死線を越えて 01 死線を越えて

17話 十七

3,772字 約8分 2022年7月10日 公開

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 家を出て久し振りに鶴子を訪れた。鶴子は栄一の顔の窶れたのに驚いた。原因を尋ねたが栄一は答へなかつた。栄一は初めから熱烈なキツスでも与へられたら答へもしたであらうが、何だか行儀作法の真似をして居る様に思つたから云はなかつた。またその瞬間に鶴子は自分に根本の同情を与へ得る女では無い。鶴子は近世的男性と云ふものも知るまい、たゞ田舎者だと考へたので、沈黙して居た。

 栄一は恋人と云ふ者も無意味であると云ふ気がした。矛盾した世界に何の恋の甘味があるかと疑つた。然し恋は疑つて益々甘味のあるものである。憂ひの恋! 之程奇(あや)しいものは世界に無い。栄一があまりに沈黙して居るので鶴子は熱して来た。そして其手を取つた。然し栄一は恋の興を湧かさうとはしなかつた。今日は恋を嘲笑に来たのだと云ふ気がして悲痛な情が燃えた。手を握られて大麻山の森の中を思ひだす……あの天狗が居ると云はれて居る森の中の三日間を。三抱へもある杉の森の中の小さい祠の中で三日断食して黙想した事……夜更けて杉の枝に風が強く吹き付け、十日頃の青い月が自分の坐つて居る祠堂の中を覗き込む其瞬間、眼をパツと開いて、淋しい歓喜に充され乍ら月を見上げた時の感想を思ひ出す。その時は世界に恋など云ふ『我』の這入つた劇は演じたくないと思つた事を回想する。『然し』と考へて人間の濁つた音声の中にも鶴子の調子の高い会話の中にもあの高い大きな松の枝を渡る風の音の神秘が通つて居ると考へると、頭を傾けて鶴子を見上げたい。鶴子の顔を見上げると眉の間の輝いて居るのは何の為であらう。がまた鶴子を抱くのは何だか子供に恋する様な気もせぬではない。『あの大麻山の森を渡る嵐を一言葉で静めた時、青く光る月を一寸手を挙げて光を消した、その時、それこそ打寛ろいで恋に結び付けたいのであるまいか? 空(くう)と空の世の中から無を探し出した時それが真の喜びではあるまいか?』と思つたりすると馬鹿らしくて鶴子の側に居られぬ。

 栄一は鶴子を抱いて目を閉ぢた。そして鶴子が立ち所に消えて自分の幻の中に現はれて来るなら之が真の恋だと考へた。然し幻の中に鶴子も現はれて来ない。たゞ鶴子のつけて居る香水の薫りが匂ふ許りだ。

 栄一は想ひから想ひに移つて、全身の血脈が皆幻であるかと疑つた。そしてまた現実を我脳中の夢に、客観を風で我幻に変へて終ふ積りだと心にきめた。客観は最早や実在では無い――彼に取つては実在即ち幻で幻即ち実在である。客観は最早や実在で無い。世界は凡て狂つて終つた。栄一は自分の唇を鶴子に近づけて、

『鶴子様。世界の捻(より)が少し狂つて居るよ。北極星が二十三度半傾き過ぎて居るのですよ……』と低い哀れな声で云つた。鶴子は何の意味だか充分解らなかつたので唯黙つて居たが。が、鶴子は栄一が人々に亦自分に対する柔和な親切な愛と同情に云ふに云へぬ気高い秀でた、普通の基督教信者より勝れた徳を見出して居るので、多分また何か他人の為めに苦しんで居るのであらうと思つて居た。鶴子はキツスをした。そして憂ひを帯びた低い声で、

『どうなしたの?』と伏目になつて尋ねた。

『鶴子様はいつ広島へ行らつしやるの?』

『私?』と鶴子は顔を斜にして、

『わたしね、広島へ行きたくないわ――』

『どうしたの?』

『なぜ、あなた、夫(それ)では、此頃そんなに悲しそうにして居らしやるの? 私はあなたを捨てゝ広島へ行くのが何だか心許ないの……』

『私の傍に居てくださる、それぢや! 私も鶴子様に別れるのは嫌ひよ。私は鶴子様が広島へ行くと云つても遣るまい! 鶴子様、私はあなたが行くと云つても遣りませぬよ』

『ア、私も行きませぬよ。かうして死ぬまで居りませうか?……そらさうと此間は庭を掃除して下さつて有難う』

『いゝえ』

『その前は風呂へ水を入れて貰つたりお使に行つて貰つてね。私あなたにほんとに、済みませんね』

『なぜ? 私、貴女の為めなら生命でも捨てますよ』

『それでも私は、私の可愛い人を使ひたく無いもの。ね、貴君は私の可愛い人よ。貴君と私との仲は神様でも切れ無いのよ……』

『それはさうと鶴子様。私はもう近い中にお父様の宅を出る積りなのですよ――』と云つたが、鶴子は驚いて、

『どうしたの?』

『実はね。怒つちやいけませぬよ。皆云つてしまふから。今またお父様と喧嘩して来たの――』

『喧嘩を? 私が喧嘩をしなさるなと云ふのに』鶴子は少し曇つた。

『鶴子様。さう下へ向かなくても善いでせう。私が理由を話するまで聞いて下さいな。私とお父様との関係は毎度云つた通りでせう。もうね鶴子様……どうしても近い中には破裂するのですよ』

