死線を越えて 01 死線を越えて

11話 十一

5,331字 約11分 2022年7月10日 公開

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 それから三日立つて火曜日の夕方であつた。新見はぼんやり厳格(いかめ)しい門の前に立つて、通りの人を見るでもなく、また別に考へるでもなく、意味なしに時を過して居たが、不図気がついたのは福島橋の方から走つてくる二人の子供である。

 先の子は浅黄の様に洗ひ切つた紺の筒袖の所々破れたものを着て、舟の様に大きい草履を穿いて居る。年は十か十一かで悪るそうな子である。手には模様入りの古い手拭に何か穀物を包んで持つて居る。帯は走つた為めか解けて居る。

 後から追つかけて来る子の風体はちやんとした中流の子供らしい。跣足である。新見は先の子が後の子に弄められて居ると云ふ事を見て取つたから、止めに行かうと思つて居ると、新見の屋敷の隅あたりまで二人が馳けて来て、後の子は突然前の貧乏人の子をつき飛ばした。

 貧乏人の子は手に持つて居た包みを向ふに飛ばしてドシンとうつ伏に倒れた。倒れた時も起き上る時も別に泣く様にも見えなかつたが、手拭の中の米が散らばつて居るのを見て、大きな声を上げて泣いた。つき飛ばした子は得意になつて『ウエヘーイ』と町の遥か向ふに集つて居る子供の群に凱歌をあげて飛んで帰つた。

 新見は一寸微笑んで子供に近寄つた。可哀想に、その子は、唯、町を向うへ走る腕白小僧の影を見守つて、うらめしさうに泣いて居る。

『可愛いから、泣いちやいけないよ。可愛いね』と栄一は繰返して子供の衣を振るつてやつた。子供はその影が大勢の中へ消えるや否や、そこに散らばつた米も砂も小石も共に手拭を拡げて拾ひ入れる。そして口の中で、

『わし、宅へ往んだらお父さんに怒られるわ、アーーー』と云つて泣く。栄一は同情して子供を助けて米を拾ひ集めながら、子供に尋ねた。

『あなたの家は何処?』

 之れを二三度問うたが子供は中々云はぬ。四五度聞いて漸く、

『むかうの方』と顎で方向を指すばかりで確と所を云はない。然し口の中では続けて、

『宅へ往んだらお父さんに怒られる』と云つて泣きじやくりをして居る。

『それぢや、私が送つて行つて、上げませうか?』

『うゝうむ』と頭を左右に振る。『他所の人やかし連れて往んだら怒られる』とまた小声でひとり言を云ふ。

『なぜ?』

『なんでも――』と急いで散らばつた米を掻き集める。そして新見を排斥する様な気味を見せて、飛び立つて走り出した。新見は子供に手を掛けて、

『あなた私が行つて、言ひわけをして上げよう、ね』と親切に云うたが子供は唯黙つて走る。走る子供にまた追ひついて、

『米をあんなにしたからお父さんに叱られるだらう。僕が君の宅へ行つてお父様に謝つて上げよう。泣かずに居るんですよ』

 此度はもう栄一に反対しなかつた。然し猶泣いて居る。子供と歩調を合して歩みながら栄一は尋ねた。

『何故あの子があの様に突き飛ばしたの?……あの子、何処の子?』

『岩城ちふ宅の子』

『どうしたの?』子供は云はふとして、また声を出してまた泣き始めた。

『ね。可愛いから泣いちやいかんよ……どうしたの?』

『……あの……わしが、福島橋のねきの米屋で米を買ひよつたら、あの子が皆と一緒に居つて、こいつは此間船場で……遍路しよつた奴ぢやつて云つて頭はつたけん、急いで逃げて出て来よつたら、皆が泣かしてやれと云つて後を追かけて来たん……』

『さう。悪い子だね』と栄一は言葉を返したものゝ此子供の大胆な告白と資本家の子弟の残酷を思つて涙ぐんだ。其後二人の間に言葉は無かつた。日も全く暮れて、城山の烏の啼く声も聞えない。子供に導かれて福島橋を渡つて、右に折れて半町と行かぬ中に長借屋の下駄屋と芋屋の間に奥まつた路次がある。此路次を処々折れてついて行くと先づ沢庵の腐敗した堪へ切れぬ臭気に貧民窟の影を窺ひ得たのである。実に想像より予想外な所に舞ひ込んだ。子供は先に走つて影は消えた。想像しなかつた天地。家根は低く家は小切つて普通の家の玄関の土間だけも無い。人間はこれほどまでも家を区切る必要があるかと思つた。多くは戸が閉ぢて光も無かつたが、光の付いて居る所も豆ランプが精々で、大抵はブリキ製の糸心の燃え出し、ずつと栄一は両側を見て通つたが、左側で光の付いて居る三軒目に、女の疳走つた声で、

