これ、好奇に出でたるものなるべし。遊戯、娯楽につきて、その最も盛んなるものは闘鶏の一事なり。鶏の足に刃物を結束し、死生を決するまで闘わしむという。宗教は概してヤソ旧教にして、寺院にはすこぶる広壮なるものあり。草木は台湾南部に似て、芭蕉、檳榔および荊竹多し。また、水牛を用うることも台湾に同じ。小舟は木身竹屋より成り、竹を編みて屋根をおおう。また、船の両側に竹縁を有す。これをこぐにはシャモジ形の板を用うるもまた奇なり。余が所見を賦したる詩および歌、おのおの二首あり。
肥馬軽車街路平、無風無樹暑如烹、日将暮処涼先動、女似飛蝉張翅行。
(肥えた馬と軽やかな車のゆく街路は平らかに、風なく樹もなくにるような暑さである。日が暮れようとするときに涼しさがまず起こり、女性は飛ぶ蝉のように袖をひるがえして行くのである。)
呂宋第一都、苦熱骨将枯、日落涼風起、六根漸覚蘇。
(呂宋第一の都会は、はなはだ熱く、骨も枯れ果てるかと思われた。日暮れて涼風が起こり、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)はようやく生き返る思いがしたことだった。)
吹く風も流るゝ水も熱ければ、マニラや熱の地獄なるらん
夏よりも暑きマニラの旅枕、わが故郷の風ぞこひしき