18話 十八(1)
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この晩から栄一は頭が変になつて、強い震ひが、自分の胸に絶えず起つて居る様に思つた。
そして此の強い震ひは何物にも恐れないが、自分手に自分を顧て折々驚くことを発見した、そしてまた此震ひが強く外界に現はれて来る時には、夢が真やら真が夢やら分別がつかない様な気がして来る。
鶴子の宅で宿つた翌日の夕方、栄一は表庭に水打つことを命ぜられたが急にバケツや杓を破壊したくなつたので、目茶苦茶に壊して終つた。そして我と我身を不憫に思つたので涙を流して泣いて見た。泣いた後、城山の森の中へ隠れたくなつて、夕飯も食はず十二時頃まで大きな樟の木の影で泣いた。十二時頃に鶴子を起してまた泊めて貰つた。
吉三郎とお梅は栄一が全く気狂ひになつたのだと騒ぎだした。
然し栄一はまたその翌日、ナイフと云ふ者は恁那綺麗な柱でも削れるものか知ら、削れるものなら一つ削つて見よう。此柱は父の贅沢のシンボルだ削つても善いなと考へて表の床の間の檜の真柱を二三ヶ所削つて見た。削ると柱の見えが大分悪くなつたので、笑ひたくなつて笑つて見た。恁那笑ひは心持ちが善い。七十五日位長生きするなど考へた。
また、あくる朝であつた。吉三郎は憎い奴ぢやが不憫な奴ぢや一度殴つて頭をなでて可愛がつてやりたいと思つたので、突然頭に拳固を一つ見舞つた。処が『若旦那、何をなさるんだんぞ?』と生意気な口返事をするのが憎かつたから其場へ吉三郎を引き倒して馬に乗つて耳を出来るだけ引張つた。すると吉三郎にも感覚があつたのか泣き出した。それで、『ウフム、アハアハ……』と笑つてみた。
が小学校へ教授に出ると、生徒が皆自分の云ふことを聞くので嬉しくて堪らぬ。それで悧口な美しい女の子を見付けると抱きしめて、心の中で泣いた。女生徒も新見先生に抱かれるのを嬉しがつて居る。
栄一は鶴子を見る毎にぢきに泣きたくなつた。鶴子の魂は栄一の掌に充分這入つて居らずに、這入つてもすぐ指の間から抜ける一種の幽霊の様なものだと思ふからだ。さう云つても鶴子は恋しいから、また鶴子と自分の関係を誰れも邪魔しようと云ふ競争者も父兄も無いから、来る日来る日も会つて夜遅くまで泣いては話し、話しては泣くのが嬉しくて堪らなかつた。
自分には別に気狂ひになつて了つたとは思はないが兎に角、変な事を為て居るとは気が付き乍ら色々ないたづらをして四五日も早や過ぎた。
此間も或時は懐からナイフを取り出してよろこんでみたり、新しい白い倉の壁に『超然』『偉大』『化身』と云ふ文字を大きく楽書したりなどして急しく送つた。
鶴子は、六月二十六日の晩十時の蒸汽船で広島に行くことになつた。
二十六日は早や来た。土曜日であつたが、田舎から至急話したい事があるから帰つてくれと云ふ本妻の手紙を受取つた。――此手紙は既に開封せられて居た。然し別に怒りもせず、お梅や吉三郎がたとへどんな邪推をし悪計を廻らしても臍の垢とも思つて居らぬと心中大いに意気上つて学校を休んで帰つて行つた。
町を出るとパアと打ち開いた吉野川の平野。もう水田が一面に出来て世界を賑かに見せる。樺色の真摯な色が飛び/\の茅葺の屋根に表はれて泰平の気が満ち充ちて居る。
栄一は自分手にバケツや杓を破壊した事が可笑しく不憫になつて来た。何故すぐに恁那打ち開けた日の照る平野に出て来なかつたか、子供じみた気狂ひの真似などもせずにと思つた。
