97話 付録 二、大西洋上より哲学会に寄せたる書翰
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その後、南インド洋七千マイルを横断して南アフリカへ直航。船客は約三百人乗り込みおり、これに船員二百人を加うれば、合計およそ五百人となる。その中にオーストラリア人、南アフリカ人、イングランド人、スコットランド人、アイルランド人の別あれども、要するに大英人種のみである。その中に僧侶二人、医師、軍人、教員、画工、新聞記者各一人ずつあり、その他は農工商にして、なかんずく会社商店の番頭、手代、鉄道土木の技師、技手の人が最も多いように見受けたが、その過半は父子夫婦または兄弟のごとき一家眷族を引きまとめて乗船しておるから、つまり人口五百人の一村落が海中に浮かんでおるようのものです。その人たるや三等船客と申すものの最下等の労働者でなく、中等社会および下等中の上等に属する方である。その多数の中には、日本は赤道の南にあるか北にあるかとたずねるものもあり、豪州と日本といずれが大なるやと問うものもあるくらいなれば、知識の程度の低いものも加わりておる。
まず第一の奇談は、船中にて乗客の姓を印刷したる表を一同に配付せられたが、その中に拙者の名前がドクトル井上とありたるために日本の医者なりと誤解せられ、ある日、隣室に一時の眩瞑を起こしたる病人が起こり、拙者に向かい、「君は日本のドクトルというを聞いたが、チョット病人を診察してくれ」と頼まれた。拙者はこれまで諸方を旅行していろいろに誤解されたことあるも、医者と見られたことは今回がはじめてである。そのときに拙者の名刺を示し、「ドクトルには相違なけれども、ドクトル・オブ・メディシンにあらずして、ドクトル・オブ・フィロソフィーであるから、医術とは全く関係がない」といって断った。しかるに名刺には Dr. ph. と略記してあるために、ドクトル・オブ・フィジックスと解し、日本の物理博士と申した者もある。船客中には本職の医者が一人いたが、その姓をペーン(Pain)と称しておる。船中の評に、一切のペーン引き受け所という義であろうと申すから、拙者が「日本語ではドクトルは毒をとる意味である」と助言した。そうすると一同が、ドクトル・ペーンは和英相通じて医者相当の名であるとの評が起こった。つぎに、拙者の井上の字義はいかんとたずねられたるに対し、「英語にてアポン・ゼ・ウェルとでも訳すべき字である」と申したれば、ドクトル・アップ・ウェルとの異名を付けられた。
また、船客中に一人のユダヤ人がおったが、拙者が哲学者であるというを聞きて、「哲学者中にスピノザと名づくる人物があるが知っておるか」とたずねたから、「スピノザは哲学者中の泰斗にして、拙者の平素崇拝しておる一人である。先年、わざわざオランダのハーグ市へ立ち寄りて、同氏の銅像を拝したこともある」と申したれば、ユダヤ人は得意になりて、「そのスピノザは元来ユダヤ人でありて、ユダヤ人中の大学者である」と説明して聞かせしもおもしろかった。
船中にては各週日曜、朝夕二回礼拝式があるが、その主祭は船客中の僧侶二人が代わり合って引き受けることに相談がまとまった。一人は英国宗(チャーチ・オブ・イングランド)、一人はプレスビテリアン宗であるが、この二宗とも新教なれば、ともかくも一致ができる。しかるに旧教徒が船客の三分の一を占めておるが、新旧の間はなかなか一致がむずかしい。平素の交際にはなんらの隔てもないが、日曜のソルビスのときに判然と旗色が分かれ、新教徒はことごとく出席するも、旧教徒は一人もこれに加わらぬ。
さきに、拙者が豪州シドニー客中に、旅行の目的に関し尋問を受けたるに対し、「滞在中、事情の許す限り宗教と教育との情態を視察したいものである」と答えたれば、その話がだんだん伝わりて、同市発行の滑稽雑誌に、英国宗の僧正とローマ教の僧正と互いに拳闘しておる図を掲げ、その中間に拙者が平座して、傍観しながらあきれておる図をそえてあった。
つまり、豪州にては国教宗が新教諸派を代表して、旧教とたえず論争しておるらしい。信徒の数よりいえば、英国宗は百分の四十、ほかの新教諸派は百分の三十五、旧教は百分の二十五の割合にして、新教徒を合計すれば旧教の三倍に当たるも、信仰の度は旧教の方が強く、寺院の建築のごときは豪州いたるところ、旧教は英国宗をしのぐほどである。したがって、その両宗の間に大葛藤の暗潮があるらしい。
かくのごとく両教徒が互いに反目敵視しておるにもかかわらず、その余情を決して平常の社交上に及ぼさず、新旧両教の可否優劣はもちろん、少しも信仰に関する話すらも言外せぬには実に感心した。
ある日、英皇戴冠式を奉迎するにつき、英国宗の僧侶がロイヤルティーすなわち忠義という意味の演説をして一同に聴かしたが、その説明中に、「忠義は吾人の人生に処する正当の本務である」といい、その例証に、「しもべとしては主人に対して尽くすべき義務がある、子としては親に対して尽くすべき義務がある、夫としては妻に対して尽くすべき義務がある。これと同じく、国民としては国王に対して尽くすべき義務がある。これすなわちロイヤルティーである」と申した。
この言をいい換うれば、夫は妻に対して忠義を尽くさねばならぬということになる。聴者はみな適当の例証と思っていたようなれども、拙者一人は、夫が妻に対する本務と、国民が国王に対する本務とを同視するは、奇怪千万と思った。
この一例によりても、西洋と日本との人倫の説き方の相違が分かる。また船客中の教員が、「日本の高等教育を受けたるものはヤソ教を信じておるか」とたずねたから、拙者はこれに答えて、「わが国にはヤソ教にさきだちて理化学や進化論が学界に輸入せられたために、知識あるものはアグノスチックまたはエイシイストに傾いておる」と申した。そうするとその教員は、「それは奇怪である。理化学や進化論は有神論と一致しておるに、なにゆえに日本人はかかる軌道外に出でたるか」といい、なにやら疑念を抱いておるように見えた。彼らの教育社会ではどこまでも、ヤソ教の有神論は理化学や進化論と一致せるものと信じておるらしい。(下略)