葦は見ていた

6話 六

2,507字 約5分 2022年7月5日 公開

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「その明くる朝、――杉丸の来てくれた、明くる朝のことだ」と計之介は云った、「眼がさめてみると女がいない、手洗いにでもいったか、起きて朝の支度でもしているのかと思ったが、いくら待っても音もけはいもしない、ふっと気がついて、女の夜具をさぐってみた、するとそれがすっかり冷たくなっている、おれは逃げたなと直感した、それまでそんなことは考えもしなかった、女が逃げるかもしれないなどということは、爪の尖(さき)ほども疑ったことはなかった」

 それにも拘(かかわ)らず、彼は「女が逃げた」と直感した。

 ――だがそんなことはある筈がない。

 計之介は自分の直感をすぐにうち消した。たぶん金でも都合しにいったのであろう、自分でそう思いなだめて、苛(いら)いらしながら待っていた。もちろんおひさの帰るようすはない、午後になると矢も楯(たて)も堪らず、彼は木花町へでかけていった。そして女の住込んでいた家や、出先の茶屋を(外聞も忘れて)訊きまわった。女はどこにもいなかった。計之介は酒を飲んだ、馬子や人足などのいる店で、いやな匂いのする酒まで飲み、悪酔いをして、家へ帰るとそのまま酔いつぶれた。

「眼がさめたのは夜半すぎだろう、夢のなかで思いだしたらしいが、眼がさめるとすぐに漢鏡のことに気がついた」

「なかったんだな」

「なかった」と計之介が云った、「捜しにゆくと匣だけはあったが、中の漢鏡はなくなっていた、もう疑うまでもない、逃げたということがはっきりわかった」

 それは計之介に残された、たった一つの金めな品であった。伝来の家宝であり、高価に売れることも女は知っていた。

「あいつはおれを搾(しぼ)れるだけ搾った」と計之介は云った、「そうして、もうおれから搾るものがなくなり、家名の存続も危なくなったので、それだけは残しておいた鏡を持って逃げたのだ」

「まえの晩、――」と東次郎が云った、「深江のことが話に出たからではないか」

「いや、深江さんのことはまえから知っていたんだ」

 もう話すことはなかった。

「おれは自殺しようと思った」

「それ以上のことをしたよ」と東次郎が云った、「藤吉は約束どおり観音寺の丘へ来た、そして事実をありのままにうちあけた、これは勇気がなくてはできないことだ」

 東次郎は二つの盃(さかずき)に酒を注ぎ、「いっしょに持ってくれ」と云った。

「この経験を活かしてくれ」と東次郎は低い声で云った、「藤吉の経験したことは、そうざらにあるものではない、たいていの者ならそれでまいってしまうと思う、――しかしおれは藤吉を信ずる、藤吉は必ず立ち直るだろうし、そのときにはこの経験が大きな価値をもつだろうと思う、たのむよ」

 計之介は眼を伏せていた。東次郎の言葉を心に刻みつけるかのように、じっと眼を伏せて聞き、それから、いっしょにその盃の酒を飲んで、やはり下を見たままで云った。

「深江さんは堪忍するだろうか」

「わからない」と東次郎が云った、「これまでなにも云わなかったから、堪忍しているのかもしれない、このあいだの朝のようすではそう思えるが、本心がどうだったかは訊いてみなければわからないと思う」

「それなら訊かないでくれ」計之介は云った、「そのときが来たらおれが自分で訊くよ、もしもそのときまで、あのひとが待っていてくれたらだけれど、――」

 東次郎は彼の眼を見て頷いた。

 藤吉計之介は立ち直った。東次郎が予想していたよりはるかに早く、確実に、――立ち直った計之介は以前の彼ではなかった。女とのことが起こるまえは、彼は温和しくて学問好きなお坊ちゃんであった。厳格には育てられたが、一人息子の気弱さと、恥ずかしがりやな性分がめだっていた。それがすっかり変ったのである。顔つきにも態度にも、内にひそめた力感と、芯(しん)の強さがあらわれ、言葉つきなどもはっきりと明白になった。――それはちょうど、重患から恢復(かいふく)した者が、まえよりもずっと健康になるような例に似ていた。

 明くる年の二月、計之介は中老の席につき、深江と結婚した。彼はべつに謝罪めいたことは云わなかったし、深江にも彼の過失を咎めるようすはなかった。

 結婚して二年めに長男の小太郎が生れ、一年おいて二男の杉之助が生れた。そのとき、計之介は妻に云った。

「男の子が二人あればいい、もう子供は生まないことにするよ」

 深江はそうでございますかと答えた。彼女には良人(おっと)がなぜそんなことを云うのか、そのときは見当もつかなかったのである。しかし日の経つにしたがって、良人がしぜんでない方法をとるようになり、それがいつまでも続くので、不審に耐えられなくなって訊いた。

「あなた本当にもう子供は生まないおつもりなのですか」

「おまえは冗談だとでも思っていたのか」

「どうしてですの」と深江は云った、「それは男の子が二人いれば不足とは申せませんでしょうけれど、この二人がまちがいなく無事に育つという証拠もございませんわ、いつ一人が欠けるか、いいえ二人ともとられるようなことになるかもしれないではございませんか」

「そんな心配をしたらきりがない」と計之介は云った、「私は一人っ子だが無事に育ったからね」

「もちろん譬(たと)えに申上げたのですわ」と深江は云った、「でも、そんな譬えはべつにしても、藤吉家くらいの身分でしたら、子供が三人や四人あってもおかしくはないと思うんですけれど」

「計算してみたことがあるか」

「計算ですって」

「五百三十石という食禄で、どれだけの生活をしなければならないか、ということをさ」計之介が云った、「子を生んで育てることは、日雇人足にもできるだろう、しかし成長した子供をどうする、日雇人足なら馬子にしても駕籠舁(かごかき)にしてもいい、だが武家ではそうはいかない、どんなに貧しくとも、武家では子供を馬子や駕籠舁にすることはできない、――おまえにもそれだけはわかるだろう」

 深江は頭を垂れた。

「藤吉家を相続するのは一人、あとは養子にゆくか、さもなければ部屋住で一生を終るよりほかにしようがない」と計之介は云った、「もっと大身なら分知ということもできるが、五百三十石の中老では不可能だからな」

 深江は寒けにおそわれたように、肩をそっとちぢめた。計之介は云った。

「子供は二人でたくさんだよ」

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