死線を越えて 01 死線を越えて

10話 十

4,721字 約9分 2022年7月10日 公開

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 門の戸が閉ぢて居た。もう九時半であつた。

 新見家は朝が早いので宵寝だが、今夜は主人が留守だから特別に早く寝た。小僧の吉三郎を煩はして内に這入つたが、室内の空気が重々しくつて、壁の臭ひがするので胸が悪くなる。奥を覗くと行燈がついて居る。お梅がこちらに、益則がむかうに寝て居る。九時半は外出時間を半時間過ぎて居る。然しお梅は別に叱りもせぬ様だ。栄一は鶴子に会つて少し刺戟せられたから今から勉強せうと決心した。

『ランプ! 押入の戸を開けてランプを取り出さねばならぬ。あの大きな押入の戸を開けると激しい音がする。お梅の安眠を破る! 九時半! 之れからの勉強、必然明日の朝は叱られるにきまつて居る』と思ひながら恐る恐る玄関の押入れからランプを出した。

『マツチ! 台所の隅。足音立てずに』とマツチを探したが無い。奥の行燈の台のマツチを取つて来た。

 二階へ登らうとすると、段に渋紙が敷かれてある。吝なことをしたなと独り言云ひながら、出来るだけ物音立てずに上り始めたが、家が新しいからギユ/\と木が呻る。

『なに勉強しに上るのだから、呻つてもよいさ。また別に足元に注意する必要もない』と正々堂々と上つたが、呻りは一層家の隅々まで響いて大震動が起る様だ。

『こら少し悪かつた』と思つたが猶上ると猶響く、『或はお梅が叱るかも知れぬ』と耳底を済まして下から起る声でもあるかと思つて居ると、妙なものだ。時過ぎず、下からお梅の鋭い声!

『だれで、そんなにドン/\二階へ上るのは。人が寝て居るのに』

 悪い事をした、然し生意気だ、『誰で?』僕と解つて居て、と考へたが、

『ハイ私です』と温和しく返事をする。

『兄さんで? 今から御勉強?』

『ハイ』と答へて置いて、トン/\と昇りつめてお梅の云ふことなどは何うでもよいと、自分の書斎(スタデー)の襖を開いた。

 書斎にも渋紙の上敷が延べてある。栄一は少なからず驚いた。

『お梅は僕が美感も何も無いと思つて居るのだな。まアよし……ア、今夜も戸を閉てるのを忘れて居た。また明日の朝は小言を聞くのだ。鶴子様はまだ勉強するのか知ら?』と戸を一枚開いて乾の方を見ると、二階立の家にはまだ戸が開いて居てランプの光が輝いて居る。黒い影が障子に写つたり消えたりして居る。

『アレは女の影だ。障子一枚取るとマガレツトの鶴子様が現れるのだ。女は可愛い、あすこに飛んで行つて見たい。……然し勉強しよう』――と栄一は戸をビツシヤリと閉めて机の前に坐つた。ランプの油は少ないし、ホヤは掃除して呉れてない。吉三郎まで自分を軽蔑して居ると思ふと腹が立つ。硯箱も変へて終つてゐる。散歩に出て居る間にと思ふと散歩を悲しく思ひ、三時間のうちに、室の有様が変つたのだと思ふと時間が憎い。

『然し不平が人間の職務ではない。黙想録に何か書いて見よう、今夜は思想の統一は無いが、此問題はなるべく早く完全したものを得なければならぬから……下から声がしたのぢやないか? お梅の野郎が二階へ上つて来る様な気がするが、僕の錯覚か、まア墨でも磨つて……此筆は何だ。先切れのお古。待て。――なに我慢するさ――何か書いて見よう』

 栄一は筆を取つて、三百枚許りの原稿紙を綴つた帖を開いて『唯物論の実在観』(五月十二日)と書いた。

『墨が薄い。字が滲む。こんなげすつた墨! 大きくても質が悪ければ糞にも立たんぢやないか、小さくても古梅園なら屑でも善い。虐待だ……まア辛抱するさ。然し何から何まで、よく虐待しやがるなア。きやつ! 生意気だ』など考へながら筆を下す。

『電気物質観は非常なる速力を以て、その研究の歩を進めた。最近の或新聞紙には電子の形態を論じてあるのを見た。近き将来に於て或は此電子論より人間の自覚を説明するの時期がくるかも知れない。――』