また併し人間の世界に住むならば折々茶碗の一つ位ゐ割る勇気も出て来ねば駄目だ。いや駄目処ぢやない。出す必要がある。必要ぢや無い。それは予定せられて居る。僕は何にも好いて好んで床の間の柱を削りはせぬ。何だか命ぜられた様な気がして削つたまでだ。……とその時の事を回想して事情止むを得なかつたのを弁護して居る。一里二里と大分我家に近づいて、牛屋島の渡しにかゝつた時に、
『アヽ自然より恋人と抱き合ふ方が善い。いやさうでもない。自然の恋人と一緒にある方が善い。恁那に独り歩くと淋しくて堪らぬ。勿論独り居ると気の立つことも無いが。いや恋人と二人で淋しい荒野で暮すならどれだけ楽しからう。荒野だから別にとがめる人もなし。お梅や吉三郎の様に悪口を云ふ人もあるまいし、さうであつた。鶴子と二人で出かけたら善かつたに。いや/\鶴子は馬詰村には恥しくて帰れぬ。アヽ鶴子が恋しくなつた。鶴子が恋しい、僕は鶴子にどうしても一日会はずには居られぬ。今日はどうしても帰つて行かう。明後日、出発するのだから一時間でも多く顔を見て置かう。僕は帰つて直ぐ……』など考へながら歩んだ。
恋人の家屋敷の跡を見た時一寸立ち止まつて、『鶴子様』と口の中で云つて、自分の家の方へ歩を運んだ。
真面目腐つて家に這入ると、母も妹も裏座敷で針仕事を為てゐるらしい、母屋には居ない。裏座敷へ椽を伝ふと、
『お前はんはほんとに鈍なの。恁那処をさへ善う縫はぬので、恁那「オクビ」の処さへな? 恁那なことでお嫁に行けるでかな――』と母が笑を叱つて居るのが聞えた。栄一は椽の外に立つたまゝ、
『お母様。今日は、御病気は如何で居らつしやいますか?』と尋ねたが、内から障子を開いて、
『栄一様で、よく来て呉れたな。手紙は届いたかいな。有難う。お蔭で段々……』と沈んだ様子である。
『栄一様。笑さんはほんまに鈍でこまりますわ。まだ袷の一枚が独りで充分縫へんものですからない』とお久は笑を眺めて云ふ。笑は俛いて『オクビ』を縫うて居る。
『御厄介でせうが、何分によろしくお願ひ申します。併し御病気が段々およろしいのは結構で御座ります……お母様。どんな御用事で御座りますか? 今日は』
『まア内へ這入つて畳の上へお坐りなはれ。そんなに椽の先で踞まずに。今日はまア悠然なはれよ。明日は日曜でせうな。笑さん、一寸座蒲団を持つて来て』
笑は黙つて立つて台所へ走つた。栄一はその後姿を見送つたが、粗末な木綿着に赤い唐縮緬の帯、下手に着物を着て居るから細帯をしめて居るあたりが格別いやらしい。髪は乱れて首筋には汚れが黒くついて居る。大きな足をべた/\と音をさせて走つて行く様は、自分の兄妹だとは決して思へない。
『え、有難う。然し今日は一寸是非とも帰らねばならぬ用事がありましてね』
『栄一様。いつに無い今日は妙な事を云ふな。今夜は泊つてお出でなはれ。私も此二三日少し身体の具合もよし、今日も恁那に起きて坐れる位ゐぢやけんな、今夜は悠然とお話聞かうと思つて居るのぢやがな。東京の話でも――』
『いや然し是非とも今夜は帰らねばならぬことがあるのでしてね』
『さうですか? 用事つて、どう云ふ用事なのです?』
『別に用事と云ふ用事でもないのですが、お友達が此二十八日に広島の方へ行くので話せねばならぬことがあるのでして』
笑が蒲団を持つて来た。
『さ、お敷きなはれ……笑さん、お茶を……さうですか、その様な用事なら別に止めは致しませんがな。私の今日栄一様に来て貰うた用事と云ふのはない、外の事でもないが、お父様が今度急に秋の年貢を四分方引き上げると仰しやるのでない……』
