12話 十二
読み方を変える
新見は今自分の宅の前に静かに立つて居る。今夜も外出時間に遅れたのだ。先刻からいくら叩いても開けて呉れないので稍退屈して居る。
一寸通りに出てみたが、徳島本町は皆よく寝て居る。それも其筈、もう十二時少し廻つて居るのだ。東京から帰つて来て今までに三度遅れた。二日前の日曜の晩、教会へ出席した為に吉三郎が火の用心の拍子木をたゝいて屋敷をぐるりと廻つて、丁度門を閉ぢると云ふ所へ帰つて来たのと、先きの土曜の晩遅れたのと、今夜とで三度である。
今夜は遅くなる理由がある。栄一は鶴子を訪れて遅くなつた。それも日曜の晩教会から帰りに、鶴子の兄様の時行さんが帰つて来て居るから、是非とも此二三日の中に一度遊びに来て呉れと云はれたからだ。
新見は空を仰いで見たが星が眠むさうに光つて居る。実は自分が眠いからである。栄一は父が九時限り門の戸は一切開かぬぞと云つた事を覚えて居る。それに今夜は父も東京から帰つて居る事だから実際遠慮して激しく叩かぬ。亦吉三郎の安眠を破るのを非常に気の毒に思つたから、十一時頃鶴子の宅から帰つて来たが遠慮して叩きもせず、一時間程助任橋の方まで散歩して来たのだ。いや実は自分に刑罰として、四五里ある処を往復せうと思つて出かけたが、途中疲れて来たのと、明日学校に出て生徒に眠むさうな顔を見せたくない、生徒に読み方を教へなくても、昼は眼を開いて居る位の事は教へねばならぬと思ひついたから、吉三郎には気の毒ではあるが、再び戸を叩きに帰つた。眠らねばならぬと思ふと実に眠い。星までが眠い様に見える。
栄一はも一度叩いてみようと門の戸近く寄つたが、拳を握つて戸を叩く段になると、叩く一つ一つが皆父の胸に釘を打つ様に感ぜられる。随つて父の怒が自分に報いてくると思ふから、我と吾身を磔殺する様なものであると考へると、敷石を下駄で踏むのも恐ろしく、郵便受の下で暫し踞んで思ひに沈んだ。
『何故僕はいつも乍ら、真の父を此様に遠慮しなければならないであらうか? 何故自分は家の外の冷かな空気に触れて門の横に踞らなくちやならないのであらうか? 自分は全く父の親切を要求する権利が無いのであらうか?……けれど鶴子の可愛い今夜の応接振り? 兄様は撫養から帰つて来る筈で遂に帰ら無かつたが僕は却て満足した。老爺さんと老婆さんが寝てから後、僕が鶴子様の書斎に導かれた時! 僕は頷いた。僕は近頃の女学生の気質と云ふものを知つて居る。が鶴子に於ては決して……いや、僕が若し鶴子様を愛すると云ふ段になると、たとひ軽躁な女学生でも厭ひはせぬ……が鶴子には境遇上凡て軽躁な点は除き去られて居る。鶴子様は福々しい亜米利加美人だが、荘重な処は確かにゴシツクだ。仏蘭西タイプと型を異にして居る。
然し二人が机の前で西洋歴史の話をして居る中に自然と手を握り合つたには自分ながら驚いたよ、いや、うれしかつた。鶴子様が過去を語り出て、二人とも泣いたが、自分の膝の上に泣き倒れられたには羞しくもうれしかつた。
実に鶴子の悲しむのも尤もだ。義理の老爺さんや老婆さんの下で下女働きは苦しい。女の狭い胸ではそれに違ひはない。尤もお父様やお母様が、あの様な最後を遂げなさらなかつたなら鶴子様も他人に一歩は措かないであらうが、何れ、お友達と身の上話が出ても震へ上つて立ち退くのであらう。僕だつて妾の子だと云はれるのは決して善い心持はしないもの。……
