16話 十六(1)
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小学校と云ふ処は妙な処である。
栄一は尋常三年生の乙組五十三人を受持たされたが、低能児の多い組であつた。栄一が黒板に何か書いて居るとすぐ生徒がわい/\騒ぐ。車輓の子供だと云ふ石川常次は年齢も十一になる小僧であるが最もよく騒ぐ。狂暴性と云ふものか注意力は少しも纒らなくて、机の上に平蜘蛛の様に拡がつて――机がこの児には低く過ぎるのである――硯を出してみたり鉛筆を噛ぢつてみたり、雑記帳に楽書してみたりして居るかと思ふとすぐ隣の石板を取り上げる。隣りの児が泣く。全級の生徒が騒ぐ、栄一はほと/\閉口した。
組で矢張りよく出来るのは中流以上の子供であつた。弁護士で市会議員をして居る増田尊徳の次男や、同じく弁護士で市会議員の河井の子供がよく出来る。勿論貧乏人の子供でよく出来るおとなしい谷本と云ふ子供などもあるが、衣服の穢い子供は矢張り出来が悪い。それで栄一は此処にも社会改革が必要だと思うた。栄一は自己の案出した学習心理を応用して、注意力の集中と趣味と『繰返し』と、言語中枢と視覚に訴へる為めに随分注意した。然し教室の喧躁は取れなかつた。それは教室の狭いためと、心理的能力の違つて居る各種の子供を一教室に追ひ込んで教へる為めであつた。
栄一は自分の教室を『豚の教室』と呼んだ。石井常次は休憩時間十分間に十一人の子供を泣かすことは稀で無かつた。それで栄一は石井常次が自分の教室に居る間は完全に授業が出来ぬと思うた。然し首席訓導にも又は校長にも話す勇気は無かつた。あまり栄一の教室が八釜敷しいので、隣の四年の教室を受持つて居る師範出身の沢村と云ふ男が覗きにくる。『君静かにさしてくれな困るよ』と云ふ。
毎週月曜に開かれる教員会議で首席訓導と校長はたゞ『訓練、訓練』と云ふことだけを繰返す。栄一はそれが自分を指して云ふのだと思ふと頭が上らなかつた。それで首席訓導はどんな風に教へて居るかと覗いてみると女生徒の四年生が、静かに授業を受けて居る。感心する。然し栄一は女生徒であればあれ位の静粛は保たしめ得るとも思うた。
教室は毎日八釜敷かつた。それで校長が臨席する様になつた。然し校長の臨席位で石井常次は沈黙しなかつた。それで栄一は石井常次を変態心理の児童だとしてあきらめて居た。沢村と首席訓導の林が栄一を侮辱するやうなことを云ふ。然し栄一は沢村や林に変態心理がどんなものだかわからないものだと考へたから敢て反抗もしなかつた。
教員生活は愉快なものぢやなかつた。殊に教授細目の作成に至つては沙汰の限りであつた。馬鹿気て書く勇気だに無かつた。栄一は日本の小学校は人間を殺す処だと考へた。
教員室の気分は殊にいやであつた。月給一円や五十銭の差で二十六人の教員が皆階級を異にして居る、栄一は尻から五番目であつた。栄一よりつまらないものは準教員養成所をこの間出て来たまだ年の若い何にも知らぬ男教師二人と女教師一人と、福島小学校校長の長男で今年の四月に中学校を卒業した十九になる青年の四人であつた。
然し実際の学力では全先生中栄一に肩を並べ得るものとては無い。栄一は英語と独逸語は自由に読むし、科学でも宗教でも社会問題でも文学でも芸術でも読めない本とては無かつた。それで栄一は授業の休憩時間には独逸文の哲学書などを読んで居た。
それで首席訓導も沢村もあまりいぢめなかつた。同じ教員室に居ても女教員と男教員と話をすることは稀であつた。それをすることは罪を犯すことのやうに皆のものが考へて居るらしい。然し去年この小学校の男女教員の間に出来た恋愛問題は教員間には面白く伝へられて居た。その二人は今は夫婦になつて美馬郡の山奥へ教員になつて行つて居るさうであるが、教員仲間ではまるで死刑囚のやうに悪口を云うてゐた。