『いつ、そんな事を云つて来たのです?』
『何時つて、一昨日、亀公が町の方から出て来て早や布れて廻つたのですわ。亀公は内に居るよりか町の自分の内に多く居るけんない。内には何にも知りませんわ。処が昨日になつて新田の方の連中が揃ひで内へ遣つて来て不服をとなへるでないで――そら恐ろしかつたでよ。な、笑さん、昨日の朝は恐ろしかつたな』と、茶を持つて来た笑をも話の中へ引張り込む。
『兄さん、どんなに恐ろしかつたか知れませんぜ』
と、応じて継母の機嫌を伺つて居る。
『一体どうしたのです?』
『どうのかうのつて、皆玄関へ並んでな。さう、笑さん何人居つたいぞいな。八九人も居つただらうな』
『さうです。十人も居つたかも知れませんない』
『十人も? 十人も来たのですか?』
『それがな、黙つて、旦那様に御目に懸りたう御座りますと云うて落ち付き払つて、玄関へ皆つか/\と上つてくるでないで』
『誰れが出て行つたの?』
『私は恐ろしかつたから出て行かなかつたがな。初め女中が出て行つたんですわ。そして後から笑さんが出て行つたでわ――な、笑さん』
『そして出て行つたら?』
『旦那様は留守で御座ります』と云はした処が、不服なら馬詰へ来いと亀公が申して参りました。旦那様はお帰りなしていらつしやるに違ひないと云ふでないで、何にもお父様は帰つて来た事はなし、宅には何にも年貢の事など知らんだらうな。そぢやけんそら町の方から云うて参つたのでせうが、私の方では何にも知りません、もし不服がありなさるなら、町の方へお出でなしてと云つた処がない。さう云ふ事があるものか、現在亀公が布れて来たのだから間違ひのあらう筈がない。そして同じ新見でありながら知らぬと云ふ道理はない。知らぬと云ふなら、年貢を納めぬまでぢや。もしそれとも旦那様が居らぬなら奥様でも出て来て呉れと云ふのでよ。ほだけん、奥様は病気で御座りますと云はした処が、それならお嬢様でも善いから出て呉れと下女が云うて来るのでよ。笑さんは恥しいと云うてどうしても出て行かなんだら、お嬢様でも出て来ても呉れな此処を動かぬと云ふのでよ。しようことなしに笑さんを出したら裏座敷まで聞えるやうな大きな声で理窟を並べたてるのでよ――「苗代立てる時に御年貢御上げになるならなると仰しやつて下されば私の方でも考へが御座りますが、もう稲も大きくなりまして肥えの二回もやりました時分に四分上げると仰しやるやうなことでは私共の方ではどうも仕方が御座りませぬ。無理を申しますと警察の方からお手をお廻しになるでせうから無理は申しませぬ。然し善くまア私達の様な貧乏人を御困らせなさりますない。いづれ近々の中には御恩返し致しますからどうぞ宜敷く御内儀の方から、町の旦那の方へお伝言を願ひます。あなたの方から無理仰しやるならこちらも無理を申します。どうせ警察から年貢を取り立てられるのなら私の方から警察の御厄介になる考へで御座りますから、そのお積りで」と落ち付き払つて、こちらが女許りぢやと思うて調子を降ろして云ふで無いで、私は胸糞が悪うなつて来たでよ。何んぼ女でも』
『ヘエ、豪い事が起りましたね』と栄一は別に驚きもせず笑つた。
『ほんとに恐ろしかつたでよ。それで、すぐ十人に暴れられたら如何しようかと思つたでは。男は居らず私は病人なりな。三人が三人ながら殺されるわな。ぢきに』と、稍誇張して、
『フム、お父様は非道い事をしますね』
