死線を越えて 01 死線を越えて

14話 十四

4,904字 約10分 2022年7月10日 公開

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 鶴子の家を訪れると鶴子は居た。鶴子は栄一に二階の勉強室に行つて居れと云つて、自分は台所で一寸用を済まして二階へ昇つて来た。

『今日はお婆様は?』

『お爺様もお婆様も皆留守なのですよ。独りお留守番でしたの。よく来て下したのね。然し、かうして会へるのも暫くですよ。私はもう六月の末には広島へ行く都合になりましたのですよ』と何だか憂ひを帯びた様なまた得意である様な句調で始めた。

『さうですか? 六月の末に、それぢやもう一月ですね』

『さうね』

と、云ひ乍ら自分の机の脇に座蒲団を据ゑて、

『どうぞお坐りなして』

『何しに広島へいらつしやるの?』

『幼稚園の方へ』

『さう? 勉強に?』

『はア保姆養成所へ』

『さうですか、それは善いですね。子供は可愛いものですね』

 鶴子は忽ち、変な目付をして栄一の顔をつく/″\見て居たが、

『ちよいと、あなた、泣いたの? どうしたの?』と尋ねる。

 悟られてうれしいやら辛いやらの新見は、唯、

『はア』と答へた。

『どうなしたの、一体どうしたの私に云つて下さらない?』

『さうね。云つても善いけれど――』

『私に云つて頂戴な。私に云へない様なこと?』と一寸前の障子を開いて庭に足音がした様に思つたので見てみた。然し人の影もないから、また閉ぢて、涼しい目を輝かし乍ら、

『私に云つて下さらないの……私を愛して下さるなら云つて頂戴な――』と鶴子には精一杯の勇気で云つて終つた。『愛してくれるなら』の一言葉で油の様に解かされた栄一は、

『鶴子様。あなた私を愛して下さるの?』と鶴子の手を取らうとすり寄つた。

『鶴子様。私の心をほんとにうち開けませうか?』

『うち開けて頂戴』

『云ひませうか?』

『云つて頂戴』

『ホホ……ほんとに聞いてくれる?』

『聞きますとも、聞かずにどうしませう』と云ひ終らぬ中に鶴子は栄一の手に接吻した。栄一も返した。

『それぢやね。鶴子様。云ひませうよ。……それでも云ふのが恥しいわ。オ恥し』と栄一は頭を一寸縮めた。

『ね。先き、私がね……云はうか止めようか?』

『お云ひなさいな。どうしたの? 今日はいつにない元気がないのね。どうしたの? 先き?』

『先きね、乞食に一円呉れて遣つたの。その乞食の事思つて泣いてゐるの』

『さう。善いことをしたのね』と鶴子は別に驚きもせぬ。が、その涼しい眼で栄一の眼を見詰めて、握つた手をグツと占める。片手を差出して栄一の左を呉れと求めた。

 栄一は美しい鶴子の眼付に恥しくて一寸顔を背けたが、鶴子があまりに見詰めるので、自分も鶴子の面を見入つた。見詰めれば見詰める程鶴子は綺麗だ。絹の様な滑かな頬に薔薇色の色合ひ、何故此様に美しいかと疑つた。視線と視線は永く合つて沈黙のうれしさに二人は酔つた。

 が元気な鶴子は、『それだけ? まだあるのでせう。すつかり云つて頂戴な』と沈黙を破つて促した。

『私ね鶴子さん。私もお父様の家に居るのは暫時だと思ひますわ』

『何故?』

『でも……』

『何故?』

 栄一は女の様に、子供の様に妙に逡巡して同情を引かうとして居る。それに鶴子は女らしく同情をしようと務めて居る。

『あなたも御存知でせう、お梅の事など――』

『知つて居りますよ。あのお父様のそれがどうしたの?』

『私ね、父がね。あの様な汚れた女を相手にして田舎のお母様を泣かして居られるのを見るに忍びないでせう』

『さうね。然しあなたはそれをどうなさるお積りなの?』

『私、それで困つて居るのですよ』

『まア、お坐りなさい』

『いや、私は立つて居るのが好き』

『さう、それぢや立つて居りませう』

『私、お父様にあの女を出して貰ひたいの――あなたどう思うて?』

『私は寧ろさう思ひませぬわ――』

『どうして?』

『あの、アウガスチンがね、悔改めて信者になつたのは妾に励まされたのださうですね? なんでせう、アウガスチンが妻を――若い妻を娶らうと思つて皆と相談して居ると前から連れて居た妾が、アウガスチンに捨てられても自分はアウガスチンを捨てぬと云つてアラビヤへ隠れて終つたのでせう。それが動機となつてアウガスチンは清い聖徒になつたんださうですね。私はそれを思つて居るのですよ。愛するものがあるので、どれだけ人間は柔和になつて居るか知れませぬよ。妾だからつて排斥するとまた反つて、お父様のお気に触つてどんな事が起るかも知れませぬよ――』鶴子は如何にも智慧者らしく語り出した。栄一は恋しい女から此様な言葉を聞くのがうれしくて堪らぬ。が、