兵式体操と修身だけは八釜敷かつた。栄一はその形式的の軍国主義教育の中毒に驚いてしまつた。
栄一は小学校は彼が長く奉職すべき所でないと思うた。然し生徒が可哀想であつた。世界的に偉大になり得る国民が今日むざ/\とその芽生え時に殺戮されて居ると考へれば堪らなかつた。
栄一は日本の教育は人間を人形に造り上げるのが目的であると断定した。そして彼はルソーの『エミール』や『ソフヰア』の教育――それは恋愛教育までも含んだものであらねばならぬ――のことを思うて日本の教育を呪うた。
そしてソフヰアとエミールの恋愛教育を思ふと、自分と鶴子の恋愛が幸福なものであることを自ら祝福して毎晩会ひに行つた。
栄一は自分の恋の成功を喜んだがまた云ふ可からざる苦痛を感じて来た。然し恋人と語る一分は二十四時間の苦痛を贖ひ得ると信じて絶えず鶴子を訪問した。もう一月すればまた別れねばならぬと思ふと、何だか小説じみた悲哀の情緒が湧くので恋の趣味が一層増した様に思はれた。
然し宅では頻りに栄一が夜遊びする様になつた事を非常に怪んで居る。
吉三郎も未だ秘密を知らぬし奥も栄一が鶴子に通つて居ると云ふことは知らない。だから奥の方では下女の『よし』が毎晩伯母の宅へ行くと云つて出て行く事などから或は栄一が常々から女中にあまり親切な素振をすると云ふ所から、此辺に秘密があるのではあるまいかと推察して居た。
処が五月の月も今日一日と云ふ日の夕方、下女の『なほ』本名大山こまんはお梅から暇を貰つて帰ることになつた。その理由は此度看護婦になると云ふのであつた。
奥では朝から晩まで栄一とこまんの関係の噂で持ち切つて居る。吉三郎はこまんが或時栄一のスタデーに泣いて居るのを見たと高い黄ろな声で云つて、お梅の好奇心を買つて居た。
大山こまんは五月一ぱいを限りとして去つた。それでお梅は吉三郎を口入屋へ遣つて、ちよつと美しい小間使を探して呉れと頼んだ。然し直にと云ふ工合にも行かず二日立ち三日経つて早く一週間も下女無しに送つたが、一日下女の来るのが延びると一日栄一が怨まれる日が長く延びる、お梅は蔭になり陽になつて栄一が下女に暇取らしたのだ、宅が憎いから宅が困る様にと思うて下女を帰なしたのだと出来るだけの悪口を云つて居た。
処が、六月七日の夕景であつた。栄一がもの思ひに沈んで散歩から帰つて来る途中寺島の剣先でヒヨツコリこまんと行き会つた。こまんはもう立派な女学生で下女の様な面影は少しも無い、そして憎くも無い眼付きをして栄一にお詫びすることがあると云ひ出すのである。
『お詫び?』と栄一は問うた。
処が『奥様が此度私がお宅からお暇戴いたのを何か私と貴君と関係があつて私が出たと云ふ様に思ひなしていらつしやるのですから』と悲しさうに囁いた。それで栄一は、
『実際関係があるでせう。私が貴女に看護婦になれと勧めたのだから全く関係が無いと云はれますまい。……一寸、然し一体誰れから奥様がそんな事を思つて居ると聞いたの?』
と、聞かれてこまんは赤い顔して、
『此間一寸吉三郎と道で会つて聞きましたのですが、唯今お宅へ一寸お礼に参りましたら奥様が「栄一様とお前は此頃思うた様に遊べるだらうな」と仰しやつたので吃驚したので御座りますわ――』と答へる。
『君は卑怯だね。はい毎晩狂つて遊んで居ります。ヘイ、それがどう致しました。そしてお手前は? と云へば善いに。さう云へばお梅は閉口して終つたゞらうにね』と栄一は強い言葉を並べ立てた。するとこまんは手に持つて居た更沙の風呂敷で顔を蔽うて、
『オホヽヽヽ、そんな嘘が云へますものか? オホヽヽ』と笑つた。
『然し言葉は仮物だからね。逆に云つたら合点することがあるものですよ』
『それでも……オホヽヽ』
『僕は君と関係があると云はれたら嬉しいよ』
『若旦那。御冗談ぢやありませんよ。ホヽ』