『こちらが困ることを知つて居つて、こんなことをするぢやけんな。ほんとに困つたな』
『ほんとにお困りでしたね。それで、どうなさいました。それから?』
裏の堀に子供が二三人蝦網をおろして騒いで居る。『モズ』が柿の木の上で喧しく鳴いて居る。
『内の方では全く知らんけん、町へ聞き合せて見てから、よくよくのお話は致しますと云つて置いたのでよ』
『さう云ふと帰りましたか?』
『え、一時間許り、互に相談の様なものをして居つたが、帰つて終ひましたわ。ほだけんど昨日はまたどうせられるかと思つて夜も寝ずに心配して居りましたわ』
『巡査に云つたの?』
『巡査に云うたら善いのぢやけんど。内の恥を曝らす様なもんぢやけんな。それに巡査に云ひに行く途中でどうせられるや解らんと思うて誰れもやりまへなんだわ。……然し栄一様、どれだけ昨日は心配したや知れまへんでよ』
『番頭はどうしたの?』
『番頭と云つた処で宅の人ではなし、恥かしうてお父様が四分も年貢を上げて、新田の人が脅しに来たと云へまへんわ』
『お母様、それでどうなさるの?』
『それで、おまはんに今日至急来て貰うて、おまはんに相談しようと思つて居つたのですわ?』
『さ。然し、私がどうかうつて困りましたね』
『然しどうかせな。な。一体亀公が布れたつて、真だらうか?』
『嘘の様ですね。然し嘘であれば、そんなに怒つて来る筈もありますまいね。お父様のことだから真でせうよ。利子の払ひが出来ずに困つて居るのでせう』
と、半分冗談にして、
『多分それ位ゐだらうな。併し貧乏して来たら、いやな事が色々起つて来るものぢやな。噂ではお父様今度株で六万円損したつて云ふでないで。あれは真で?』
『どうですか? 私も此前帰つた時、お母さんから聞いたゞけのです。六万円損したつて?』
『それぢや、おまはんは一緒に居つても知らんぢやな。六万円も損したさうでよ。亀公がそんなことを云うて居りましたわ』
『もうそんな事は煩さくつて――』
『ほんまにな。もういやになつて来たな。どうせ近い中には此家屋敷も他人に取られて終ふと思うたら』
『なに他人に取られても善いでせんか。裸体で産れたのだから裸体で生きて居つたら善いのでせう。鳥などは寝ても起きても着のみ着のまゝぢやありませんか?』とキリストのソロモンの栄華の譬へを思ひ乍ら、
『併し鳥の様な美しい衣服を着て居るなら私も不服は云ひませんわ。栄一様は男ぢやけん、そんな勝手が云へるけんど、女であつたら、中々そんな事は口には出まへんわ――』
『女ぢやからつて、男と別に変つた事も無いでせう。人間は衣服着て居るより裸体の方がどんなに美しいか知れませんよ』と栄一流の裸体主義を遣り始めた。
『そら理窟から云うたら、まアさうぢやな。併し世の中はそんなに理窟許りで行けんからな』
『理窟ぢやから世に会はんと云ふ道理がありますもんか? 道理ならこそ世の中も渡れるのでせう、道理は世の中に合はしてこしらへてあるのですもの』
『もう栄一様にはかなわぬ。さう来られては。オホヽヽヽそれではどうしたら善いので、栄一様の理窟から考へて――此度の事は?』
『此度の事ですか、何にも困つた事でも無いですよ。私から見たら……』
『何でも無い? 家をどないせられるやら解らんのにない?』
『家が焼かれようが壊されようがどうでも善いですよ。人間が殺されても人間の魂は殺される気遣ひは無いでせう』と極端な議論をする。
『併しまア私は家を焼かれるのは嫌ぢやわ。な、笑さん、さうでないで』笑子はたゞ笑つて居る。