『然しね……』と云つて見た。

『私はクリスチヤンだから厳格に、一夫一婦主義を守りたいのですよ。でも私は私の愛した人なら、その人が、たとへ何の様な女と罪を犯しても決して捨てませぬわ。その罪を許して地獄までも追つ掛けて行つて基督の処へ救つて来ますわ、アウガスチンもその様な事を云ひましたね。また私は思ふのですよ――真に愛しあつた者なら一生どころか二生も三生も一夫一婦で送りもするし送りたくて堪らぬだらうと思ふのですよ。あなたのお父様だつて決してすいて好んで女遊びはなさらぬと思ひますわ……』

『さうか知らん? プラトニツク・ラブの実現する事があるでせうか? そら勿論世界が算盤の珠の様に動くものなら一夫一婦主義は理想でもあり実現もせられませうがね――』と低い声で栄一は囁いた。

『だから、お梅様を、今の所独り愛していらしやるのならそれで善いでせう』と栄一の理窟ぽい疑問に頓着せずに云つた。

 栄一もその大胆な判決の広さに驚いた。美しい鶴子が何故か光る様に思はれる。鶴子の目は全く斯う云つて終つた時に大きく見張つて輝いたのだ。それで、

『鶴子様、あなたは真に大きい心を持つていらつしやるのね』と賞めなくてはならぬ様になつた。

 賞められて鶴子は下を向いたがまた新見の鼻筋のあたりを見ながら、

『然しわたしは、あなたのお心は充分察して居りますよ』

『さう、あなた、察して下さつて?』早や涙ぐんで居る。

『ね、鶴子様、私はもう世の中がいやになつたわ』

『なぜ?』

『父もあの様だが、自分も謎の様な人間に成つて終つたのよ』

『あなた、此世が嫌ひ、私が居ても』と云つて置いて可愛らしい鶴子は新見の冷い青白い頬に接吻した。愛に堪へ兼ねて栄一は鶴子を固く抱きしめた。そして小さい声で、

『斯うして地獄へ落ちても私は神様に不平は言はぬわ』と囁く。

『私も……』と鶴子は答へたが、その声は歔り泣きであつた。泣く泣く鶴子は囁いた。

『あなたもお辛いが、私もほんとに不仕合せですよ。あなたは私のことを思つて御覧なさい、どれ丈幸か知れませんよ』

『ほんとにね。私は鶴子様に同情して居るのですよ。鶴子様の為めなら死んでも善いと思ふ位同情して居るのですよ』

『オホヽヽ。うれしいこと……私の為めなら死んで下さる? それぢや、二人ともかうして死にませうか? そしたらすぐ天国へ行けますよ』

『ほんとに?』と恋に酔つた人々が先から先へと世界を創造して居る。

『……死ぬと鶴子様に会へないと云ふのなら、私は苦しくても悲しくても善い。此浮世に居りたいわ』

『私も』と栄一の美しい目をつく/″\と見詰めて居る。栄一も瞳から鶴子の胸へ這入つて行く位ゐ見詰めて、

『鶴子様は何故こんなに美しいの?』繰返して、段々と沈黙のよろこびに沈んで行く。

 が鶴子はまた問うた。

『それではあなたはどうなさるお積りなの?』

『どうつて、革命を起すのです』と栄一は笑つて云ふ。

『革命? 恐ろしいこと仰しやるのね。オホホホ。まア何でも善いわ。然し最後の勝利は愛と沈黙だと云ふ事をお忘れなさるな』栄一は説教を聞いて居る様な気がした。が黙つて鶴子の唇に接吻した。そして静に口を開いて、