『君の嫁入に差支へますか? それぢや関係があるとは云ひますまい。が僕は他人の誤解位は何とも思つて居ないから其積りで心配し給ふな。なにお梅の野郎がどう云つたとて、そんな事は気にかけ給ふな。それはさうと、もう入学が出来たの?』
『お蔭様で』
『そら都合が善かつたね。勉強し給へよ。凡ての女の人は僕が君によく云つた様に、フランシス・ウイラードやナイチンゲールの様な人間になれるのだからね。たとひなれなくとも立派な子供のお母様にはなれるのだからね』
『精々勉強はして居ります。今度の入学試験にも高等女学校卒業生許り応じましたがね。その中で二人しか入学の許可をして呉れませんでしたの』と云つて人が通りかゝるかと思つて通りを見て居る。
『さうですか? それは善かつたね。実際此頃の高等女学校の生徒などと云つても宛にならぬからね。何しろ自分手に勉強して満足する人が一番豪いのですよ。僕などもと云ふとをかしいが、僕など学校で真に教へられたことと云ふことは少しだね。君など看護婦養成所に居つても自分手に勉強をせなければ駄目だよ』
と、兄の様に友の様に云ひ聞かすのでこまんも満足して、
『はい。有難う御座ります。若旦那とは少ししか、御付き合ひ致しませぬが色々と受けました御恩は真に忘れません。屹度御恩返しいたします』
『御恩返しとか何とか、えらい歌舞伎めいて来たね。御恩も何も有つたものぢやない。君、今五十年して見給へ、下女とか云ふ事は昔噺になるよ。今の中に看護婦にでもなつて人に笑はれ無い様になつて居らな、年食つて恥かくよ、ね』
往来の人々は変な目付をして二人を見て通るが、栄一は反つて視線を浴せかける。
『それでも、あなた様がいらつしやらなかつたら私は看護婦などには夢にもなれませぬわ』
『そんなに拝まなくてもいゝぢや無いかね』
『ほんとに、若旦那は善いお人ですね。それに何故あんなにお父様が可愛がりなさらぬでせうね?』
『善い人だ? 人を馬鹿にしてるね。僕はもう失敬しますよ。帰つて少し勉強しなくちやならぬ』
『それぢやまたお目に懸ります』と二人は立ち別れた。が、こまんは別れて一町許り行くと吉三郎が風呂敷包を持つて向うから遣つて来るのを見た。吉三郎はこまんが誰れと話して居たかを聞いた。若旦那とだと少し顔を赭らめて答へると、吉三郎は苦々しく笑つて通り過ぎる。そして二三歩進むと、
『をかしいな! 誰やら』と振り顧つて叫んで置いて道を急いだ。
翌日の朝栄一は平常の様に、父やお梅に遅れて食事しようと八時十五分程前に二階のスタデーから下の台所へ降りて来た。栄一は朝の五時頃から大抵三時間読書する習慣がある。二階から降りて来るとお梅は変な顔をして『流し』の前から、
『お早う、今日はいつもより遅いのですな』と云ふ。
『いゝえ、平生の通りで御座りますよ。八時前で御座りませう』
『八時ですか、もう。私などはもうちやんと六時半頃に朝の御飯をすましてそれからお雑仕にかゝつて居りますのですよ……雑仕が急しうて困る。はや、二時間も御雑仕許りして居つて』
吉三郎も恰度板の間に飯を食つて居たが、お梅は吉三郎の方にむいて、
『吉三郎、真に朝は急しいな。若旦那の様に朝が遅いと困る。恁那にまで遅く本を読まれると困るな。精々七時までに切り上げて貰はな、な』その云ひ方が面憎い。吉三郎は笑つて許り居た。
『これでも下女が二人も居つて、若旦那に一人だけ、附けて置いて、若旦那お独りのお雑仕から何からすつかりさせたらな善いのぢやけんど。女中が居らん上に八時頃まで雑仕を待たされると一寸困るな。な。これ吉三郎』
『ヘエ、ヘエ、……』と吉三郎は唯栄一の顔を見て笑つて居る。
『栄一様、昨日こまんさんが来ましてな。若旦那によろしく云うて居りましたでよ』
『さうですか? それはどうも有難う御座ります』と軽く答へて、お梅を相手に為なかつた。栄一が怒るであらうと思つて揶揄つたにあまり答への軽いので、