『まア栄一様。そんな事は云はずに今度のことはどうしようで。私また十人も十五人も来られて脅かされるの否ぢやわ』
『卑怯ですわ。お母様、十人や二十人が何ですか?』
『大きなことを云ふな。オホヽヽヽ…栄一様も大分人間が変つたな。な、笑さん』
『さうですない』とまた笑は瞹昧な答をする。
『ほんとに、ほだけんど、どうしような。お父様に尋ねに遣つて真であつた処で、こちらで、どうする理由にも出来んのぢやからない。まア善い恥曝らしぢやな』
『お母様。何にも心配入りませんよ。私が引受けますよ。何に仔細は無いのですよ。お母様。心配は入らぬですよ。小作人の帳面は宅にあるでせう』栄一は内庭の水の無い泉水を眺めて居る。苔が穢い。台所の縁の下に、紫色の薬瓶や、硝子の壊れ物を並べてある。こちらの軒に蜘蛛が巣をかけて居る。お日様でよく照るので蜘蛛の巣が光る。
『エ、ありますよ。……それでどうするので』
『処を調べて端書を出すのですよ。此間四分上げると云うたが都合があつて見合せると云うて――』
『お父様の名前で?』
『お父様の名前でも私の名前でも善いでせう』
『そらまたお父様が怒りまつせ。怒られても知りまへんでよ』
『お父様が怒つた位』お久は笑を顧て、
『笑さん、もうお昼の仕度なされよ。……然しおまはんの善いと思ふ様にしてつかはれ、私はもう心配するのがいやぢやけん』
笑が台所の方へ椽を走る。
『お父様が勝手なことをするから、こちらも勝手にすれば善いでせんか……帳面は何処に』と尋ねて栄一は下女に端書を買ひにやらせて、年貢を引き上げることを見合せると云ふ通知を書いた。
昼食を終つて二時頃まで書くのがかゝつた。途中で便所へ行かうと思つて台所へ来ると、笑が『流し』に立つてお釜の中から水で洗ひ落した飯粒を拾つて食つて居るのを見た。そして実に不憫に思つた。
書き終るとすぐ馬詰を辞して帰らうとした。門を出かけると後から草履で追つかけて来るものがある。
『兄様』と声をかける、誰かと思ふと笑だ。栄一は鶴子の事許り思つて居たので笑子のことを忘れて終つて居た。笑子の顔を見ると涙が出て居る。
『どうしたの笑さん?』と尋ねると、
『兄様、私あなたに聞いて貰ひたいことがあるのですわ』
『どう云ふこと?』
『此処では皆に見られるから、何処か浜の方へでも行きませう』
『笑さん。どう云ふこと? 笑さん今日は叱られたね。ほんとに気の毒だつたね』
笑子は黙つて居る。そしてまた少時して、
『兄様早う。何処か人に見られん処へ行きませう』
と非常に人に見られるのを嫌つて居る様だ。
『それぢや東の新宅の浜へでも行かうか?』
『何処でも善いけんど、お母様に誰れかゞまた告げると、また叱られますわ』と門の方を見てそは/\して居る。
『それぢや急いで行くから追いていらつしやい』と栄一は急いで早足で歩く。笑も小走に追いて行く。土手に上つて、東の新宅の浜の藪影に二人の姿が隠れた。栄一は緑色の新田と青い川を眺めながら笑子に問うた。
『笑さん、どう云ふこと?』
『兄さん、私はもう死なうかと思ふ程辛い事許り……』と咽んで黙つてしまふ。兄は笑子をぢつと見詰めて居たが、貰ひ泣きをして来た。
『笑さん、なぜそんなことを云ふの?』
『私はもう馬詰にどうしても、よう辛抱しまへんわ。昨日ちよつと一枚お皿を壊したら来る人来る人に云うて鈍ぢや鈍ぢやと布れて告るのですわ。今日も朝から怒られて許り居つたのです。私ほんまのお母様があれば……』栄一は唯黙つて居る。田宮の浜から新田へ渡し船が渡る。澄み切つた水に葦がうつる。