『馬鹿野郎が、福島橋の所まで一寸使ひに遣つて、今迄かゝるてなんなら……』と叫ぶのが聞える。次いで、子供が打たれると子供の泣き叫ぶ声が起る。急いで新見は此家の前に現れた。

『御免なさい』三十五六の女が竈の前に跪んで火箸を持つて火を焚いて居る。栄一は一寸後ろを顧ると、向側は煙つて居る。九つか十の女の子が竈の前に坐つて、年寄の身体の不自由な人であらう、通りに頭を向けて臥て居る。『此煙と此老衰!』と栄一は臆病な心が起つた。『あんな老人を僕が世話すると云ふ日になればもう御免だね。あれでも生きて居りたいかな』と眉の間に皺をよせた。女は、『さ、何卒内へおはいりなして、ほんとに鬱陶敷う御座りますが』と鋭い目に愛想をしようとして新見を見た。引詰の髪にしけの一面にして居るのは糸屋か機屋に出て居るからであらう。這入れと云はれても、四尺許りの後ろにあの老人が寝て居ると思ふと、這入らずに直ぐ帰つて行つて美人の顔でも見て気晴しがしたい様な気がして這入れぬ。貧民窟と云ふのは恁那悲惨な所か? 壮年者が病んで臥て居ると云ふのならまだ希望と云ふものがあるが、老衰と来ては話にならぬ。身が縮まる。

『有難う』と新見は遠慮して、後をも一度見たいと思つたが、『あの薄い蒲団の中のあの老人』を眼の前に画いて見ると、また見るのが恐ろしい。

 女は栄一に愛想を云つて置いて、土間から三尺許り高い床に、うつ伏にもたれて包みを擁(だ)いたまゝ泣いて居る息子に、

『おまへ、お米を出さんかい。何を愚図々々して居るので? もう泣くのを止めて竈の下でも造ろはんかい』と云つて居る。危機が迫つたと新見は内へ這入つて、

『をばさん、実はね、私はお子供さんの代りに云ひ訳けを致さうと思つて参つたので御座りますがね……』と云ひ終らぬ中に、

『え、うちの子供がまた何か悪い事でも為ましたので御座りますか知らん? うちの子は仕方の無い悪い子で御座りますのでない。悪いことでも致しましたら御免なしてよ』と早口に云つて、栄一には別に頓着しない様な、また尊敬も払はない様子である。

『早く竈の下でも見んかい』と一つ頭を撲つて米の包を取り上げる。之を見て栄一は、

『その包を私に貸してくださりませんか、その米代は別に差上げますから』と申出た。然し女は、

『どう致しましたんぞいない?』と云ひ乍ら竈の火の明かりで米を験べて居る。石や砂の混つて居るのを別に不思議とも思つて居ない様だ。が、米を棚に置いてつか/\と子供の側へ来てまた頭を一つ擲つた。子供は泣き叫んだ。女は、

『早くあしこを見んかい』と大きな声で叱り付けて、『お父様、米が砂や石と一緒に混ぜつて今夜は食べられんでよ』と隅へ向いて云つて居る。すると隅から、

『お客様、どうぞ、ちとおかけなして。誠に鬱陶敷う御座いますが』と一寸蒲団の中から首をつき出して、新見に礼をする。

 新見は吃驚した。此家は三畳敷一間に、一坪の土間と云ふ作りだから、二人の外に人が居れば必ず目につく筈だ。実云へば這入つて来た時子供があまりお父様お父様と云つたに、男の親の様な者も見えぬ。唯隅に朝起きたまゝ巻いて捨てゝあるのだなと思うた蒲団が置いてあるだけだなと思つた。が、声があつて初めて気が付いた。此蒲団が父親なのだ。髪は長く生へ延びて青い顔色、唇の艶の無いのが、心持ちが悪い。栄一は入口の柱に片手をかけて左の足駄の爪先を立てながら、

『ハ、有難う御座ります。御病気でいらつしやいますか?』

と優しく尋ねた。父親は竈の下の燃ゆるのを見詰めて、また栄一の顔を見返つて、

『ハイ、いや別に之れと云ふ病気では無いので御座りますが、三月まで鉄道の方に出て居りましたので御座りましたが、三月の初めに鴨島で足を汽車に轢かれまして、エヘヘ……一生立ち上る見込が無くなりまして、それからぶら/\して居るので御座ります……どうぞおかけなして』

 女が竈の前に踞んだので父親の顔が見えなくなつた。子供は矢張りうつ向になつて顔を見せない。

『さうで御座りますか? そらどうも誠にお気の毒で御座ります』女はふりむいて栄一の顔を見て、

『ほんまに、お客様、もうつく/″\、生きて居るのがいやになりましたわ。夫(やど)があんなに怪我をしましても鉄道の方からは二十円の御見舞金で見放されますしない。それかと云つて便(たよ)つて行く所は御座りませず、私は朝早うから晩の遅うまで機屋の管巻きを致しまして今日の細い烟を立てゝ居りますが、女一匹ではどんな事が御座りましても二人の男を食はす事は出来まへんなで。今夜はあれが久し振りにお米の御飯が喫べたいと申しますので五等米を五合許り買ひに遣りますと、此通りでない』と恨めしさうな口吻が如何にも哀れである。