『若旦那は昨日こまんに逢うて色々面白い話が出来ただらう。な、吉三郎』栄一は別に驚きもしなかつた、吉三郎がお梅に告げた事だと思つたから。
『女中が居らんので奥や吉三郎が困つて居るのは、脇から見たら面白うて小気味が善いだらうな。「奥様がむづかしいからその罰ぢや」とこまんが云つて居つただらうな。栄一様』
『さう云つて居りましたか知らん?』
『小気味が善いわ。そら、お父様や弟様が困るのは、そして私の様な駄性たれ奴が困るのも。栄一様、此頃は毎晩毎晩、あの可愛いこまんさんと、打ちくつろいで話が出来るだらうな。此頃はこまんさんも綺麗になつたな』
云はせて置けば勝手に復讐をやつて居る。が栄一は別に騒が無い。
『さうですね。こまんは綺麗になりましたね』
『綺麗になつたから嬉しいだらうな』
『嬉しう御座りますよ』
『そら、水仕奉公をして居つたら綺麗な人でも穢うになるわな。宅に使はれて居つたけん、小まんも穢なかつたのぢや。ほんまに水仕は毒ぢや。私が早や七日で手や顔の艶がなくなつてしまうたもの。な吉三郎。さうだらうな、奥様の手のきめを見なはれ、これ、恁那に荒れて来た。どうで』
栄一は心の中でお梅の小さい根性を嘲笑して居た。併しお梅には足る程悪口を云はさして遣らうと思つたから、小言を云はれて甘くも無い飯を出来るだけ落付払つて腹一杯食はうと決心して居る。
『な、吉三郎。これから女中が居らん間は皆面々に自分手に御飯を焚いて自分手に食ふことにせんで――自分だけ本を読んで居れば善いと云ふ人があるけん……』
まだ栄一は怒らぬ。
『栄一様、今日はお弁当が出来まへんでよ。益則さんのが漸う出来兼ねた……』お梅は益々脅迫して来た。が栄一は何とも考へて居らぬ。
『アヽ、漸う、雑仕がすんだ。もうお雑仕がいやになつた。栄一様、私はもう髪を梳き付けんならんけん、そのお膳とお茶碗は自分手にお洗ひなはれよ。アヽ忙しかつた』と云うて流しを去つて奥へ這入らうとして、両手を前掛けで拭いてゐる。吉三郎は食事が済んでお膳の蓋を頂いて居る。お梅は『よろしく』と冷やかに笑つた。
栄一も云はれた通り静かに膳を『流し』に運んだ。お梅は栄一がどうするかと思つて、立つて見て居たが、茶碗を洗ひながら笑つて居る。お梅は心細く、
『可笑しい人!』と低い声で嘲つたが、栄一の耳には這入らなかつた。笑ひも止らなかつた。
『アレ、ほんまに、可笑しい人ぢやな』とお梅は再び繰返した。此の嘲弄の声が今度は少し耳に這入つた。
その時、茶碗を洗ひ終つて桶から取り出す処であつたが、茶碗取り上げ栄一は、粉微尽になれと敷石めがけて投げた。茶碗は砕けた。栄一は、
『アヽ破壊れた。アハヽヽ』と夢の様な軽い笑ひを洩した。お梅は、『吃驚した。危ない、ようまア私の目にでも破片が飛んで来なかつたものぢや』と云つて奥へ這入つた。
栄一は学校へ急いだが、その日の授業を面白くすまして何処かへ隠れてしまつた。三日許り家に帰らなかつた。田舎へ帰つたのでも無い。鶴子の処に居たのでもない。勿論こまんの処にも行かなかつた。
三日目の晩方真蒼の生気の無い痩せた顔をして帰つて来た。帰つて来た時一人の女中はこまんの代りに台所で忠実に働いて居た。
鶴子は栄一に決して父に反抗してはならぬと勧めて居た。然し栄一は鶴子の寛容は、ルーテルのプロテスタンチイズムを帯びた近代的色彩が無いと考へた。そして父の反省を促す為めに自分が気狂ひになつても善いと考へて居た。諫めて駄目だとは決して思はぬ。栄一は一々父の反省を促すべき事を数へて『第一反省を促すべきは金その者の価値に就いてゞある。第二は株式の一攫千金の夢である。第三は市長の価値そのものである。第四には女遊び。第五にはお梅と本妻と自分等子供の所置を明瞭に付けて貰ふ事である』と思ひ悩んだ。そして父は必ず自分の様な心になれると考へた。彼は駄目だとは思はぬ。が、父を之等の諸点に就いて納得させるには尋常一様の手段ぢや駄目だとも考へた。
