葦は見ていた

5話 五

2,324字 約5分 2022年7月5日 公開

読み方を変える
字の大きさ
行の間隔
1行の長さ
書体
配色
組み方

 二人だけの生活が始まった。

 それは激しい消耗の生活であった。男は世間から棄てられた怒りと絶望とを、女と歓楽に溺(おぼ)れることで忘れようとし、女は男をそんな境遇に追いこんだ自責から、もっと深い快楽を男に与えることで償おうとした。たしかに、計之介にはそう思われた。女の飽くことを知らないような求めや、焦燥や、強烈な歓喜と陶酔の表現は、しだいにその度を高め、昂進(こうしん)するばかりであったが、同時に(どんなに狂的な快楽のなかでも)いつも罪の呵責(かしゃく)と赦しを乞う涙をともなっていた。

 ――あたしが悪いのよ、あたしがあなたをこんなにしてしまったのよ、ごめんなさい、堪忍して、堪忍して。

 おひさは身悶(みもだ)えをし、声をあげて泣くのであった。計之介はそれをやめさせようとし、ときにしばしば女の口を塞(ふさ)いでどなりさえした。

 ――やめろ、やめてくれ、こうなったのは誰の責任でもない、もしなにが悪いかというなら、それは二人がめぐりあったことだ。

 ――それだけは仰しゃらないで。

 ――悪いとすればそのことだというんだ。

 ――あなたは情なしよ。

 ――おまえが自分を責めすぎるからだ。

 ――あなたは薄情者よ、あたしはそのことをどんなに有難く思っているかしれないのに。

 おひさは云った。

 ――あたしは自分がどうなってもいい、あなたとめぐりあえたことがあたしにはうれしい、あたしにはそれがなにより有難いことだわ。

 そして女は絶えいるように泣いた。

 これらのことは計之介は話さなかった。お互いの身も心も灼(や)きつくすような日夜のことは、話しようもなかったし、話す必要もなかったからである。……生活はまったくその日ぐらしになった。計之介は家じゅうの物を売った。女は着たきりで、髪道具も持っていなかった。彼はまえにめぼしい物をすっかり売ったので、残ったのはたいてい恥ずかしいような品ばかりであった。しかしどんなに些少(さしょう)でも、それが銭になる物なら片端から売った。

 ――もう少しよ。もう少し。

 女は苦悶(くもん)の声をあげながら叫んだ。

 ――あたしもうすぐに出てゆくわ、だからもう少しのあいだ堪忍して。

 だが、おひさは出てはゆかずに、自分が稼(かせ)ぐと云いだした。いっしょに江戸へゆこう、江戸なら充分に稼げるし、あなたも肩身のせまいおもいをせずに暮すことができる。いっしょに江戸へゆきましょう、そう云ってくどきはじめた。

 ――さもなければ、あたしたち餓死をしてしまうわ。

 ――おまえは餓死がいやか。

 ――あなたを餓死させられると思って。

 ――ゆきたければおまえ一人でゆけ、おまえ江戸へ帰りたいんだろう。

 ――あなたには女の気持がわからないのね。

 ――一人でゆけ、おれはいやだ。

 家の中はからになった。もう屑屋(くずや)でもなければ買わないような物ばかりで、それを売るのもおひさの役になった。すると或る日、おひさが一面の古鏡を捜しだして来た。

 ――それは売れないんだ。

 と計之介は云った。

 ――それは古くから藤吉に伝わっている家宝で、代々この家の主婦の持つものになっている、祖母から母へ、母から、……そうだ、それはおまえに渡されるものなんだ。

 ――あたしにですって。

 ――おまえがおれの妻なら、当然それはおまえに伝わるものだ。

 おひさは珍しそうに、それをうち返し眺めた。それは青銅で鋳た八花形の手鏡で、直径四寸ばかり、裏に竜の浮彫があった。

 ――ずいぶん古いものらしいわね。

 ――漢鏡というから、千年以上も昔のものだろうね。

 ――では、たいそうな値段でしょう。

 ――よく知らないが、売るとすれば相当なものらしいよ。

 おひさは魅せられたように飽かずその鏡を眺めていた。そして深い溜息(ためいき)をつき、やがてさもさも惜しそうに、元の匣(はこ)の中へしまった。

 ――あたしには勿体(もったい)ないわ。

 ――おまえのものなんだよ。

 ――こんな尊い高価な物なんて、あたしなんかには勿体ないことよ。

 おひさはそれを元あった場所へ戻した。

「それはいつごろのことだ」と東次郎が訊(き)いた。

「つい二十日ばかりまえだ」

「そしておれが来たんだな」

「初めて杉丸が来た」と計之介が云った、「おれは杉丸の顔を見たとき、いよいよこれでけりがつくだろうと思った」

 そのとき彼は初めから逆上していた。

 東次郎は穏やかに話そうとした。東次郎はがまんできるだけがまんし、もうそれ以上がまんができなくなって来たのであった。しかも東次郎は穏やかに話すつもりだったし、辛抱のできる限り穏やかに話した。けれどもこちらが逆上しているので、たちまち声が荒くなり、互いに言葉がするどくなった。

 ――意見めいた口をやめろ、本心を云ったらどうだ。

 計之介が嘲笑(ちょうしょう)して云った。

 ――おれに女と別れろというのは、おれのためではなく、女と別れさせて、おれを自分の妹といっしょにさせるためだろう。

 ――深江の名を出すな、深江の知ったことではない。

 ――深江さんとおれとは五年まえから婚約がある、それは家中でたいていの者が知っている、女のためにそれがこわされては面目にかかわるから。

 ――黙れ、黙れ藤吉。

 東次郎は叫んだ。

 ――きさまそんなにも卑しくなったのか、あの女のために、そんなにも卑しい人間になったのか。

 ――女がどうしたって。

 ――相手がどんなに卑しい女だからって、自分まで卑しくなるとは情けないやつだ。

 ――その言葉は赦せないぞ。

 ――卑しいと云ったからか。

 ――女を誹謗(ひぼう)したからだ、取消せ。

 ――いやだと云ったらどうする。

 ――念には及ばない、決闘だ。

 すると東次郎は冷笑して云った。

 ――決闘などと云う気持ぐらいはまだ残っていたんだな。

 ――いやとは云わさんぞ。

 ――場所と時刻を云え。

 ――あさっての朝の五時、観音寺の丘で会おう。

目次に戻る

目次