『ウム、下から声はしないか? お梅が二階へ上つて来る様に思ふが、何に、かまうものか。我輩は勉強するさ。虐待も何もあるものか。我輩は悲観と楽観に超越して勉強するのさ。我輩の能力の凡てを発展さすさ。What は For とか And と云ふ意味は無い。真理を求むる哲人は透明だ。自らには、色も香も涙も喜びも、輪廓も影も無い。唯透明なガラスだ。凡俗の埃や塵には無関係だ。……然し鶴子は美しい、可愛い、また可哀想だ。兄さんが今度台湾の郵便局へ転勤するつて? 別れるのが辛いだらうね。独りの兄様が気候の不順な台湾へ行く。僕は同情する。鶴子様は高等女学校が出来るとすぐ二年へ入学したつて云つたね。今は補修科を修めて居る……それからと――』

『然し其の時期になつても自覚の中に含まれたる目的論的見解が盲目的機械論に征服せられる事はあり得ない。相対にして、不可思議な時間空間の中に表顕したるイオンが、その中に無限の実在即ちカントの所謂デング・アン・デツヒを具へたる、絶対の実在なりと証明せらるべき事は到底不可能の事である。――』

 カントの現象論とハミルトンの相対論を思ふと頸筋に冷水を流される様に感じる。……

 鶴子様が洗礼を受けたのが、去年の二月の二十一日、祝福せらるべき日だ。僕が社会主義の事を一寸話すと阿部磯雄氏の『瑞西』と平民社の『ラサール』を読んだ事があると云つて居た。明治学院に居たと云ふと喜んでゐたね! 信者で無いと云つた時には少し失望して居た様だが、『それでもあなたも私もキリストに耳を傾けて居ると云ふのは不思議な事ですね』と云はれては、僕の胸が少なからず騒いだね。キリストは実に偉大だ。彼は世界で最も尊い愛のシンボルだ。然し認識論が云ふことを聞かぬ。認識は神を知らぬと云ふ、……此唯物論の実在観でも解決した上で、唯心的神が其の力を以つて世界を創造したと云ふならば、キリストを信ずる。……チエ、また空想に耽つて居た。

『……茲に吾人が実在を知覚するに当つて、其知覚する者はエネルギーなる事は明白な事実である。或は電子の形態を論ずるも、皆之主観の空想或は仮定であつて、客観の事実としては形態を有するイオンを仮定するも可いけれ共、絶対実在として之を認識することは最近の心理学が許さゞる処である。そのフオースなる物を盲目的とすれば、吾人の意識はその盲目的フオースの進化したものとせねばならぬ。然し認識は相対で、機械論的見解を認識するには目的論を離れて知ることも出来ない。……』

 面倒臭くなつて来た。我輩の此様な論法では唯心論になるかも知れぬ。認識論に這入つては面倒だ。もう筆が進まぬ。頭に哲学を黙想する様な余裕は無い。鶴子が凡て占領して終つて居る。……然し哲学者が此様な事では困る。もし僕が日本の哲学界に貢献しようと云ふのなら、も少し虚心平気にならねば駄目だ。此世紀はカール・マルクスが云つた様に哲人が出でゝ社会を根本から解決せねばならぬ時ぢや。世界は予言者の代りに真の哲学系統を求めて居る。……駄目だ。恋に哲学を奪はれては! 世界の最大哲学者は皆禁欲主義の無妻主義者だ。キリストや釈迦は云ふに及ばず、ヱピクテタスも、アウガスチンも、スピノザも、ライプニツツも、カントも、ヒユームも、ロツクも、ミル、シヨウペンハウエルも。それに仏教も基督教の多くの聖徒哲学者――僕だけは情欲から離れて理性の鍵をしかと握ることは出来ぬか?……が、理性と肉慾はどちらが根本的だ? 最も根本的のものが哲学ならば、肉は哲学の最も聖なるものだ。……僕は既に鶴子に囚はれた。

 女性観を多く説く必要は無い。男も女の子だ。男がまた女を産むのだ。子が産みたい! 子が産みたい! 何だか恋した上で子が産みたい様な気がする。生れて初めて恁那事を考へるのだ。僕には怎那子が産(でき)るだらう。芸術品の中で子を産む程立派な作物があらうか? 人間の子は肉付きがよくつて跳ね廻る! 恋! 生殖! 伊賀駒吉郎さんの様に六百頁も七百頁も女性観を書く必要は無い。恋! 僕は女と居たい! 凡ての哲学を解決するのだ。耳の底に残るのは今別れる時の鶴子の最後の言葉!