海の様な寛容で、女遊びも蓄妾も、笑つて許して遣りたい気もした。然しキリストの様な熱と血の流れて居る多くの聖徒を思ふと、また『否、否』と反対せねばならぬ様に思はれた。
一緒に住んで居ると、突然父を掴へて諫めるのも何だか変な気もするので、延ばし延ばして三十日も過ぎた。諫めると云ふ事はなか/\出来ないものだ。
三日断食して何処からか知らぬが帰つて来た晩、父とお梅が長火鉢を間に置いて煙草を吸ふて居るのを見付けたので、折もよしと二人の前に現れた。
『唯今帰りました。色々御心配かけましてすみませんでした』と栄一は手をついて平気で謝した。
父は黙つて知らぬ顔をして居る。お梅は愕いた顔をして、
『お帰り。宅ではどんなに心配して居つたか知れまへんでよ。栄一様……何処へ行つて居つたので?』
『いや、一寸考へることがありまして――』
父は威張つた目付で栄一を一寸顧て、
『栄一、貴様の様な不孝者は無いぞ……よく考へてみい』と冷い落付いた口調で云ふ。一座は暫し身動きもしなかつた。
然し栄一は顔を上げて、厳格な犯すべからざる態度を取つた。父は両臂を長火鉢の端にもたせて、栄一の動作には無頓着を装つて居る。お梅もさうだ。然し二人とも心の中ではどんなことを栄一が為出かすか知れぬと思つて心配して居る。
が栄一は中々口を開かぬ。その高慢な王様気取りで居る様な視線を父に浴せかけて居る。
父は自然身が震へて恐ろしくなつて来たから、
『栄一、貴様は気が狂つたのか? どうしたのぢや、己に向つてその生意気な態度は一体何ぢや』と、叱つた。
お梅も、
『栄一様の目付き。いやな目付き。そんな、いやな目付き、なさるな』と苦しい笑ひと共に栄一を制止せざるを得なかつた。
栄一は急に柔和な笑ひをその青白い痩せた頬に浮べて、喜びに充たされて居る様な瞼の使ひかたをして、
『お父様』と女の様に愛らしい声で低く云つた。そしてまた続けて『お父様』と父を呼んだが今度の声は曇つて居た。そして、も一度『お父様』と呼んだ時には泣き声であつた。然し父は三度が三度まで返事をしなかつた。
栄一は涙をハラ/\と流しながら、
『お父様、一生の御願ひで御座りますから、私の云ふことを御聞き下さい』と皆まで云ひ終らぬうちに咽んで語尾を明瞭に云ふことが出来なかつた。お梅はたゞ四日前悪口を云つたのを気にして栄一の云ひ出すことの遅いのを苛つた。
少し過ぎて栄一は顔を上げる勇気もなく、
『お父様、栄一はお父様の真の子なのですか?――私は何故か知りませぬが心の底からお父様を愛する事が出来ないのです。然し心から底から愛する事が出来る様にと思つて、日に日に泣いて許り居ります。此三日間は大麻山で考へて参りました――どうすればお父様を真に愛する事が出来るかと思ひまして。世界に何か人間の心と心を繋ぐ糸筋の様なものがあれば、その不思議な力でお父様の胸へ私の考へを伝へて呉れと祈つて来たのです……』と云つて俛向いて、泣きながら沈黙した。然し胸の中では、
『諫める? 陳腐な真似をする! 重盛時代にはまだ価値もあつたが、二十世紀には父を諫める男は一人も無い、家を出て女と食付かうとそれで善いのだ。近頃の小説に父を諫めると云ふ様な陳腐な真似をする主人公は一人も無いわい。……』と嘲笑の声が起る。
それをうち消して栄一はまた、
『お父様……』と呼んで『私はお父様。どうも申上げねばならぬ四つ五つのことがあるので御座ります。失礼ですがお父様は御自身で此頃の生活を人間の道を渡つて居らつしやるとお思ひなさいますか? 私はどうしてもお父様の此頃の生活は人間の道を真直に渡つて居らつしやらないと思ふので御座ります。私は之を申上げよう、申上げようと思つて、またお父様に叱られるのが恐ろしいので、卑怯になつて、申上げる事が出来なかつたので御座ります……』
父は頭を垂れて居るがお梅は知らぬ顔をして煙草を燻して居る。