『さうかも知れませんね。然し白紙の様な人間の真似は僕は嫌ひですよ。僕は色を白く塗りたいのですよ』

『さうですね。それでも自己の主張を他人に無理矢理に強迫するのは真理の敵ですよ、神で無い以上は、自分を自分に支配する者は他人を支配する者ですわ。私此頃つく/″\恁那ことを考へて居るのですの。私がね教会の皆様や内の爺様や婆様に同情して貰はう慰めて貰はうと思つたらいつも慰めが得られないで、苦しくて苦しくて堪らぬのですよ。さうでせう、此度広島へ行くときめるに付きましてもね、色々と自分に心配がありませう。そら学資の方はミセス・テーラーが心配してくださるのだけれども、その外に色々と心配がありますわね。それが他の人に心配して頂かうと思つたらいつも失望許りなのですよ。あなたが此の一週間許りいらつしやらなかつたでせう。その間にね、私は三日程学校を休んだのですよ』

『何故?』

『何故つて、病気で』

『どんな御病気?』

『一寸頭痛がしただけでしたが――』

『どうしたの?』

『どうもしないのですがね、心配で心配で堪らなくつてね、たうとう寝込んだのですの……親類ではもう年だから外へ遣りたいと云ふし叔父の方では高等師範へ行けと云ひますしね、私は神戸の女学院か東京の女子学院へでも這入つてみたいのでせう。ほんとに苦しくてね。あなたでもいらしたら枕元へ来て面白いお話でも聞かして貰はうと思つて居たのですけれど。あれからどうしていらつしやらなかつたの?』

『ね、あまり毎晩出るものですからね、内では不審に思つて居るし、お父様も怒つて居らつしやるしね。それ、時行さんがお帰りにならなくなつて遅くまで話した晩などはね、私、父に叩かれた位ですからね。あまり夜出るのは悪いと思つたから控へて居ましたの』

『まア――あの初めていらした晩? 非道いのね! あなたをお叩きなしたの? 栄一様を? 私の可愛い人を? 何故? 私が代りに叩かれゝば善かつたに。遅くなつたからお叱りなしたの?』

『はア』

『それぢや、何故私の宅へ泊りにいらつしやらなかつたの? 宅は年寄許りだから喜んでお宿め申すのに。今度から遅くなつたら私の宅へ泊りにいらつしやいよ。宅の爺さんや婆さんは善い人だからね。あなたが毎晩泊りにいらしても喜んで居りますわ。……さうあなたお父様にお叩かれなしたの、今度叩かれるなら屹度私が代りに叩かれますわね』と鬢の髪を掻き上げながら首を左に傾けて云ふ。

『鶴子様。あなたは三日もお休みになつて居らしたの? 三日も?』

『ア、恰度床の中に居ましたのは三日ですよ。頭が病めましてね。ほんとに苦しかつたわ』

『それぢや来れば善かつたにね。三日も寝たの? 今度御病気になつたら屹度看護に来ますわね』

『来て下さいね。お約束して置きますよ。あなたが来て看護して下さるなら、すぐと回復(なほ)りますよ……あなたそらさうと肺はどうなの?』

『私の肺? もう善いのでせう。然し無理が出来ないのですと』

『あなた自分の病気を他所の人の事の様に仰しやるのね』

『それでも此病気だけは解らないのですもの、自分には』

『ね、あなたが、私の病気の時に看護に来て下さると仰しやるから、あなたが今度、もしも肺でも悪くお成りになつたら広島からでも飛んで帰つて来て看護しますよ。電報打つて下さい、すぐ帰つてきますから』

『屹度? うれしいことね。鶴子様の看護? ラザロの様に死んでゐても、鶴子様が「起てよ」と云つたら、その一声で甦りますよ』

『甦る? それぢや、あなたがお死になさる前に私が死んで居ましても生き返つて来ねばなりませんね』

『さうね』

『さうすると、誰が私を甦らしてくださるの?』

『そら、私』

『それぢや私とあなたとは一緒に甦るのね。それからもう死なゝいの?』

『死んでもまた甦るの?』

『可笑しいこと仰しやるの。もう、それからは天国へ行くのでせう。一緒に天国へ行きませうね?』

『あなた道案内してくださる?』

『案内して上げますとも、オホヽヽ』

『The Woman-Soul leadeth us upward and on ! ですか?』

 二人は恋から恋に、幻から幻に迷つて、甦る時の相談までして時間を潰した。それで、日の暮れるのも知らなかつた。日暮れにお婆様が帰つて来て栄一を喜んで歓迎した。夕飯も一緒に食へと勧めたので夕飯も一緒に食つてまた九時頃まで話した。別れると云ふ時になつて、鶴子に温かいキツスを与へて、自分の宅へ飛んで帰つた。

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