死線を越えて 01 死線を越えて

15話 十五

4,224字 約8分 2022年7月10日 公開

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 議場は混乱に陥つて何が何やら薩張りわからなかつた。議長は声を嗄らして『御静粛に願ひます』と連発した。然しそれは無効で有つた。議長席の下で公民派の榎本厚吉と土曜会の増田尊徳が罵倒し合つて居る。榎本は三等郵便局を請合つて居る公民派の顔役である。

 中央では土木課長の本田時彦と『活弁』事楠本春次が寺島派の井上、結城、中立の三谷の三人と格闘をやつて居る。楠本は富田遊廓第一級選出の議員で、公民派のあばれ者であるが『活弁』と云ふあだ名を取つたのは彼の演説が活弁の句調とそつくりだと云ふ評判があるためである。

 議長席の右側でも市助役の畠山が、土曜会の北田と衝突して居る。今日は近頃新聞で問題になつて居る臨港軽便鉄道問題と例の富田川浚渫事件が市会で討議せられて居るのである。国民系の土曜会ではその機関新聞で随分手非道く新見市長をこき卸してその悪辣な遣り方を攻撃して居たので、今日は傍聴席も一ぱいである。

 栄一も父の議員操縦振りを見るためと田舎の生活の単調を消すために傍聴席の隅に隠れて居た。

 今日の議場が混乱すると云ふことは始めから見えすいて居た。それは去年の三級補欠選挙の時に公民派が寺島派との口約を破つて、寺島派の市会議員細田保氏の補欠だから必ず寺島派の或者を推すことに賛成すると云うておいて、本年二月の選挙間際になつて、突然三級候補に、富田遊廓の検番取締花田真誠を選出することに運動し、美事、政友系の勢力を持つて勝利を得たのである。それ以来、寺島派はこと/″\に公民系の新見市長をいぢめることを画策して、善にも悪にも兎に角一度は必ず反対してみると云ふ有様で、議場に於ても『之は公民派の主張でありますから我等は之に反対します』と一も二もなく反対するのである。その最も極端な一例は今度の臨港軽便鉄道問題がそれである。政友系は例の積極政策からいつでも事業を起して議員も儲け、選挙民にも悦ばれる為めの事業のあることを喜ぶのであるが、臨港鉄道問題だけは喜ばなかつた。それはこの問題が最初弁護士仲間――即ち寺島派から市会に持ち出されたからである。最初の提案は市の繁栄の為めに臨港鉄道が必要である。で、これは当然徳島市直営の事業として、政府の補助を仰いでやるが善いと云ふので有つたが、政友系の之に反対した理由は、政友系は新見を始め市の有力者を含んで居るが、寺島派の提案に賛成することによつて、利益の多くは提案者に奪はれると思うたからである。然し更に研究してみると地主は多く政友系の人々なので遂にそれに賛成することになつた。市会の議論の中心点は、市の当局が何故富田川の浚渫を怠るかと云ふ問題である。そして寺島派は一種の収賄行為がそこにあると云ひ触らして居るのである。そして、十四万円からかけた浚渫船が、僅か二三年しか使用しない中に、もう廃物の様になつて、船大工島に繋いであるのは市長の無能の為めであるのみならず、新しい浚渫船の注文の事についても何かそこに不正な行為がある様に云ひ触らされて居るのである。それで、最初富田川浚渫問題が日程に上つた時に、土曜会の増田尊徳が先づ質問した。

『議長、二十三番、私は浚渫問題に就て市長自らに質問したいのであります。それで、市長に是非とも議場へ出席を希望します』

 さうすると議長は市長が別室で、代議士連と浚渫問題で相談中である為めに、一寸顔が出せないと答へた。

『然らば土木課長でも善いです』と云つて、『最近大阪から修繕して帰つて来た浚渫船が毎日船大工島で遊んで居るのはどう云ふわけであるか説明を願ひます』と質問した。

 それに対して、土木課長は、『遊んで居るのでは無い、一日に五百噸乃至六百噸の土は浚渫して居るけれど、あんな旧式な機械では、とてもこの大きな川底を浚渫することは出来ないが、一日雨が降つて、土砂が上流から流れて来ると、約三万噸から五万噸の砂が浚渫した後を埋めるので、何の役にもたゝぬから、自然に対する不可抗力には打勝つことは出来ないとあきらめて居るのであります』

と、答へた。があきらめて居ると云ふ言句が、如何にも悲しさうなので、議員は皆笑つた。

 それで、増田は、あきらめる様なものなら、何故修繕にやつたかと問うたが、土木課長の本田は、議員の無智を笑ふが如く、

『それは、私共が御請求申したのではありません、市参事会も、市当局も、徳島港には全くあきらめをつけて居るのでありまして、富田川の浚渫は、全く無効であると申上げて居るのでありますが、皆様は御自分に多数決で御決議になつて、私等におしつけられたのであります。今頃になつて、その責任を私達に転嫁しようと云ふのは無理であります』

 その時、増田はグツと癪に触つたが、

『責任を転嫁しようと云ふのでは無い。そんなことがわかつて居るならなぜもう少し早くから、市会に忠告しないかと問ひたいのである。私は今日まで徳島港が駄目であると云ふことを聞かなかつた』