栄一はまた言葉を継いで、
『私は田舎へ帰る度毎に、お父様が田舎のお母様さんに対して無慈悲だと思はざるを得ないのです』
『無慈悲ぢや! 何をぬかすのな』と父は叫んだ。
『さうです、無慈悲です。全く無慈悲です。生きた可愛い女を墓の中へ生き埋めにすると云ふのはお父様の事です』と栄一は云ひ放つた。然し彼は泣いて居る。が、
『凡ては過去だ。過去に冷やかであつた父と本妻の間の関係を現在温かく甦らそうとして居る。父は既に五十六! そして三十年間も本妻と離れて居るのである。三十年を取り返す事が出来るならばその情も熱も取り返す事が出来るだらう。いや始めから情も熱も無かつた。……然し云はずに済ます事が出来るだらうか?――』と頭を悩ました。
『自分も妾の子の癖に何を云つて居る』と心の中で栄一は自らを嘲弄した。今日はいつもの父と違つてよくものを云ふ――。
『黙れ! 栄一。生意気なことをぬかすと承知せぬぞ。お久にはお久だけの食ふものをあてがつてあるではないか?』
お梅はつと立つて便所に出て行つた。栄一はその大きな丸髷が醜く見えた。お梅の後姿を見送つて、稍穏当に、
『私はお父様に叱られても申し上げる事だけは申上げます。少しの間だけ御辛抱して聞いて下さい。もし聞いて下されば私はもう死んでも宜敷う御座ります。お父様。馬詰のお母様のお話によればお父様は此頃非常に株で御損をなされたさうですね。私の一生のお願ひで御座ります。何卒投機だけはお止めなして下さい。話によれば馬詰の家屋敷も皆抵当に入つて居るとか……お父様、これを新見家の先祖に対して何と申訳をなさいますか?』栄一は急に儒者になつた様な気がした。『わしがどうしようと勝手ぢやないか? お前等の知つた事では無いわ。生意気な子伜が何をぬかすんだ。それじや己をどうする積りか? 勝手にさしてやるわ。もう己も年が寄つて役に立たぬからお前の勝手にさしてやるわ』と父は云ひ放つた。
『あなたは自分の金で自分が賭博を打つから善いと仰しやりますか?』と栄一は父に向つて失礼だと思つたが元気づけて云つた。
『ウム、貴様等生意気な書生が何を知るか? 貴様よくも親から今日まで養はれてゐて親に向つて、そんな生意気なことが云はれるな――』父の額に青筋が立つて居る。父は火鉢によつて俛いて色々と考へて居る――。
恁那に家庭が乱れるのも皆運命だ。十六の時に養子に行かなければならなかつた彼は、新見家に養子に来なかつたならば唯大津村の酒屋の次男として世を終らなければならなかつたのだ。そして新見家が無ければ決して学問も出来なかつたし、選挙運動の金も出来なかつたらう。が、お亀を妾にしたのは抑へる事の出来ぬ情熱からだつた。そしてお梅を入れたのも抑へる事の出来ぬ本能の命令に従つたからであつた。お亀を入れた時にお久が反対した。お梅を入れるとお亀の子が反対をするが、皆運命だ。本能を抑へる事が出来たなら此悲劇は起らぬ。が始めからお久の様な十三の小娘に養子にならなかつたら善かつたのだ……運命だ、運命だと思ふと彼は何の責任をも感じない。栄一は続けた。
『それぢや、お父様その御自分の金と云ふのを見せて貰ひませうか? お父様は新見家の財産を片端から使つて置いて何処に自分の金と云ふものがあります!』
かう激烈に詰めかけられてはたまらぬ。
『云ひたいだけ云へよ。然し新見家の財産は盗んだのではないから安心して呉れ』
『盗まぬから善い?』と栄一は反問した。
『何とでもぬかせ。盗賊なら盗賊でも善いわ。賭博うちなら賭博うちでも善い。お前が何程豪らさうに云はうとも恁那大きな家はよう自分手には建てまい。泥棒でも盗人でも善いわ、よ、お前も恁那大きな家に住める様になれえよ。世界には豪い泥棒もあつた者ぢや。市長の椅子を占める泥棒つて、な。安気な公平な泥棒ぢや。行政権を握る事も出来る泥棒ぢや。――』
栄一は沈黙させられた。然し少ししてまた勇気を出して、