鶴子様はクリスチヤンになつて朋友が、減つたが教会の親切な奥様方のお仲間入りが出来て、決して淋しくは無いと云つて居られたが、あれは祝賀すべき事だ。僕は奥様と名が付く人は誰れでも好きだ。奥様の仲間入りをして居る鶴子はそれだからすきだ。日本では、妻君は下女か子を産む機械か判然せぬが、女が多勢の子を持つて泣いて居るのは決して憎いものではない。苦痛美と勢力美の交つた可愛い者だ。
僕は鶴子を愛したい。愛する。全身を献げて愛する。……然し何と無意味な事だ。僕は人生の帰趨を知らなくて恋をして居る。無目的の人間が? 人間の歴史を進化さす為めに? 無意味な進化論! 我輩の生活に何処に進化がある?……チヤンス!……噫、人間にはチヤンスも運命の進化と云ふ権威も無い。……唯人間は冷たい海の中に沈んで行くのだ。鶴子を恋するのも沈みの一尺にしか過ぎぬ。無目的と云へば無目的だ。無目的でなくて、盲目的なのだ。さうかと云つて無目的だから死ぬか恋するかと問はれると、勿論生きて鶴子と一日の苦痛を共にしたい。然し我輩に恋人と快楽を共にするなど云ふ事は無意味だ。恋人と泣くのだ。そして最後は心中? 恋はそれで遂げる。然し一体恋とは、何だ?……
でも、今夜の様に突然恋が成立すると、セキスピヤの十二夜物語の様で何だか馬鹿々々しい。一体恋と云ふものはあんなものであらうか? 然し鶴子は僕を生捕つて終つたのだ。我輩の意志で、どうすることも出来ない。実云へば僕もあの様な美しい恋人を持つとは思はなかつた……然し恋と云ふのは何だか馬鹿らしいものだね。僕は○○の○○か○○かの快楽の為めに長い恋と云ふ馬場を馳つて居るのでは無いのか? 神聖と恋? 馬鹿々々しい。まるで浄瑠璃の文句を夢の中で読む様だ。つまらない!
嗚呼もう飽いた。恋に飽いた。我輩の恋はこれだけの観念で上等だ。もう観念もいやだ。快楽は一瞬だ。恋は苦痛だ。醒めた後が苦しい。恋はいやだ、頭痛がする、女を愛すると云ふのも要するに苦しい快楽を貪るにしか過ぎぬ。人間が子を産む為めに妻君を? 無意味だ! 唯だ子を産む為めに子を産む。唯擁いて寝る為めに擁いて寝るのだ。安眠が出来るなら、美人などいらぬのだ。仏陀! 小乗的思想! 衆生寂滅。諸事涅槃! 僕は大海の一波にしか過ぎぬ。早く冷やかな、沈んだ黒青い海の底に落ちて行きたい。人間! 面倒臭い。え。フム。チエ、舌を噛み切つて死んでしまひたいな。生きて居ると貴族主義の臭ひがする。僕は香水の匂ひは嫌ひだ。社会主義だもの、涅槃と死! 社会主義は此時だけに……』……栄一は立ち上つた。屋根の瓦も落ちよと云ふ程猛烈に檜の柾板の立派な戸を拳をかためて撲り上げた。
然し何の反応も無い。世は矢張り眠つて居る。死者も別に墓の中から飛び立つて来ない。世界は遂に睡りから睡りに移つて居る様だ。だから、も一つと今一層烈しくやつた。が矢張り答は無い。天を見ると星が渋い顔して居る。向ひの軒から雀が一羽また一羽飛び立つて五軒目の軒に隠れた。