 増田は運送業者である為めに、特別に浚渫問題に八釜敷いのである。

『然し皆様は、御説明を申上げても御用ひにならないのです。こんなことは、専門家にまかせて下されば善いのです』

『では、土木課長、君は市会は無用だと云ふのかね』と弁護士の井上が坐つたまゝ議長の許可も受けずに叫んだ。

『何吐してるんだい、掴み上つて』と結城が怒鳴る。

『市長を出せ、市長を出せ』と三谷が叫ぶ。

 助役の畠山が市長室へ飛んで行く。給仕が何か議長の耳に囁いて居る。

『市会を馬鹿にして居る』と結城が独言のやうに云ふ。

『謝罪させろ』議席から井上が叫ぶ。

 傍聴席に居た栄一はこんな声が議場の所々に起るので、もう吃驚してしまつた。新聞記者連は何か八釜敷く笑ひ合つて居る。それを議長が睨みつける。併しそんなことを新聞記者は何とも思つて居ない。議場には三十八人しか出席が無いが、まるで何処かのクラブへ行つた様に八釜敷い。

 井上は立ち上つた。そして、

『議長、我等は、本田氏の唯今の言論は市会を侮辱したものとして、謝罪を要求します』との動議を出した。

『賛成、賛成』の声が、多数の口からもれる。政友系のものまでが、課長いぢめに賛成を叫んで居る。

 さうすると、活弁事楠本春次が、土木課長を救うてやるのは今だと立ち上つて、

『何の謝罪だか薩張わからんぢや無いか?』と叫ぶ。

『黙れ、活弁』

『引込め、女郎屋の亭主!』

 議員の口から楠本に対する罵倒の声が漏れる。

 楠本は罵倒の声を聞くや、

『君らの云ふことは少しもわからぬぢやないか』と井上に云ふと、

『貴様に用事は無いわ』と井上が返す。

『貴様てなんだ』と楠本が議席をはづして、井上の処へつめよる。結城は大きな声で、

『議長、謝罪謝罪』と叫んで居る。さうすると、土木課長は、

『馬鹿臭い、何だそんなことに』と口籠つた。すると結城は赤い顔して怒り出した。

『馬鹿つて何だ、貴様こそ、馬鹿だ――掴みやがつて』かう聞くと、先きから沈黙を装うて居た本田は青筋を立てゝ、

『掴んだと云ふのは、何処に証拠があるんだ、そんな無礼なことを云ふと、許さんぞ』

『貴様が掴んだから掴んだと云ふのぢや、よく良心に聞け』

『馬鹿!』本田は泣いて居る。

『馬鹿つて何だ、貴様こそ馬鹿だ』

 助役の畠山が這入つて来た。土曜会の北田が席をはづして、畠山の所へ走つて行つた。

『市長を早く出さなくちや駄目だ、新見君どうしたんだい』

『いや、すぐ来る、話も大分進行して居たやうだつた』

『然し、本田には謝罪させなくちやいかぬよ、畠山君』

『謝罪の必要なんかあるものか』

『そんなこと云ふから君等は官僚式と云はれるのだ』

 井上は楠本に胸を掴まれて、今にも喧嘩せんとして居る。今楠本は井上を擲つた。三谷と結城が駆けつけた。外のものは茫然見て居る。政友系のものは小さくなつて居る。殊に無髯の近眼の花田真誠は顔を真青にして震へて居る。

 益田尊徳は、議長を連呼して居る。議長は給仕を連呼して居る。市長を呼びにやる積りであるらしい。

 増田は議長席へ近づいて行つた。そして議長席の下から、

『議長、楠本を懲罰委員に附して下さい』と早や懲罰問題を出して居る。さうすると、議長の味方だと自任して居る三等郵便局長の榎本厚吉は、

『懲罰無用、懲罰無用』と叫んで居る。

 然し政友系の口からは、

『最初は井上が悪いのだ』

『井上、謝罪、井上、謝罪』と叫ぶものがある。

 そこへ市長が這入つて来た。そして番外席についた。その態度が如何にも応揚で、権威があるらしく見える。

 栄一は父の議場を何とも思つて居らぬ態度にすつかり感心してしまつた。

 そして市長が這入つてくると、議席はまた馬鹿に静かになつた。そして懲罰問題も、謝罪問題も忘れたやうになつて、凡てのものが議席に返つた。井上は、自席の机にもたれかゝつた儘顔を見せない。本田は番外席に坐り直つてハンカチで涙を拭いて居る。

 西村議長は『唯今、市長より、浚渫問題に就て御説明があります』と云ふと、

 新見市長は極く簡単にこんなことを云うた。

『富田川が全く駄目であることは既に諸君も御存知だと思ひます。それで此度内務省とも、県当局とも話して、研究の結果どうしても駄目と云ふことがわかれば、小松島か古川港に臨港鉄道を以つて徳島市との聯絡を取り、残念乍ら、徳島港を放棄すると云ふことに決定したのであります。従つて、富田川浚渫問題も一年十数万円と云ふ多額な費用を浪費するに忍びませんから、現今の浚渫船は売払つて、艀船の出入の為めには別に現今も持続して居りますやうな人力で浚渫することにいたします。各派の代議士諸君とも御相談の上その方針を取ることに決定しましたから、諸君におかれましても、左様御了解あらんことを希望します』

 これに対しては、議席から質問の一言葉も出すものは無かつた。それは、先きの井上と楠本の喧嘩で、議席は反動的に安静を要求したからである。

 議長は『それでは本日は之れで散会いたします』と宣告した。そして、議員は各自、喋り乍ら休憩室の方へ流れて行つた。

 栄一は、狐に憑れた様な気になつて、傍聴席を出た。そしてその足ですぐ鶴子を訪問して議会政治のつまらぬこと、四十人足らずの市会に二人まで女郎屋の亭主が居ること、議場に於ける父の偉大なことを讃美して居た。

 翌朝、食事の席に、栄一は一寸、父を賞めた。之は栄一が父を賞めた初めてゞ有つた。それに対して、父は『さうか、おまへも来て居たのか』と答へたのみで有つた。

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