『今度田敷の十七になる娘さんが西の新宅の高行さんの処へくるのでせう。其娘さんは、大抵自分手に嫁入の衣裳を縫ふ人ですと、そしたら昨日田敷の叔父様が(お久の従兄にあたる)宅へいらつしやると私の眼の前で「うちのこの子は鈍ぢやけん役に立ちまへんね。針のもちようさへまだ知らんし、茶碗の一つもよう洗ひまへんのでよ」とお母様が仰しやるのでせう。私もうその時死んでしまはうかと思ひましたわ――』
『笑さん、そんな短気を起しては困るね』
『兄さん、併し考へてつかはれ、朝は大抵誰れよりも一番早う起きて大釜の下を焚き付けて、女中さんや番頭さんを起して朝御飯の支度に取りかゝつて、晩と云うたら九時頃まで夜なべさせられるんでせう。それだけ働いてもまだ働きが足らん働きが足らんと仰しやつて追つ立てなさるのでせう。それに一つお皿をめいでも償へと仰しやるのですからない』
『弁償して居るの?』
『え、昨日やかし五銭償ひましたわ』
『お母様そのお金を取る?』
『お取りなさりますとも』と云つて泣いて居る。
『兄様、ほんまに、私の心を察してつかはれ、……女の親には死に別れ、男の親があつてもあの様だし、継母のねきに居るから、女中よりつらい辛抱はせなならず……私はもうどうしてもよう辛抱しませんわ。……三日まへない……』と云つて黙つて終ふ。笑の胸は何から云つて善いかと思ひ乱れて居るのである。十日程前奥でつまみ食ひをして居る所を見付けられて叱られた時のパノラマや、継母の御飯をつぐとつぎ様が下手ぢやと云はれた事、鶏が一匹七日程前に居らぬ様になつたが、罪は自分にきせられた事、御仏壇の掃除が悪いと云つて叱られた事、笑さんはいつも行燈に燈心を四本も入れると云つて叱られた事、朝晩の味噌汁の塩梅にいつも小言を云はれる事……先から先へ考へて行つて、三日前に、継母が床の下に敷いて寝たと云ふ一円札が紛失したと云うて、罪を自分に着せた事を一番新しく鋭敏に思ひ浮べて居るので、この時の感想を始めから云はうとして居るのだが、どうしても口に出て来ぬ。今迄何度か此様な難題をかけられた事も思ひ出す。
それで栄一は『三日前にどうしたの?』と尋ねたが、笑は泣いて返事をしない。暫くして、
『三日前にない、兄さん。わたしが取りもせんのにお母様がお金を盗んだと仰しやるのですよ。一円――。あの、お休みになる時床の下へお敷きなしたんが朝になつて無いのですつて――』
『然し笑さんは自分に盗まぬのだらう。盗まぬのなら何にもそんなに苦にしなくても善いぢや無いかね』
『それでも盗まぬものを盗んだと云はれたら辛うござりますわ』
『なに、それ位の事。町でね、笑さん、こまんさんが今度看護婦になつたゞらうな、あの女中が。そしたらね宅では僕が宅を困らさうと思うて看護婦にした位までに思うて居るのだよ、何だね、人の誤解を恐れる様な人間でどうなる? そら笑さんは辛いだらう。併し僕の事を思つて見給へ。何にも辛い事は無いよ。僕は三度の食事も充分に食はして呉れはしないよ。シヤツなどは勿論自分手に洗ふのさ。そして僕は今これ一枚しか無いのだよ』とメリヤスの半シヤツの垢ににじんだ物を現して見せた。
笑は一目見て泣いた。栄一は、
『そんな大きな声で泣くと上を通る人が不審がるから』と制した。
『お父様と云へばお父様ぢや、自分の子が恁那に困つても知らぬ顔して居るつて……』と笑は恨んで居る。
『笑さん、それはまだ善いがね。此頃学校へ行つても弁当さへこしらへて呉れないのだよ。それに夜は勉強すると油代が多く要るから、朝、勉強せよと云ふの』
