13話 十三
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父に叱られ又殴られてからと云ふものは一層父と自分の間に蟠まりのある事を感じた。それのみならずお梅は勿論弟の益則までが自分を馬鹿の様に見下げてゐる不愉快さ。事情も何も知らずに雷同する馬鹿者と思へばそれつ切りだが、自分の勢力範囲が家族のうちにさへ恁那に狭まつたと思ふと少々悲観せずには居られぬ。が栄一は却つてこれで反抗心が起つて読書の時も黙想の時も多く、鶴子に対する夢と神秘とが増進すると考へて居た。
此二三日は機械的宇宙観と、目的論的宇宙観に関する黙想を主にやつて居るが、之れに関して栄一は決して書物を開かぬ。書物は何等の権威が無いと思つて居る。実際有つたにした処で生死を賭して研究して居る事だから書物に相談する暇は勿論無い。それに一方には家族と健康の方から圧迫があるから栄一の胸は推察するにあまりある。
栄一は唯生きて居ると云ふだけではあるが、矢張り動いて居る。勿論系統ある動きかたはせぬ。然し、暇があれば鶴子の顔を見に行くのと、田舎の妹に会ひに帰るのと、日曜日に教会に出席するのとは、他の凡ての盲目的活動と少し違つて稍筋道があると云つて善い。
彼が日曜日に教会へ行くに就ては別に理由もない。鶴子様がオルガンを奏く為めかと云ふに、それ許りでは無い。或時は鶴子を胸の思ひから消して終ふ事がある。それでは何かと云ふに、栄一は何か牧師が基督に関して説教する中に自分を刺戟して基督の様な熱烈な血を遡らす処が無いかと考へて居るのと、今一つは栄一には妙な癖があつて大勢集つた所が好きなので、ステーシヨンとか芝居とか学校とか教会とか云ふものが非常にすきで、そこで人々の服装とか骨相とかを研究するのである。それから最後の理由は家に居つても面白くなし、と云つて、遊びに行くところは無し、時間潰しに教会へ出席するのである。
が栄一は自分許りに教会行きを勧めない。弟の益則にも教会行を勧める。子供と女には基督教が非常に薬になると云ふのは彼の持論である。然し益則を引張つて行くとお梅が不服を云ふ。父も怒る。益則も閉口して居る。それで父と自分の中が益々割れる。そこへ田舎の本妻の処へ栄一が屡々帰ると言ふので父もお梅も苦い顔をして居る。事が斯く進行することは愈々面倒になつて来るものである。栄一は此頃父と共に膳に坐つた事が無い。
栄一は今しも学校の教授を終へて自分の宅の門へ入らうとする所であつた。
門の側には遍路車が据ゑてあつて、中には面付きの悪い十二にはなるまいと思ふ子が、足が立たぬ様な態度をして栄一の這入つて行くのを見守つて居る。玄関の側の中門から内へ這入らうとする所でバツタリと出会つたのが、四十五六から五十二三迄の女乞食。腰を前に屈めて頭は垂れ、椀と渋紙を持つて出て来た。
『お茶が欲しいと思ふんで御座りますが――奥様……』
新見は此野郎少しづうづうしい奴だと思つたが、兎に角物が欲しいのに違ひない。欲しければ遣る事にしようと、
『あの……君は、お茶がいるのですか? お茶がいるならば僕に従いて来給へ』
『若旦那様でいらつしやいますか? どうも有難う御座ります。どうも有難う御座ります。奥様に先程お願ひ申しましたが……中門から来るとはけしからんとのお叱り――それに、若旦那様の御親切。目から涙がこぼれます』頭に中古の手拭を置いて居るが顔が黒くて痘瘡面である。中門から台所の裏口まで腰を折つて爪先で歩いて薄い唇をペロ/\動かして居る。口は動かす為めに作つてあるが、これほどまでに動かしても可いものかと、いやになる程能弁である。栄一先生、全くクラシカルの乞食もあつた者だと閉口した。
栄一は台所へ這入つて湯が沸いて居るかと思つて、見廻したが、沸いて居ない。奥へ行つて鉄瓶を提げて来た。長火鉢には何時も火があつて湯が沸いて居る。台所に来ると女乞食は裏口の敷居の前に土下座して居る。針仕事してゐる廂髪の下女が吃驚してゐる。進んで行つて、