『おやすみ!』

 僕は身体がぐにや/\になつて終つた。下女と、宿屋の給仕と、ミルクホールの姉さんにしか接しなかつた僕が、美しい鶴子様と肩を並べて帰つて来た時の胸の中。僕は急に飛び付いて抱きしめて城山の森の中へでも連れて行きたかつた――あまり鶴子さんが優しいから――少なくも、別れる時だけは手を握りたかつた。然し、『肉を離れた恋』と云ふ声がして恐る恐る手が縮まつた。彼女は僕の偶像だ。不潔な事は出来ぬ。また威厳に恐れて手が出せなかつた。僕は彼女の手を握りたい。然し肉慾を超絶して?……遂に僕は悩める者だ。恁那時に鶴子様の顔を一目見れば、アヽもう寝て夢に鶴子様を忍ばう。あゝ睡い!』と栄一は机の下に足を入れて仰向けになつた。

『ア、鶴子様が恋しい。誰か呼びに行つて呉れゝば……』と身体を縮めて両手で顔を蔽うた。その時急に、

『兄様もう、おやすみ』と云ふ声が入口の襖の方にした。栄一は反射運動の様に起き上つて、机に倚つて、後を見た。然しお梅は居らなかつた。自分の神経であつた。それでまた読書でもしようかと思つたが、頭が重くて読書する勇気も出ぬ。また、

『ア、鶴子様が恋しい。恁那に恋しいのなら別れなかつたら可かつたのに』と仰向けになつた。恁那に仰向けに臥て居る処をお梅に見付けられたらと、折々入口を見たがお梅も上つて来ぬ様だ。そして暫くの間鶴子の容貌身振を想像して居ると、

『おやすみ、兄さん、蒲団の中へ這入つて――』と云ふ声が入口の方にした。入口を見ると今度は真にお梅が掻巻きのまま立つて居る。あはてゝ起き上つて、机の上に両臂をついて頷垂れて黙つて居ると、

『兄様、そんなにして寝て居つて、足で机の上のランプでも引繰り返して、火事でも放つた事なら大変ですよ、お父様のお留守に危い。ほだけん、夜は早く寝て、朝早くお起なはれと云ふのに。兄様もう下へ降りて、おやすみ!』

『火事をやる? 大きな事を云ふ』と考へたが、黙つて居た。

『兄様。もう、おやすみ』栄一は顔さへ見せぬ。

『もう十一時だつせ』栄一は立とうともしない。お梅は『お休みなはれよ』と云ひ捨てゝ一寸梯子段を降りようとしたが、また帰つて来て、

『兄様、此居間の上敷はない。畳が新しいのですから、机を置いたり、本箱を置くと、綺麗な畳の上に形が付いて汚れるからない。晩方に一寸吉三郎と、倉から出して敷いたのだすわ。先刻から黙つて居るから解らんが、もしや、上敷の事で怒つて居る様な事なら、そんな理由じやけん怒らん様にしてつかはれよ』と云つて、弁解して居る。

 栄一は一寸顔をお梅に向けて、足先から頭までじろ/\見た。お梅は、

『兄様、私もう下へ降りて行きますから、どうぞ早く降りてつかはれよ』とまた降りかけたが、また引き返して、窓の障子を開いて、戸を閉めてあるかを験べる。

『吉三郎が閉てたのぢや。若旦那は宵に閉てゝなかつたが――』と云つて栄一の横顔を凝と視て居る。

 栄一は鋭い視線をお梅に浴せかけた。それでお梅は、

『もう寝なはれよ』と下へ降りて行かうとしたが、襖の所まで来ると栄一が笑つて居る。それで自分が笑はれたと思つたのか、

『いやな笑ひ方するの……』と云うた。そして、何か復讐したいと思つたのであらう、暫く考へて居て、

『兄様、まだお降りなはらんので? 私がランプを持つて降りて消しますから、あんたは先へ降りなして』と云つて見たが、返事が無い。

『あまり起きて居つたら火の用心が悪いけん、もうランプを消しますでよ』と今度は脅迫的に出た。栄一の所へ近づいて行つてランプを吹き消した。

 栄一は決して反抗はしなかつた。飛び立つて下へ降りて中の間で寝た。床の中で泣いた。

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