『父を起さずに雀を起した。罪が深い。然し資本家は猶罪が深い。垣と云ひ門と云ふものを造らへて自由勝手に人間が出入出来ぬ様に屋敷を構へて威張るから罪が深いのだ。耶蘇の坊主も随分罪深い、キリストにあるものは悦ぶべしだと吐かして、べらんめえ、現世主義の、貴族主義の、個人私有財産主義の泥棒主義のゴリ/\で固め上げた遺伝宗教で満足しやがつて、神の国が来るものか……僕はもう煩悶に堪へぬ。釈迦――涅槃――熱――涙が凍る。が、死ぬには勇気がありすぎる。覚えて居ろ? 仁王立か? 獅子吼? さア、これから……今から、革命だ。我に自由を与へよ。然らずば永遠の生命を保証せよ。然らずば死! 悶えの涙が知らず、識らず流れる。人は知るまいが宇宙は我胸に革命を起して居る。アア僕が此処に踞つて居る間に福島浜側の貧民窟には神を呪つて居るものがあるのだ。苦しい生命。之れでも矢張り生きたいのだ。……柔順と称せられた僕が之れから天の星を降らせ海原を旱魃にする権威があるのだ。何も遠慮して恁那処で愚図々々する義務も無い。善より悪が賢い事が多い。戸を叩くべしだ。革命の鐘だ。革命も仏教的革命だ……仏教の真髄は小乗的○○にあるのだ。なめくじの様な大乗は雨に解けて終ふ。と云つても、釈迦は革命の失敗者だ。現世に火をつけずに彼世に火をつけた。婆羅門迷妄は善かつたが印度列国の存在を○○しなかつたのは大馬鹿だ。日本の坊主に至つては猶以つて馬鹿だ。大乗教! 法身仏! 国教! 本願寺! 馬鹿にも程がある。仏が折角人生は盲目的○○の連鎖で遂に涅槃に達すべき事を説いたに、今は政府の唾を拭いて居る。故に我輩は之れから仏教的大革命を始めるのだ。此革命に凡俗は参与する権威が無い。然し霊界には感応がある。必ず果が結ぶ。此小さい徳島の市に僕が生きて居ることを知る人は多くあるまい。けれども誰れがナザレにイエスありと知つて居た? ○○!』
栄一は苦しい謀反気を起して全身を震はした。身震ひしながら拳では思ひ切つた音が出ぬから右の下駄を採り上げて撲り上げた。
玄関の戸がガラ/\と開いた。栄一は誰れが開いて呉れるのかと待つて居たが、父が手燭を持つて戸を開いた。父は栄一が門へ這入るや、顔をつく/″\見て居た。が、黙つて急に拳を固めて栄一の左の頬を擲つた。
栄一は涙に咽せんで自分の室に閉ぢ籠つた。
彼は机に倚りかゝつて茫然唯泣いてみた。泣くと大分気が鎮まる。暫くしてかうして居てもつまらぬと思つたか涙を拭いて頭を上げると、壁に懸つて居るカーライルの半身像が横に向いて渋面して居る。
栄一は『サータス、レザルタス』を思つて、ゲーテ式失恋派哲学者の意味は虚弱だと思はないでは無いが、自己の悲哀な運命と資本家社会の地獄を泣かさざるを得ない。そして自分も一歩々々『永劫の虚空』を自己の胸に掘つて居ると考へあたらざるを得なかつた。
『噫。永劫の虚空! 何が栄一の虚空を充し得るのだ。僕は影の様なものだ。さうだ苦しい夢を見て居るのだ。生命と見えるのは僕の夢だ。
面倒臭い。父が養子に新見家へ来ながら、本妻を捨てて僕の母を妾に置いた。母が死ぬとお梅を入れた。人生は中々急がしい。その間に父は代議士となつたり、貴族院書記官になつたり、今度は代議士を止めて市長。市長になつても急がしい。家は新築しなくちやならぬ。賄賂は取らなくてはならぬ。お梅の機嫌は取らなくてはならぬ。その間に徳島鉄道の取締もしなくちやならぬ。その取締をしても急がしい。折々工夫が負傷する様な事が起る、……あの徳島本町の哀れな工夫の家庭! 取締役の父がもう少し省る所があればあんな家庭の惨事も起らぬに。僕が父のかはりに人を可愛がらうか? いや。自分の生命の処置にさへ困るに貧民の世話まで出来ようか? 此刹那! 自分の身体は唯燃えて居る。此一瞬間でもよい、酒にでも酔つ払つて此苦痛を脱れたい。熱烈に女でも掴へて死ぬ様なキツスがしたい。アヽ此一瞬! 此刹那! 夢! 夢! 影! 影! 空!