『此処へいらツしやい。さ。湯を上げませう』と竈の前の踏み上がりの上に立つて云うたが、
『どうも勿体なう御座ります。どうも勿体なう御座ります』と云うてどうしても這入つてこない。
『それぢや』と云つて、栄一は下駄をはいて乞食の所まで行つて鉄瓶を傾けると、乞食は渋紙を椀に乗せて受けようとする。
『変なことをするね』
『勿体なう御座ります。此様な鬱陶敷い椀でお湯を戴かして貰ひましては。勿体なう御座ります』と云つて、どうしても椀のまゝ湯を受けようとしはせぬ。真にクラシカルな乞食もあつた者だと思つて、馬鹿にせられた様な気で渋紙の上に湯を注ぎ入れて、鉄瓶持つて這入つた。乞食も出て行つた。
が、『あの乞食、金が欲しいのかも知れねえ、多分湯は方便だらう』と思つたから、『金が欲しければ遣る。いらぬと云ふまでやる』と思ひ立つて急にまた裏口から廻つて中門に出た。所が驚いた。彼女、四角い竹で編んだ籠の上に、
此者帰国セント思ヘドモ旅金ナキ者ナレバ
大方ノ御恵与を乞フ。
と、書いた一尺五寸四角許りの板を乗せ中門の側に土下坐をして居る。
『勿体なう御座ります。有難うて眼から涙がこぼれました』
『君、金がいるかい。……いるならこれを上げよう』と懐の中から一円紙幣を取り出した。
『若旦那様とやら、恁那旅乞食に一円遣らうとのお仰せ、有難い事で御座りますれど、有難い事で御座りますれど、若旦那様とやら、鉄瓶持つて湯まで貰はして頂きまして、お金一円遣らうとは、勿体なう御座ります』
と、つうと立つて乞食の店を終つて車まで帰つて行つた。その訴ふる様な声、その疑ふ様な声、驚いた様な声、軽蔑せられたと云ふ様な声は全く此女はクラシカルの乞食だと云ふ事を思はした。人相が悪い。然し人相が悪いからと捨てゝ終うのは本意では無い。
『それでは之れを取り給へ』と門まで追つて行つて二十銭銀貨を差し出した。
『勿体なう御座ります。有難うて眼から涙が……一円もやらうと仰つては私の様な乞食でも、どうしても貰へませぬ』と竹籠を車に収めて車の輾に手をかけてひき出した。然し車の中の子供は憎い憎い面をして車の屋根を支へてゐる隅の一本の柱を掴まへて、貰へ貰へと云ふ意味であらう、揺すつて揺すりまくつて大騒ぎを始めた。
『君はいらんのかね、物乞ひに来て。遣ると云ふなら貰つて置けばいゝぢやないかね』とかう駄目をつめた、女は二三間行つて車を止めた。引返して来て、
『勿体なう御座ります』と云ひながら栄一の前に土下坐して籠を差出す。栄一は此乞食の変な動作に驚いて居たが、
『それでは僅かだけれども取つて置き給へ』と一寸微笑んで銀貨を籠に入れた。そして直に門に這入つた。心の中では自分の慈善を罵つた。知らぬ顔して自分の室に這入つて机の前に坐つた。何をしようかと考へたが別に之れと云うて読む本も無い。横にある小さい鏡を取つて見入つた。この顔に鶴子が惚れるかと云ふのが問題であつた。然し自分手に『美しい顔だ。恁那女が居れば僕は恋をする』などと云つてみた。口を大きく張つて見たり、笑つてみたり、睨む真似をして見たりして長い間鏡に見入つて居ると、門の外に吉三郎の声と乞食の声が相混つて聞える。『まだ乞食は居るのか』と耳を澄ましてきいて居た。
遍路は一円の金に思ひ切りが悪いのであらう、栄一が門へ這入ると入れ変つて、お梅の命令で乞食の行方を見に出た小僧の吉三郎に、
『勿体ない事で御座りまするが、唯今の若旦那に、もう一度会はして下されたう御座りまするが……もう一度お目にかゝつて御礼を申し上げたう御座りまする。恁那旅乞食にあれまでの御心……』腰をかがめて左手を土にすれ/″\にして述べたてるところが如何にも哀れに憎い。小僧の吉三郎は乞食を眼の下に見て、
『何んじや知らんがな。おまはん、もう貰うたら往んだらよいでないでかだ。若旦那はもう奥へお這入りになつたでは』とやつて居る。