『お父様がそれまで――』
『それまでなら善いがね。今度益則に後を譲るつて云つて居るよ』
『あなたを止めて? 兄様を?……』と笑子は驚いて居る。栄一は涙を拭きながら川の上を見たが静かな滑かな海に小波が立つて居る。そして或る処は格別光つて白く見え、或処は青く、紋のやうに見える。実に美しい。
『笑さん、泣きなさるな、私が生きて居る間は笑さんに心配はさゝぬよ。ね、少し待つて居て呉れ給へ』
『然し私は、もう田舎に居るのがいやになりましたわ。こんなに朝から晩まで叱られて許り居つたら、いつか殺されるか死ぬかしますわ』
『併し忍んでいらつしやい、今少しだから。笑さん、今どうするたつて仕方が無いでせう』
『それでも兄さん、私もう十日と馬詰に居るのがいやになりました。噫、妾の子つて辛いもんぢやな……』と云つて泣いて居る。
『妾の子』と云ふ言葉がガクと胸に響くと、栄一は決心の色を現して、
『笑さん、いゝよ。それぢや私に追いていらつしやい。神戸へ行かう。下女奉公でもする覚悟はあるね?』慌てゝ云うた。
『下女奉公? 馬詰より下女奉公の方がどれ位いゝやら……』
『笑さん、それぢや、そのまゝすぐ行ける?』
『私態も何もいりまへんわ。兄様がかまはぬなら追いて行きますよ。併しお金は?』
『いゝよ笑さん。お金は月給の残りが十円許りまだあるから心配は無い。神戸まで之れで充分行ける。一緒に行かう。早く行かう! 宅に悟られん間に』
『それぢや兄さん、私を連れて行つてくださるの?』と袖で涙を拭きながら顔を上げた。その顔には可愛い女の弱い依頼心が現れて居た。
二人の後ろ姿は牛屋島に消えた。車で徳島へ飛んだ。徳島へ着いたのが五時頃であつた。栄一は車の上で、今日は妹に涙の為めの涙を流させられた。――など考へて居た。行く処が無いから滝の山まで曳かして二人は滝の山を散歩した。行先を考へると、お日様がもう西に這入つて再び東から出ぬ様な感じがした。
三重の塔の下に立つて、徳島全市を眼の下に見ながら栄一は笑子に云つた。
『笑さんに下女奉公などさしたくは無いが……ね』
『兄さん、それでも時の運ですよ。星の廻りが悪いのだから仕方が無いんでへんか』と充分明かに覚悟を示して居る。が栄一は、此間は下女を一人出世さして置いて、今一月経たぬ中に、我妹を下女に出さねばならぬ事を悲しんだ。
『ね、笑さん、笑さんが神戸の何処かへ奉公入しても、淋しいと云つて兄さんに手紙は書けないわねえ。それ思つたらほんとに辛いわ。然し笑さん、兄さんが一月に一度か二月に一度は屹度会ひに行きますよ』
『兄さん、私もそれを思つたら辛いけんど。かうやつて兄さんと一緒に居ると何だか私は極楽にでも居る様な気がしますわ。私、そら兄さんに手紙を出す事の出来んのは辛いわ、それでも田舎のお継母様に泣かされるより善いわ……』と安心して居る。何だか不憫だ。
『ア、兄様、中洲に電気燈がついた。綺麗な、御覧』と何だか楽しさうだ。然し栄一は笑が未来に対する何の自覚もなく電気燈を見て居る様を見て、田舎娘の前途を思ひ、目を眩まし、良心を鈍らす誘惑物の多い都会に、彼女を送り出すことを気遣つて涙を落さざるを得なかつた。
『兄様まだ泣いて居らつしやるの?』と笑子は栄一の返事の無いので振りむいて云つた。
『ね、笑さん。笑さんが神戸へ行くのも善いが、病気にでもなつた時はどうしようかと思つてねえ』