『それはね、をばさん、私が見て居りますと、お宅のお子さんが怜悧にして帰つて来るのを、何処の子か知りませんが、後からつき飛ばしてね。このお子さんが倒れて、通りに米をこぼしなしたのですよ。お子さんが悪いのでは無いのです……』

『さうで御座りますか――それにまああなた様はどちらのお方か存じませんが御親切に云ひ訳けに御出でゝ下さりましたので御座りますか? 誠にお礼の申し様も御座りません。いやうちの子も悪い子で御座りますので誠にどむなり」は底本では「どむなり」]まへんので御座ります。学校へ行けと云つても行きませぬ位の児で御座りますから、もう親も手にあまして居るので御座ります』

『どうして学校がお嫌ひなのです?』

『いやなんで御座りますの――三月の節句の翌日で御座りますの、私が今日は食ふものが無いから何処へでも出て行つて、何でも貰つて来て食うて呉れとよく聞かせて外へ出しました処がもし、昼頃になりまして泣く泣く帰つて来て頭痛がすると云つて臥込(ねこ)んでしまひまして、その翌日が丁度学校へ上る日で御座りましたが、もう行くのはいやと申しまして参りまへんのですわ……父親が字は一字も読めぬので今日困つて居りますので、せめては尋常だけでも卒業させてやりたいと申しまして、食ふに食へぬ中から尋常の三年生まで出しましたので御座りますが……いや、どうも貧乏すると子供までが自由になりませいでない』

 女はこゝまで語つてあまり烟るので火吹竹を取つて口を蔽うた。栄一は大抵女の云ふ事で子供の告白が読めた。がこの人々に何をして遣るかと云ふ方法を知ら無かつた。

『三年生までいらつしやつたのですか?』

『続けて行つて居りましたら今は四年生で御座ります。四年生に及第(あが)つてすぐ止めましたので――一年は子守に遣つて御座りましたから遅れましたんで』

 栄一の心は二つに分裂した。一方は無理矢理に恁那うるさい所で博愛主義などの真似をしなくても、早く逃げて帰つて、あの立派な畳の敷けて居る家の中で哲学の一頁でも読め、君は恁那なものに手を出して居ては遂に平凡と相去る一歩だ、と云ふ声がすると共にまた他方では親切は生命だ、有機体の社会で或ものが生きる為めには或るものが犠牲にならなければならないと云ふ声がするのである。

『失礼で御座りますが、あなたさんのお宅は何処だんで?』と女は尋ねて居る。

『いや何処つて……此処からは遠くはないのですが、――あのお子供さんは今何をして居らつしやいますか?』

『今之れと云つて何もさして居りませんが、父親の使をしたり、私の糸繰る手伝をしたりさしてをります。福島橋を向うへ渡りますと散髪屋が御座りますわない。あしこに丁稚に来て呉れんかと云ひますので、やらうかと思つて居りますがない。ものになるまで辛抱が出来るかとも思つて心配して居ります……どうぞ、そんなにおたちなさらずに、ちつとお掛けなして』と云ひながら一寸蓋を上げて麦が湧いて来たのを見て居る。そして隅の手桶を取つて門口の方に出かけた。水を汲みに行くのであらう。

 新見は、あまりこんな陰気な所に居りたくないと思つたらしい、

『散髪屋ですか? そらおよろしう御座りませう……私はもう失礼致します、外に用事も御座りますので――これで失礼致します。どうぞ私の帰つた後でお子供さんをお叱りにならぬ様にお願ひ申します』と云つた。別に米代を渡さうとも為なかつた。

『どうも有難う御座いました、またちつとお話にお出でなしてくださりませ、むさくるしい処では御座りますが』と女は戸の外に立つて云うた。栄一は病んで居る男に向つて、

『さやうなら、お身体をお大事に』と云つて見た。然し心の中では無意味な偽善を云ふと笑つて居た。

『どうも御親切に。さよなら誠に鬱陶敷う御座りますが時々お話に』

『有難う。また伺ひます』と答へた。

 然し心の中で、新見は、貧民を愛しないのではない、恁那処ばかり見て居ると人間が縮み込んで終ふとも思つた。

 栄一は夢の様な思ひをして暗い路次を出た。城山に赤い光の天気予報が上つて居た。福島本町の角で小僧の吉三郎に会つて一緒に帰つた。

 然し吉三郎と、何の話もしなかつた。

 夕飯をすまして、約束もあつたから、鶴子様を訪れた。

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