『お父様、それぢや、私達はどうしてくださるので御座ります? 妹を、笑や義敬を……』
『どうならうと己の考へ次第ぢや。お前に干渉して貰はんわ。生かさうと殺さうと己の勝手ぢや。お前は長男だから口がきけると思ふと間違つて居るぞ。近い中に益則に相続権を譲つて了ふ積りで居るわ……こちらでは。お前の様な賢い人には泥棒の家を継ぐ事は出来まい。な、否だらう。また継がさぬわい。な、安心した方が善いだらう』
『いや私はお金の一文も他人から貰ひたいことはありません。相続権などは勿論益則が相続したければ悦んで譲りませうよ――』と、云つたものゝ、栄一は涙も涸れ、善の標準も無くなり、唯鉄で作つた機械が胸の中に運転して居るのでは無いかと感じた。
が、また心の中で考へて居る事を皆云つてしまはないので、
『お父様。あなたが私のお父様ですか?』と茫然した問を発した。また之れだけしか発せられなかつた。父は栄一が気狂ひの様な変な顔をして此妙な問を発するので、
『己はお前の父ぢや無いわ』と云ひ放つた。
栄一は頭が変になつて来たのだが、別に自制しようとも思はず、
『ウフア、フア……』と泣きたい様な笑ひをして、目には涙を湛へ『お父様』とまた父を呼んでみた。そして立ち上りながら、
『お父様は何故私を可愛がつて下さらぬのだらう。なぜお父様は栄一を可愛がつて下さらぬのだらう。お父様は何故お母様が死んだ後にすぐお梅を引ぱり込んだのだらう』と柱に倚りかゝつて独り言を云ひ始めた。
栄一は自分手に、気狂ひの真似をしてゐる事に気が付いて居る。妹が折々気狂ひの真似をして田舎の本妻を困らすと云ふ事を思ひ出して居る。然し妹の気が狂ふと云はれる時の心理状態は恁那時を云ふのかと思ふと同情する。気が狂ふと云ふのは高熱の心理状態が普通の人より永く続くのだと想像する。そして此高熱の心理状態の処が何となしに清々して抑圧したくない程面白く感じられる。
『お父様。私はお父様を愛して居るのです。然しお父様が株式や投機に手を出して、女遊びに身を窶すのが嫌ひです』と鶴子が急に乗り移つたかと思ふ様な気がしたので、鶴子の云ふ様な女口調で、優しい声をして云つた。
『私は何故お父様に嫌はれるだらう。私が明治学院へ入学したのが悪かつたかしら? アヽ、然し今頃の様な間違つた世の中で誰が官吏や弁護士になる馬鹿があらう。私が明治学院から帰つたのが悪いのだらうか? お父様は理由も聞いて下さらずに私をお責めなさる? 然し私は……さうぢや。もう云ふまい。僕は勝手に勉強しよう――』と大きな声で自問自答した。栄一はこれだけ云へば父に解るかと思つたのである。
父は先つきから何を感じたか頭を鉄瓶とすれ/\に置いて泣いて居る。が、栄一の態度に何か超自然の力がある様に思はれて恐ろしく感じて居る。
お梅は縁に出て立ち聞きして居たが、二人が沈黙したので這入つて来た。すぐと、
『栄一様は気が狂つた様ですわね』と長火鉢の前に坐つて煙草を入れた箱を膝の上にのせて、長煙管を取り上げながら云うた。また平気な調子で吸ひ始める。
栄一はお梅の下品な態度を見て、
『フン』と鼻で嘲つて家を出た。鶴子を尋ねるのだ。
お梅は旦那が泣いてゐるのを見て、大きな声で笑つた。
『旦那さん、何をお泣きなはるので? 馬鹿々々しい。栄一様の仰しやる位の事が何だす。私など爪の垢とも思つて居りやしまへんわ。旦那それぢやけんいつも云つて居るでへんか? 早やう別嬪さんを栄一様に世話してあげなはれつて。別嬪さんを側へ付けて置いたら、旦那に一言も仰しやりはしませんわ。旦那は私の云ふとほりになさらずに、自分にお困りなさるのですわ――』と得意になつて論ずるやら慰めるやらする。
父の喜一は唯過去を追想して黙つて居る。折々便所の方の縁側から栄一の母の幽霊でも出て来ぬかと見て居た。栄一の顔がお亀の顔に見えて目の先にちらつくのである。