『兄様、そんな事を思つたら家を出る事が出来ますものか。兄様が病身だから、そんな事を思ふんですわ。私の様な息災な若者が病気になりますものか?』と微笑んで豪い勢である。
『併し笑様、あなたがあまり元気が善過ぎるので心配するのですよ。田舎の人が町へ出るとそれだから困るのですよ。町が色々と珍しいものだからね。つい浮かされて少しの間は面白くて元気も善いが、漸々に夢が醒めるのですよ。町へ出て脚気に罹る人でも、初めから誰れが脚気に罹ると思ひますか?』と色々誡めると、笑子は黙つて萎れて居る。しをれた処を見ると、また可愛くなつて神戸へ逃してやらうと思ふ。
萎れて居るのを見てあまり哀れに思つたから、
『笑様、滝の焼餅でも食はうか?』と云つた。
『兄様やめませう。十銭のお金でも今は使へまへんでせんか』と咎める。
『兄様、もう中洲へ行きませう。蒸汽は何時に出るのか知らん』
『まだ行くのは早いよ。八時に共同丸が出るが、遅い方は十時だからね』
『もう何時か知らん?』
『もう七時だらう、大分暗うなつたから。緩然した方がいゝですよ。あまり苛らだたなくて』
『それでも蒸汽に乗込まなくちや何だか心配だ――』
『なに心配はない。兄様が付いて居るよ。然し笑さん腹が減らぬ? 何か食ふかそばでも?』
『そばでも? 私は何にも食べたく無いのですが、兄様はお腹が減いたでせう。下へ降りて何かめしあがれ』
それで三宜亭の方から白糸亭の前を通つて神武天皇の銅像の前へ出た。白糸亭の玄関には富田橋竣工祝賀会と筆太く書いた紙が貼つてあつた。三階には三味線や、喧しい声が聞えて居た。栄一は笑子に、
『笑さん、お父様も多分此の中に混つて居るのでせう。安気なものだね。アハハ……』と笑つて話した。
笑子と栄一は晩の八時の蒸汽船で神戸へ行つた。そして相生町の口入屋へ行つて見たが、保証人が入ると云ふので吉田由太郎(船頭)の宅へ引き返して事情を打ち開けて話して万事宜敷く頼む、父の方へは一切秘密にして置いて呉れる様にとくれ/″\頼んで置いて、昼の十二時の蒸汽で引揚げた。
桟橋まで笑子は送つて来たが、栄一は汽船に乗込まうとして一寸笑子を顧て、
『笑様、近い中に全体出て来るかも知れぬよ』と云つたが、
『兄様、屹度出て来て下さい、待つて居りますよ』と笑子は頼む様に云つた。
『未だ乗込むのは早い、まだ少し話しませうか?』と桟橋の先に笑子を連れて行つて、人に聞えぬ様に、
『笑さん、ほんとに、しつかりして働いて下さいよ。御頼みだから』と笑子の顔を見詰めた。笑子は頷垂れて居た。色は黒いが頬のポツと赤い所には決心の情が現れて居た。続けてまた、
『私ね、もうずうと帰らずに居りたい様な気がするがね。も一度なり、二度なり、お父様に云つて見る積りだから帰つて行きますよ。そして駄目だと思つたら出て来ますよ』と云うた。併し其時は寧ろ父の事より鶴子の事を思つて居た。そして鶴子の美しい薔薇色の頬と鬢の散らばつて何とも云へぬ姿を想像した。
笑子は『そら、その方が善いのですよ。二人とも隠れて了つたら、屹度後から探しに来るでせう。さうすると事が面倒になりますからない』と兄の意見に賛成した。
話して居る中に汽笛が鳴つたので、栄一は急いで乗込んだ。船は間もなく桟橋を離れた。残された笑が淋しさうに桟橋に立つて居るのを眺めてゐたが、男らしく無いと思つたから三等室に降りた。併し三等室の暗い隅に兵庫の桟橋が現れて、そこに背の低い、髪の縮れた、頬のパアと赤くて色の小黒い、目のパツチリした手のたゞれた不憫な女が俛いて立つて居るのを見た。