『一円のお金を遣らうと仰るのであまり勿体ないので一度は御辞退申しましたものゝ――』
『若旦那が一円遣ると云つた? 恁那乞食に――馬鹿らしい。うちの若旦那はどうかしとるのかいな』と胸の中で吉三郎は吃驚した。そして、
『どうすると云ふので、それで、またその一円を貰つて呉れと云ふのでかだ。おまはんの使ひはようせんがな。おまはん、もうお金貰うたんだらうな』
『一円のお金は御辞退申しました処がそれでは二十銭やると仰しやつて二十銭は戴かせて頂きましたが、わたしの子供が申しますには自分の宅へ帰らうと云うのに、お金がなうて困つて居るから、一軒々々貰ひ歩いて居るのに何故あの一円を貰はぬか、一軒の家で貰ふのも百軒の家で貰ふのも貰ふのは同じではないか? 遣らうと云ふ所で貰つて置かな先で困つて終ふで無いかとかう申すので御座ります。何ならもう一度若旦那様に此処まで出ておもらひ申す訳には参りますまいか?』とうつぶき入つて頼む。
『然し若旦那はもう奥へお這入りなさつたがな』小僧は左の手を腰の上に置いて乞食にはあまり頓着せぬと云ふ様子で首を左右に回して、通りの東西を見て、その眼で一寸見降ろして頗る応揚な態度である。
『勿体ない事で御座りますが、何卒も一度お目に懸ることが出来ますれば……恁那遍路に一円もやらうと仰しやる若旦那に。どうぞ丁稚さん、若旦那様にも一度お取次ぎをお頼み申します』
吉三郎はまた通りの東西を見て居たが、西の方を見るとフロツクコートを着てステツキをついた紳士がやつて来る。旦那のお帰りと見て取つた吉三郎は一層強硬な外交手段を取り初めた。
『おまはん、国へ往ぬ、国へ往ぬと云うて幾日此の徳島で愚図々々して居るで、うちが知つてから、もう、一月にもなるでないで、……それにおまはんは此間、寺島の鉄工場の横で何やら物を盗んだと云はれて職工に蹴られよつたでないで。おまはん、あまり慾が深いでよ。二十銭も貰うたら結構でないで……それだけ貰ふたらもうお帰りなはれ、一円も貰ひたいつて何で。お通り。お通り』
と、云ひ終らぬうちに乞食はベタリ土下坐して、うつぶき入つた。市長の旦那は増々近づいた。吉三郎は小々当惑の顔色で眼尻に皺をよせ、出歯をむき出して笑つてゐる。玄関の障子を少し開けて見て居たお梅はもう少し開けて顔だけを出す。市長の大旦那は愈々現場に立ち臨んだ。吉三郎は丁寧に『お帰り』と迎へる。
『吉三郎。どしたんな?』
『若旦那がお金二十銭もおやりになつたら、付け上りくさつて一円呉れと云ひ腐つて往なんですわ……此奴その癖に性が悪いので御座りましてない、此間も寺島の鉄工場の処で何やら盗みよつて、職工に打撲上げられよつたのでつせ』
『泣きよるのかい?』
『泣きよるのか何か知りませんが、かうしたらお金でもくれると思つて居んでせう』
台所から女中も出て来た。中門から頸だけ出して見物して居る隣りの洗濯屋から亭主が出て来た。向ひの角田の妻君が障子を一寸許り開けて見て居る。車の中の子供は、
『お母往なう――お母――お母――』と叫んで居る。
『お前此処は何処と思つて居るので、寝る処で無いでよ。さつさとお帰りなはれよ。愚図々々して居たら巡査を呼んで来るでよ』と小僧は市長を横に置いて大に威張つて居る。然し乞食は身動きもせぬ。
『吉三郎。奥からもう二銭貰つて来て遣れ?』と市長は云ひ残して玄関へ歩を移した。吉三郎は隣りの洗濯屋の亭主を見て、
『恁那者に二銭もやる者があるでかな。な。恁那者に』と云つて居る。隣りの洗濯屋は変な顔をして、
『一体。どうしたの?』
『いや家の若旦那があんな善いお方だろな。それで此奴が付け上り腐つて、なんでないで、若旦那が此奴に一円見せたんだらうな。そしたらそれを呉れ、それを呉れと云うとるんぢやがな、慾な奴ぢやな。そして貰うとらんかと云ふと貰うとるのでよ、二十銭も』
『オホー、二十銭も』