『どうしたの? 破裂つてどうしたの?』

『私はもう相続権を取られて了つたの』

『誰方に?』

『お父様は益則に譲るのですつて』

『非道いのねお父様も』

『ね、鶴子様、東京に居つては学資は充分送つて呉れず、帰つて来ては、継子扱ひにせられるつて、ね』

『真にね、同情致しますよ』

『僕は何にも準禁治産者にせられたのはつらくもありませんがね。お父様の僕に為て居らつしやる通り社会に為て居らつしやるのが悲しくて堪らないのですの』

『お……父様はそんなに貴君(あなた)がおいやなの――それぢやおうちに居られませんか?』

『此儘居れば父に殺されるより外は無いと思ふのですよ』

『殺される? あなたが殺されたらどうしませうね?――それであなたはどうなさるの?』

『近い中に私も何処かへ行かうかと思ふのですよ』

『何処へ?』

『さ。あなたのいらつしやる処へ附いて行きませうか?』

『広島へ? それでは? そしてなにをなさるの?』

『何でも善いのですよ。小僧でも、丁稚でも、百姓でも……』

『百姓? わたし百姓嫌ひ!』

『エ、貴嬢(あなた)百姓嫌ひ、フム、あなた百姓嫌ひ? あなたは普通の女学生と違つた処があると思つて居たら、あなたも矢張り普通の女学生と同じね……百姓程神聖な者がありますものか? トルストイのシンプル・ライフ主義には真理が多いのですよ』

『いや、ちよつと云つて見たのですよ。そんな真向うから攻撃していらしやらなくとも善いでせう。アモスなども元は百姓ですね』

と云ひ解けしたが栄一は矢張り自分の立場を弁解しようと、

『実際僕は百姓が恋しくて恋しくて堪らぬのですが、安気な百姓許りが人生ぢやないと思つて居るから今は小学校など教へて居るのですよ』

『ほんとに百姓程神聖な生涯はありますまいね』と今度は鶴子も百姓主義に賛同したが、下からお婆様の声が懸つて、降りて行かねばならぬやうになつた。

 栄一は窓を開いて色々と考へた。もう十五日に近い月が庭を照らして柿の葉、蜜柑の葉、桃の葉が光る。近所は極く静かで何処の家にも光は見えぬ。月の走るのが早い。門口の戸を開いた音がする、鶴子が何処かへ使に行くらしい。栄一はひとり物思ひに沈んだ……

 明治学院を捨てた動機と今の無意味な生活を考へ較べると、情なくなる。そして、人生の凋落を痛切に感じる。

 が、一方では、今度志を立てゝ化学か物理学を研究して大発明でもすれば人生もさう無意味でもあるまいし学校も無意味でもあるまい。社会改良とか宗教とか云ふ様な空想な事を止めて、一つ工科大学へでも這入つて大発明でもやれと云ふ声が心の中に起る。……月が雲から現れた。庭の隅々までよく見える。此実証主義も一種の嘲笑を以て退けた。此の人間が機械の様に働いて機械を発明するのも無意味だ。人間は遊ぶべきだ。科学と云ひ宗教と云ひ道徳と云ひ人生と云ふのは皆大きな遊び道具だ! 芸術は大きな衣服を製造して遊ぶのだし、道徳は小さい人形を、そして宗教は大きな人間を作らへて之も矢張り遊ぶのだ。人生は一種の狂言だ。遊ぶのが人間で、よう遊ばぬのは畜生だ。

 現代の人間は遊び方が間違つて居る。遊び方を人間に教へる必要がある。父を諫めるのも、遊び方が間違つて居るからだ、と反問して自己の今迄取つて来た遊び事の様な哲学研究を弁護した。

 鶴子は思つたより早く帰つて来た。鶴子が二階へ上つて来ても栄一は知らぬ顔して考へて居た。

『あなた、もうあまり考へないのが、およろしいですよ。然し困りましたね。でも神様は人間がどうして善いか皆知つて居らツしやりますわ……』と鶴子はすぐ云つた。

『神様に皆お任せなさいな』かう云つても黙つて居る。鶴子は先ツき自分が百姓が嫌ひだと云つたのを怒つて居るのかと思つて、

『一寸、あなた御免なさいよ。私があなたに反対したのが悪かつたのですか。それで御怒りになつたらお許しなしてよ。ほんとうにあやまりますから』と詫びた。

 別に栄一は怒つて居るのでは無いが、十分許り一言も言葉を発せなかつた。鶴子も知らぬ顔して窓の欄干によつて、沈黙して居る。然しまた何か泣いて居る様であつた。鶴子の泣くのを気にも止めず栄一は胸の中で独り泣いてみた。が、栄一は少したつて鶴子にシエレーの詩でも一緒に読まうかなと云ひ出した。そして一時頃まで鶴子が『面白かつた』と云ふまで一緒にシエレーを読んだ。その夜栄一は強られて鶴子の宅で泊つた。鶴子は自分の室に栄一の床を延べたが、鶴子が床を延べる間にシエレーの話から東京の社会主義党員の活動を話した。鶴子は『愉快ですね』と繰返して居た。

 鶴子は机によつて聖書を一章読んで、下へ降りて行つて寝た。

 栄一は床へ這入つたが夢許りみて寝られなかつた。

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