思ひつまつて世界を盲目と観じ自分を虚空と観ずると一種の法悦からくる微笑の催しがある。沼に白い蓮が咲いて居る。……と云つて、之もつまらぬ厭な生命の一部分だ……実際は謎の様な嘘だ……未だ鶴子が恋しい。恋しい? よし!――現実を捕へて恋と云ふ一瞬の夢に隠れよう。一瞬の快楽で足る! 消へるなら消す。亡びるなら亡びる。打衝かる処で打衝かつて破滅する時に破滅する。アヽ、自殺がしたい。二度も三度も自殺がしたい。
然し鶴子、鶴子、君は僕を神秘に隠してくれるか? 兎に角僕を愛して呉れるか? 君は可愛い。美しい、綺麗だ、そして僕の者になれば僕が救はれる。霊も肉も栄一を愛し給へ、君、君、僕は今少しの間気狂ひだが君が僕を愛して呉れないと全くの気狂ひになつて終ふよ。僕は満足する、満足する、君の為めに気狂ひになるなら。どうせ世界は気が狂つて居るのだから君の為めに気狂ひになるなら気狂ひの中でも高尚な方だよ。恋。僕は遂に恋に囚はれた。そして囚はれた事に賛成する。恋は狂気たるを要する。賛成、鶴子を得る為めに狂気とならう。オ、うれし……涅槃がある。女は神だ。……父のブルタル、フオース! 半獣主義賛成? やつつけるぢや僕も。然し父が僕をあの様に打つとは? もう云はぬ。僕はもう云はぬ。唯恋を与へよ。然し疲れた……』
又疲労は栄一を夢の夢に誘つた。机の下に足を入れて仰向きになつて少しの間睡んだ。が、キー、キーと云ふ音に驚いて目醒めると、室の入口に、またお梅が立つて居る。
見付けられちやつたと今更の様に心が騒いだが、仕方もなし、頭をたれて机に倚つた。
『お休みなさい――お父様がお休みつて、栄一さん』とお梅が歯の根にしみる様に云ふ。
『有難う御座ります』と栄一は柔和に答へて、二階から降りることに決心した。
『が、どう考へて見ても、生命は真面目の様で真面目で無い。僕が之れから寝る? つまらねえや! 寝る? 馬鹿にしてゐら! 醒めて狂ふものを暗い床の中に突き込んで、僕の自覚と生命を数時間なりとも奪はうと云ふのか? 儘よ!』と栄一は立ち上つて二階を降りかけた。
『栄一さん、まだ二階の戸が閉つて居ますまい』
『しまつた』栄一は再び室に立ち帰つて戸を閉め始めたが、乾の方の鶴子の室はまだぼつと明るい。影は鶴子であらう。『恁那に遅くまで鶴子は何をして居るのだらう』と思つたが、こちらの戸を閉てる音に鶴子も障子開いて閉て始める。
此一瞬、栄一は満足した。閉て終つて玄関に降りた。栄一は全く気狂ひたる事を自任した。『少しの間、他人に見られない様に気狂ひになるのだ』と玄関の押入から蒲団を出さうとしたが、
『どうせ、気狂ひだ。どうせ、父やお梅からはいぢめられるのだ。父やお梅が寝て居る間だけでも手足を延ばさう。今夜は寝ずに居てやらう。今夜どころか、死ぬまで起きてゐてやらう。死ぬまで? いや我輩は死なぬ』とかう考へ乍ら其処で身を倒した。暫らくの間、暗い暗い押入の中で禅の真似をした。
『禅の真似? 之もつまらぬ。疲れる許りだ。明日の教授が面白くなからう。兎に角寝る事にしよう。そして小さい薄い夢でも見よう。もう中の間に移る必要も無い。此処で寝よう』
と、吉三郎の横に床を延べて寝巻きも着かへず、そのまゝ床の中へ這入つた。床は矢張り心地が善い。『これなら一層寝巻きに着かへて』と、も一度起きて寝巻きに着替へた。栄一は考へた。
『寝床だけには敵が居らぬ。――嫌な睡りは最後の救ぢや。………アヽ女よりか寝る方がよい……』