市長が這入ると、内に這入つた女中が二銭銅貨を持つて来た。そして吉三郎に手渡しながら、
『之れを遣つて帰れつて、それでも帰らんのなら巡査を呼んで来る様にと』特別に巡査の言葉に力を入れて云ふ。下女は洗濯屋を見て、
『今日は』と挨拶する。
『や、今日は――この人は一体どうしたので』
『さ、どうしたのかない。先きにも渋紙と椀とを持つて中門を開けて黙つて裏へ廻つて、裏口の処で土下座してお茶を呉れと云ふでないで、私も吃驚してな。そしたら奥様が出て行かせと仰しやつたので、出て行つて貰うたのですわ。そしたら若旦那があんな善いお方でせうな……』
『フム』
下女は続けて喋らうと思つて居ると玄関で『よし、よ』とお梅の呼ぶ声がしたので洗濯屋に挨拶もせず、黙つて這入つた。吉三郎は下女に変つて喋り出す。
『此奴、此間もあの寺島の鉄工場の横で職工に擲かれたのでよ。何やら盗んだのだつて。狡猾い奴じやな』
『ウム、此乞食は、長いこと、徳島に居るで無いで。此間だつて……それでももう十五日も二十日にもなるな……西船場に居つたがな』と洗濯屋も応じる。
女乞食は何を思つたか、洗濯屋が云ひ終るか終らぬにつうと立つて、
『此奴丁稚めが。覚えてゐやがれよ。こら、よくまア大勢の前で恥を晒しやがつたな。覚えてゐやがれよ』と荒々しく立つて車の所に近寄つた。近寄ると子供はワアと泣き叫ぶ。
吉三郎は乞食の正面攻撃に呆気に取られて物も云はず、恥しさうな赤い顔に変な笑ひを漏して、洗濯屋の亭主を見た。洗濯屋も淋しく笑つた。然し吉三郎はハツと気が付いたと云ふ様な様子で慌てゝ車の脇に走つて行つて、
『ホレ二銭上げるは』と車の中に抛り込で門へ立ち戻つた。
が乞食は車が三廻り四廻りかすると思ふ頃、車の中の二銭銅貨を取り上げて一寸後向いて、『恁那金は乞はぬわ』と土の上に投付けた。此の小気味の悪い投方に吉三郎は、
『アレ、遣ると云ふのに貰はぬと云ふ遍路じやどうで。まアあきれるは。ホホ……』と指の先に棘を立てた様な笑ひ方をする。
『非道い奴じやな!』洗濯屋も云ふ。
栄一は先から事の成り行きを八分通り知つて居たが、何だか矛盾して居る様に思ふので鏡を捨てゝ茫然考へて居た。すると、下の女中が、
『若旦那が一円も乞食にお見せになるのがお悪いのですわ』と云ふ声を聞く。すると何か自分も弁解せねばならぬ様な気もするし、自分の親切気に自分ながら感謝して呆れる様な気もする。また、徹底せぬ慈善主義は味噌にも糞にもならぬとも考へる。が、乞食の身の上が可哀想だと唯直覚的に泣きたい気もする。そして自分も父の家を捨てゝ気狂ひのやうな乞食生活を送るなら、あの様な運に出会すのだなどと取つても付かぬ空想に自分の立場を置いて考へて見ると、何とはなしに涙が落ちる。
半分泣きながら、玄関の二階まで出て、
『吉三郎。もう遍路は行つて終うたか?』と尋ねた。
『へえ今向ふの角を廻つて居ります』
『まだ向ふの角までか?』と急いで二階から駈け降りて玄関に出た。然し玄関に自分の下駄が無いから急いで裏へ廻つた。急ぎ様が何か意味あり気であるから、お梅が奥から出て来て、
『兄様、お父様が一円も遍路に遣つてはいかんと仰しやりましたよ』と伝へて来た。
が聞かぬ振して門の方へ出て『アヽ残酷だ。資本家は残酷だ。トルストイが自分の失敗した経験から慈善を罵つても僕は持つて居るものを皆遣る。遣ればもう遣るものが無くなる。無くなれば慈善もしなくつても善い。罪は社会にあるのだ。欺の乞食でも僕はかまはぬ。金をやる』と胸の中を掻き乱して遍路の跡を追つかけた。
恰度福島橋の上で追ひ付いて、籠の中に一円紙幣を投げ込んで置いて飛んで帰つた。
然し自分の宅の門には洗濯屋と吉三郎が未だ立つて居るので、宅へ帰らうとはせずに一町手前で折れて、鶴子の家のある町へ足を運んだ。そして普通の人の量る事の出来ぬ悲痛の涙にくれた。その涙は新見自身には甘いものであつた。